無割礼の心2017年01月08日

しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。
レビ記26章41節

 レビ記の全シリーズは今回で最後となります。そして、今回は最後のくくりである23章から26章の2回目で、24章と26章に注目します。この24章と26章は、神の聖を冒涜すること、また、人が冒涜の歴史を歩むことが記されています。そして、その冒涜の歴史の末に言われていることが上記の箇所です。冒涜の咎が償われていくためには、無割礼の心がへりくだる必要があるのです。
 では、無割礼の心とはどのような意味なのでしょうか。
 まず、重要なのは「無割礼」という言葉です。無割礼とは割礼が施されていないことを意味します。割礼とは、神と神の民の契約において重要な事柄で、男性の生殖器の包皮の先を少し切り、包皮で覆われていた部分を露わにする行為を指します。イエス・キリストの到来以後、これは象徴的行為として受け止められ、実際的な割礼は無くなりました。無割礼の心とは、割礼が施されていない心なのです。つまり、無割礼の心がへりくだるとは、割礼が施されている状態の心になることでしょう。
 では、それはどのような心が求められているのでしょうか。
それは、割礼が施されている生殖器のように、心の隠されている部分が露わになっているということです。しかし、それは容易なことでありません。もし、男性であれば、割礼には相当な痛みが伴うことは想像するのは難しくありません。同じように、心に割礼を受けるとは相当な痛みや苦しみが伴うことなのです。しかし、それが求められています。このレビ記のシリーズで、何度も自らの心と向き合うことを教えられてきました。その心と向き合う行為は痛みや苦しみが伴う行為なのです。自らの心と向き合うことによる痛みや苦しみを避けては、割礼の心には至りません。神に対する冒涜の歴史を歩むのではなく、神の目から見て割礼を受けている、全てが露わになった心を目指していきましょう。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)