神の怒りを受ける人間2016年11月20日

その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。              レビ記1章4節

 前回からレビ記に入りましたが、今回は、レビ記の1つ目のくくり、1章から7章を見ていきましょう。ここには、献げものに関しての規定が記されていて、様々な重要な要素があります。今回は、その中でも「贖い」に注目します。
 聖書学者の中で、この「贖う」とは、償い( expiation )なのか、なだめ( propitiation )なのか、議論がありました。この議論は、なだめ( propitiation )のためにいけにえを献げるのだという結論に達しました。
 では、私たちは、誰をなだめる必要があるのでしょうか。それは、もちろん神さまです。私たち、罪人として生まれた人間は、生きているだけで神さまの怒りを受けています。私たちは、その怒りをなだめるためにいけにえが必要とされているのです。
 また、なだめのためにいけにえで必要とされているものは何でしょうか。それは、いのちです。私たちはいのちを持って、神さまの怒りをなだめなければならないのです。レビ記には、このように記されている箇所があります。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ記 17:11)つまり、私たちは贖い、すなわち神さまの怒りをなだめるために、いのちである血を流さなければならないのです。神さまと関わろうと思うのであれば、神さまの怒りをなだめる血が必要なのです。
 神さまにとって、罪ある者として生きる人間は、不快な存在です。そのような不快な存在に怒るのは当然のことです。私たちは、キリストによって、贖いの道が用意されていることを知っているかもしれません。しかし、それ以前に、私たちが神さまから怒りを受ける存在であるという事実も受け入れ、知っていく必要があるでしょう。       参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

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