主ご自身が、彼らの相続地2018年01月14日

 彼ら(レビ部族)は、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。
申命記18章2節

 「主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である」。とても励まされる神さまのおことばです。このレビ部族、創世記29章に記されているようにヤコブの子どもとして誕生します。創世記29章34節「彼女はまたみごもって、男の子を産み、『今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから』と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた」。レビとは「結ぶ」という意味の名前です。そしてそのレビ部族に神さまが与えられた役割は、神さまと民とを結ぶ祭司の役割でした。
 さて私たちのキリスト教プロテスタント派は、宗教改革者マルティン・ルターの「万人祭司」の考え方にあるように、クリスチャンひとりひとりが、祭司、つまりレビ部族の役割を担う存在であり、そのクリスチャンに神さまと回りの人たちを結ぶ働きが託されているのです。
 そのように考える時、上記申命記18章2節のことばは、私たちクリスチャンにも向けられていることばです。クリスチャンの相続地は、この世にはないけれども、「主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である」と読ませていただく時、私たちも慰められ、励まされます。
 イエスさまもヨハネの福音書15章19節で次のように語られています。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」。ヨハネの福音書17章16節「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」。
 私たちはこの世の者ではないからこそ、私たちの相続地はこの世にあるのではなく、主の元にあるのです。今週も、この世での報いに期待し過ぎず、神さまご自身が、私たちの相続地であることを喜び感謝し歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)