聖なる時2017年01月01日

あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。     レビ記25章10節

 今回から、レビ記最後のくくりである23章から26章を取り扱います。このシリーズでは、27章は割愛します。さて、23章から 26章の構造には特徴があります。23章と25章は聖なる時について、24章と26章は冒涜について記されているのです。今回は、23章と25章に記されている聖なる時に注目します。
 23章と25章には、7という数字を中心に聖なる日や年が定められています。
・7日目の安息日 ・7回目の安息日の翌日50日目 ・第7の月の1日目 ・その他祭りの日 ・7年目の安息年 ・7回目の安息年の翌年50年目のヨベルの年
 規定では、これらの日や年を聖とするよう命令されています。そして、7年目の安息年と50年目のヨベルの年には食物を育てることや収穫が禁じられ、それ以外の上記の日には仕事が一切禁じられています。
 これらのことは何を示し、聖とはどのような関係があるのでしょうか。
 これらは人による自らのわざをやめさせようとしているのです。これら全てを守るなら、7日に1度、2ヶ月に1度、仕事をせず、さらに、7年目には食物を得るために何もすることはできません。また、ヨベルの年には、自分が得た土地や奴隷たちを規定に従って、手放さなければなりません。つまり、50年、もしくはそれより短い期間、自らの手で築き上げてきた財産のほとんどが無に帰するのです。この規定と向き合うのであれば、人は自らのわざで何かを築き上げたり、成し遂げようとしたりすることがどれだけ無意味なことかを知るでしょう。それを知る人は、自らのわざを自分自身のためだけに用いることから解放されていくはずです。このことが聖に、「自己中心の心がない姿」に結びついてくるのです。聖なる人とは、自らのわざで何かを築き上げたり、成し遂げようとしたりしません。自らのわざは虚しいと知り、全てのものは神のものであると認め、神の前に誠実に生きるのです。そこに自己中心の姿はなく、聖なる姿があるはずです。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

無割礼の心2017年01月08日

しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。
レビ記26章41節

 レビ記の全シリーズは今回で最後となります。そして、今回は最後のくくりである23章から26章の2回目で、24章と26章に注目します。この24章と26章は、神の聖を冒涜すること、また、人が冒涜の歴史を歩むことが記されています。そして、その冒涜の歴史の末に言われていることが上記の箇所です。冒涜の咎が償われていくためには、無割礼の心がへりくだる必要があるのです。
 では、無割礼の心とはどのような意味なのでしょうか。
 まず、重要なのは「無割礼」という言葉です。無割礼とは割礼が施されていないことを意味します。割礼とは、神と神の民の契約において重要な事柄で、男性の生殖器の包皮の先を少し切り、包皮で覆われていた部分を露わにする行為を指します。イエス・キリストの到来以後、これは象徴的行為として受け止められ、実際的な割礼は無くなりました。無割礼の心とは、割礼が施されていない心なのです。つまり、無割礼の心がへりくだるとは、割礼が施されている状態の心になることでしょう。
 では、それはどのような心が求められているのでしょうか。
それは、割礼が施されている生殖器のように、心の隠されている部分が露わになっているということです。しかし、それは容易なことでありません。もし、男性であれば、割礼には相当な痛みが伴うことは想像するのは難しくありません。同じように、心に割礼を受けるとは相当な痛みや苦しみが伴うことなのです。しかし、それが求められています。このレビ記のシリーズで、何度も自らの心と向き合うことを教えられてきました。その心と向き合う行為は痛みや苦しみが伴う行為なのです。自らの心と向き合うことによる痛みや苦しみを避けては、割礼の心には至りません。神に対する冒涜の歴史を歩むのではなく、神の目から見て割礼を受けている、全てが露わになった心を目指していきましょう。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

ひとみのように見守り、御翼の陰にかくまわれて2017年01月15日

 イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。           民数記1章2節

 「民数記」は、書名通り「民の数を記す」ところから始まります。しかし、当時のイスラエルの民全員の人数を数えたわけではありません。上記2節にある通り「すべての男子」の人口調査であり、さらに18節を読むと「第二月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した」とありますから「20歳以上」の人口調査であったことがわかります。また20節を読むと「イスラエルの長子ルベンの子孫は、氏族ごと、父祖の家ごとの、その家系の者であって、ひとりひとり名を数えられた二十歳以上で軍務につくことのできるすべての男子であった」とあることから、「軍務につくことのできる」人の人口調査だったこともわかります。つまりまとめると「20歳以上で軍務につくことのできるすべての男子」の人口調査でした。そしてその人数は、「60万3550人」(46節)であったと記されています。
 さてこの「約60万人」という数字が、多いのか少ないのかですが、現在の日本の自衛隊が約23万人(防衛省発表、2016年3月末)と考えると、その2.6倍の軍隊を持つ集団は、当時の近隣諸国にとってとても脅威に感じたことでしょう。
 創世記に記されているヨセフの時代、最初にエジプトに入ってきたヤコブ一族の人数は70人(出エジプト記1章5節)でした。神さまは、このヤコブ一族をエジプトという大国の懐に抱かせながら、約60万人の軍隊を持つ国へと導かれたのです。長い歴史を通して現わされたくすしい神さまの御業です。
 「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください」(詩篇17篇8節)。今週も、この神さまに信頼して歩みましょう。(吉持日輪生)

私たちの間に臨在する神さま2017年01月22日

 イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。                          民数記2章2節

民数記2章には、「天幕(幕屋)」を中心とした、各部族の配置が記されています。それが左図ですが、これを見て何か感じるものがあるでしょうか。私の印象は「12部族すべてが同じ方向を向いていなかった」というものでした。
図にある通り「天幕(幕屋)」を中心に3部族がお互いに向き合っています。西の「エフライム」「マナセ」「ベニヤミン」の向かいには、「ユダ」「イッサカル」「ゼブルン」が位置し、北の「ナフタリ」「アシェル」「ダン」の向かいには、「ガド」「シメオン」「ルベン」が位置しています。同じ「約束の地」を目指すイスラエルの民がみな、同じ方向を向いていなかったというのは、私にとってはとても新鮮でした。そして教会のあり方についても、この宿営のようでいいのだと再確認させられました。
 つまり教会も、みなが同じ方向に向かなければ「約束の地」へとたどり着けないのではなく、共に「約束の地」を目指すからこそ、私たちもお互いに向き合うのです。そして意見をぶつけ合い、やり方について、考え方について意見交換をし、時に対立や、理解し合えない時もあるけれども、その間に「神さまの臨在する天幕(礼拝)」を置きながら、お互いに理解し合い、お互いに整えられていくのです。これが神の民の姿、教会の姿です。
 ヨハネの福音書1章14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。今週も、対立する人間関係の間にイエスさまを置いて共に「約束の地」を目指しましょう。                 (吉持日輪生)

すべてはわたしのもの2017年01月29日

 わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。
                         民数記3章12節

 民数記3章には、「レビ人(部族)」が祭司アロンにつき添い、仕える部族として選ばれていることが記されています。そしてレビ人(部族)が、その役割を担う理由についても触れています。それが上記聖書箇所です。
 その内容は「レビ人はわたしのもの」だから、「イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに」するとの主張ですが、その根底にある神さまの教えは出エジプト記まで遡ります。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである」(出エジプト記13章2節)。つまり神さまはここで「イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子」は「わたしのもの」と語り、その初子の代わりに「レビ人(部族)」を「取ることにした」と言っています。しかも、神さまは「レビ人(部族)」に対しても、「レビはわたしのもの」と語っています。なぜ「レビはわたしのもの」なのでしょうか。創世記29章から「レビ」の出生を調べると、彼はヤコブ(イスラエル人の始祖)の初子ではありません。ヤコブ(イスラエル人の始祖)の初子は、レアが産んだ「ルベン」で、「レビ」は3番目です。しかし神さまは、その「レビ」を選び、「レビ人はわたしのもの」と主張しているのです。
 つまり「初子でないレビに対して、レビ人はわたしのもの」と主張しているのです。なぜでしょうか。その理由を探るのに参考にしたいのが、民数記3章13節と45節最後に記されている「わたしは主である」(民数記3章13節b、45節b)の言葉です。
 神さまは、「主」だからこそ、すべては神さまの思い、すべては神さまのお考えの通りに進められるのです。「初子がわたしのもの」であるだけでなく、「すべてのものがわたしのもの」なのです。だとするならば、私たちに求められていることは、それを受け止め、それに従うことです。
 今週も、神さまがあなたの歩みの上になしてくださる一つ一つの出来事を、「神さまのなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3章11節a)と告白しつつ、肯定的に受け止めて前進していきましょう。(吉持日輪生)