律法から知る ― 2016年11月13日
【主】はモーセを呼び寄せ、 会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
レビ記1章1節
先週、出エジプト記が終わり、今回からレビ記を扱っていきます。これまでは、1章ずつ注目し、聖書を共に見てきましたが、レビ記に関しては、テーマごとに何章かをひとくくりにし、扱っていきます。まず、レビ記がどのような書物であるかを確認していきましょう。
レビ記は、旧約聖書の3番目に位置する書物であり、一部を除いて、律法と言われる規定が書かれている書物です。また、レビ記は、イスラエルの民がシナイ山に着き、モーセがシナイ山の山頂で神から十戒を含む命令を受け取り、その命令を元に完成した「会見の天幕」から告げられたものです。そのため、書物としては多くのページが割かれていますが、時間の流れとしては、出エジプト記 20 章からレビ記最後、あるいは民数記まで、それほど時間が経っていません。
レビ記では、「レビ記」という名前ですが、レビ人に限らず、祭司や民に対して、守るべき律法が教えられています。そして、この律法を守るかどうかは、生死を分けるものであると伝えられています(レビ 18:5)。それほどまでに重要なものとして、レビ記の律法は与えられたのです。
では、イスラエル人に与えられた律法を、私たちが読み、学ぶということはどういう意味があるのでしょうか。このレビ記の律法は、神がただ守れば良いとして与えられたものではありません。神が、人間が律法に取り組み、あるべき姿、心に到達して欲しいと願い与えたものです。私たちは、それを読み取る必要があるのです。
次回から、レビ記の内容を詳しく探っていきます。そこから、私たちに教えられている神の望む生き方を見いだしていきましょう。
また、私たちは教会で行われていること、聖書で教えられている行動をただ実行すれば良いというものではないと気付く必要があるかもしれません。それを通して、神が何を望んでいるのかを共に考えていくことができたらと願っています。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)
レビ記1章1節
先週、出エジプト記が終わり、今回からレビ記を扱っていきます。これまでは、1章ずつ注目し、聖書を共に見てきましたが、レビ記に関しては、テーマごとに何章かをひとくくりにし、扱っていきます。まず、レビ記がどのような書物であるかを確認していきましょう。
レビ記は、旧約聖書の3番目に位置する書物であり、一部を除いて、律法と言われる規定が書かれている書物です。また、レビ記は、イスラエルの民がシナイ山に着き、モーセがシナイ山の山頂で神から十戒を含む命令を受け取り、その命令を元に完成した「会見の天幕」から告げられたものです。そのため、書物としては多くのページが割かれていますが、時間の流れとしては、出エジプト記 20 章からレビ記最後、あるいは民数記まで、それほど時間が経っていません。
レビ記では、「レビ記」という名前ですが、レビ人に限らず、祭司や民に対して、守るべき律法が教えられています。そして、この律法を守るかどうかは、生死を分けるものであると伝えられています(レビ 18:5)。それほどまでに重要なものとして、レビ記の律法は与えられたのです。
では、イスラエル人に与えられた律法を、私たちが読み、学ぶということはどういう意味があるのでしょうか。このレビ記の律法は、神がただ守れば良いとして与えられたものではありません。神が、人間が律法に取り組み、あるべき姿、心に到達して欲しいと願い与えたものです。私たちは、それを読み取る必要があるのです。
次回から、レビ記の内容を詳しく探っていきます。そこから、私たちに教えられている神の望む生き方を見いだしていきましょう。
また、私たちは教会で行われていること、聖書で教えられている行動をただ実行すれば良いというものではないと気付く必要があるかもしれません。それを通して、神が何を望んでいるのかを共に考えていくことができたらと願っています。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)
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