神に喜ばれるささげ物2016年11月27日

穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは【主】への火によるささげ物の最も聖なるものである。         レビ記2章 10 節

 今回も、1章から7章のくくりから、献げものについて見ていきます。レビ記には、5つの献げものが記されています。1つ目は、全焼のいけにえ、2つ目は、穀物のささげ物、3つ目は、和解のいけにえ、4つ目は、罪のためのいけにえ、5つ目は、罪過のためのいけにえです。これらは、神に喜ばれる順序で記されており、1つ目の全焼のいけにえが神の最も喜ぶささげ物です。
 さて、2つ目から4つ目のささげ物では、それらが「聖」であると記されています。1つ目の全焼のいけにえは、聖であるとは明記されていませんが、注意深く読んでいけ
ば、聖であることが分かります。
 では、これらのささげ物はどのような経緯を通って、聖となっていくのでしょうか。それは、ささげ物が切られ、あらゆる部分に分けられ、内臓も取り分けられ、焼かれることによってです。ここには、私たちが神の前で聖とされていく上で必要なことが指し示されています。その必要なこととは、私たちの心も切られ、心の奥底まであらわにされ、焼かれて、無くなっていくことです。すると、「心」を無くして、生きていくことが聖なのかと思われるかもしれません。しかし、ここでは、どのような「心」が無くなっていくかが重要です。それは、生まれながら罪に陥っている人間が持つ自己中心の心です。神の前に聖となるとは、神の前で自己中心の心が切られ、あらわにされ、焼かれて、無くなっていくことが必要なのです。
 私たちは、日々、どのような心を持って歩んでいるでしょうか。自己中心の心で歩んでいるのであれば、それを神は喜ばれません。神に受け入れられていくには、私たちには、自己中心の心ではない、全く別の新しい心が必要です。ぜひ、この機会に、自らの心をかえりみましょう。もし、そこに自己中心の心があるのであれば、それは、神の前では罪ある人間であるという証拠です。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

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