30歳以上から祭司の務め2017年02月05日

 それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。                          民数記4章3節
 
 民数記4章に繰り返し出てくる言葉で気になるのが上記聖書箇所に登場する「30歳以上50歳までのすべての者」です。この言葉は、上記3節以外に、23節、30節、35節、39節、43節、47節と登場します。
 またこの「30歳以上50歳まで」という年齢が、特別に感じられるのは、民数記1章で人口調査の対象になっていたのが「20歳以上の者」(1章9節、18節、20節、22節、24節、26節、28節、30節、32節、34節、36節、38節、40節、42節、45節)と繰り返し記されていたからかもしれません。
 しかし、祭司の務めが30歳からというのは頷けます。兵力としては20歳から考えられたとしても、礼拝の働きをなすのにはさらに年を重ね30歳になってからというのはとても大切なことです。
そして考えてみるとイエスさまが、公生涯に入られたのも「およそ30歳」(ルカの福音書3章23節)でした。またヘブル人への手紙5章5~6節で聖書ははっきりとイエスさまのことを「大祭司」「メルキゼデクの位に等しい祭司」と書いています。さらにパウロも回心してから約20年以上経った後、つまり十分に30歳以上になって書いた書簡においてこのように書いています。「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです」(ローマ15章16節)。このようにパウロも「祭司の務めを果たしている」という思いがあったことが分かります。
 私たちも、年齢が30歳以上になっていく中にあって、または信仰歴が30年以上になっていく中で「祭司の務め」を意識した信仰の歩みを重ねていきたいものです。(吉持日輪生)

罪の告白2017年02月12日

 「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。」         民数記5章6~7節
 
 今回、民数記5章において目を留めたいのが「罪の告白」です。今の時代の信仰においてもとても大切な「罪の告白」ですが、民数記5章にはその「罪の告白」のことが記されています。私たちの「罪の告白」のプロセスは「罪を認め」「罪を告白し」「イエスさまの十字架の償いに立つ」という流れですが、民数記においても同じです。「罪を認め」「罪を告白し」「償いをなす」という流れです。神さまは、数千年前の人間に対しても、また21世紀に生きる私たちにも、同じように罪を認め、罪を告白し、罪の償いをなすように求めておられるのです。
 では「罪を告白する」歴史はいつから始まっているのでしょうか。それは、「罪を告白しなかった」出来事から始まっていて、そのことが創世記3章に記されています。アダムとエバが罪を認めなかったところです。創世記3章11節で神さまから「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われたアダム(人)は、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(創世記3章12節)と、罪を認めず、罪の責任を妻に転嫁しています。そして次に神さまは、妻に問いかけます。創世記3章13節「あなたは、いったいなんということをしたのか」、この返答は「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と、妻も罪を認めず、その責任を蛇に転嫁しています。
これが私たちの弱さです。だからこそ聖書は、神さまの前に罪を認め、罪を告白し、罪の償いをなすように求めるのです。私たちも、今週、どんな小さな罪でも、どんな大きな罪でも、罪を認め、罪を告白し、そしてイエスさまの十字架の贖いに立ち、再び立ち上がり、歩み始めましょう。(吉持日輪生)

ナジル人2017年02月19日

彼は、ナジル人としての聖別の期間は、【主】に聖なるものである。
民数記6章8節

 今回は、吉持尽主が恵泉を担当します。このナジル人について修士論文で取り扱ったことがあるためです。
 ナジル人とは、特別な誓いをして一定期間、自らを聖別した者のことです(民数6:2)。身を聖別するための規定は、当時の聖職者の中で最も聖であった大祭司と同等の困難さを持つほどの厳しいものです(民数6:3–7)。それらの厳しい規定を守ることで、ナジル人は聖となることができるのです。そして、自らが決めた聖別の期間を終えると、ナジル人はいけにえを携えて、会見の天幕の入り口に来て、ささげ物を献げなければなりません。しかし、これは不可解です。特にそのささげ物の中に、罪のためのいけにえが含まれていることは大きな問題です(民数6:14)。なぜなら、聖となっていたナジル人に贖わなければならない問題があることを予期させるからです。
 なぜ、聖であるナジル人が罪のためのいけにえを献げなければならないのでしょうか。論文に詳しい議論が記されていますが、結論を述べると、そのナジル人は外面的に聖となっていたが、内面の聖には至っていないからです。そもそも、ナジル人になろうとする人物は、厳しい規定を行えば、一定期間でも自らは聖になれると思っている高慢さがあることがうかがえます。そのような人物が果たして聖なる人物なのでしょうか。
 神様は、このナジル人の規定を通して、人間の奥深くにある汚れ、聖とはほど遠い内面を教えようとしています。聖となるとは神様のものになることであり、自らの手や自らの行動によって神様のものになることが不可能であることもこの箇所は暗示しています。
 私たちが日々歩む中で、自らは正しい人間、良い人間であるかを問うてみてください。もし、自らの奥深くに汚れ、聖とはほど遠い内面があるのであれば、それを神様によって取り扱って頂く必要があります。自らを省みながら、神様に近づかせて頂く歩みをしましょう。                参考文献:吉持尽主「ナジル人としてのサムソン」
(吉持尽主)

ささげ方とその分け方2017年02月26日

車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。                      民数記7章7~9節

 民数記7章には、「祭壇奉献のささげ物」について記されています。その内容は、とても単調ですが、注目すべきテーマがあります。それは「ささげ方とその分け方」です。
 7章2~9節には「部族の長たちで、登録を担当した者」のささげ物について記されています。その内容は「彼らはささげ物を主の前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来た」(民数記7章3節)。また7章10~83節には、「族長たちからのささげ物」について記されていますが、その内容は、ひとりひとり全く同じで、「銀の皿一つ、その重さは百三十シェケル。銀の鉢一つ、これは七十シェケルで、聖所のシェケルによる。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。また香を満たした十シェケルの金のひしゃく一つ。全焼のいけにえとして若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭。罪のためのいけにえとして雄やぎ一頭。和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄やぎ五頭、一歳の雄の子羊五頭」です。これが族長ひとりのささげ物でした。このように「ささげ物」の内容は、ひとりひとり同じなのですが、その分け方には違いがありました。それが上記聖書箇所です。
 「部族の長たちで、登録を担当した者」のささげ物は、全部で「おおいのある車六両と雄牛十二頭」でしたが、その分け方は「ゲルション族に車二両、雄牛四頭」「メラリ族に車四両と雄牛八頭」、そして「ケハテ族には何も与えなかった」とあります。その理由は、簡単に言うと「必要なかったから」ですが、違和感を覚えます。
 これと同じ姿勢が、現在の教会にも受け継がれています。教会は、豊かな人や、ごく一部の人の献金で成り立っているのではなく、ひとりひとりの尊い献金によって営まれています。けれどもその分け方、使われ方は、まさに必要に応じてです。今日もあなたの尊い献金が、必要なところで用いられ、教会の働きが進められていきます。祈りつつ献げ、また献げたものが必要な所で用いられるように祈りましょう。(吉持日輪生)