旅路にある間2016年11月06日

 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。                出エジプト記40章36~38節

 ついに出エジプト記も最後の章、40章になりました。私が赴任した2年半前から緩やかな講解説教をしたいと考え、創世記1章から1章ずつ読み進めて来ました。途中、笠川路人伝道師の神学校で学んできたことや、また今年は、吉持尽主伝道師の旧約聖書からのいくつかのメッセージも入りましたが、こつこつと重ねて、ついに出エジプト記40章まで読み進められたことは、本当に主にあって感謝です。
 さて上記聖書箇所は、出エジプト記最後の章、40章の最後の部分です。この中には、出エジプト記の物語だけでなく、イスラエルの歴史や、聖書の神さまを信じる全てのキリスト者に当てはまる印象深く、かつ象徴的なことばがあります。それは「旅路にある間」です。「出エジプトの旅路にある間」「イスラエルの歴史という旅路にある間」イスラエルの民は、そして「クリスチャンという旅路にある間」、私たちもここに記されている通り、雲が上がれば旅立ち、雲が上らないと旅立たないのです。ですから私たちも、出エジプトの民と同様、昼も夜も雲を見上げて歩むのです。この雲は、神さまの臨在を現しています。
 私たちも、人生という旅路にある間、神さまを見上げ、神さまが動かれる時には、私たちも動き、神さまがとどまられる時には、私たちもとどまる、この姿勢を大切にして歩みましょう。
 さて次からレビ記になりますが、吉持尽主伝道師が担当します。(吉持日輪生)

律法から知る2016年11月13日

【主】はモーセを呼び寄せ、 会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
レビ記1章1節

先週、出エジプト記が終わり、今回からレビ記を扱っていきます。これまでは、1章ずつ注目し、聖書を共に見てきましたが、レビ記に関しては、テーマごとに何章かをひとくくりにし、扱っていきます。まず、レビ記がどのような書物であるかを確認していきましょう。
 レビ記は、旧約聖書の3番目に位置する書物であり、一部を除いて、律法と言われる規定が書かれている書物です。また、レビ記は、イスラエルの民がシナイ山に着き、モーセがシナイ山の山頂で神から十戒を含む命令を受け取り、その命令を元に完成した「会見の天幕」から告げられたものです。そのため、書物としては多くのページが割かれていますが、時間の流れとしては、出エジプト記 20 章からレビ記最後、あるいは民数記まで、それほど時間が経っていません。
 レビ記では、「レビ記」という名前ですが、レビ人に限らず、祭司や民に対して、守るべき律法が教えられています。そして、この律法を守るかどうかは、生死を分けるものであると伝えられています(レビ 18:5)。それほどまでに重要なものとして、レビ記の律法は与えられたのです。
 では、イスラエル人に与えられた律法を、私たちが読み、学ぶということはどういう意味があるのでしょうか。このレビ記の律法は、神がただ守れば良いとして与えられたものではありません。神が、人間が律法に取り組み、あるべき姿、心に到達して欲しいと願い与えたものです。私たちは、それを読み取る必要があるのです。
 次回から、レビ記の内容を詳しく探っていきます。そこから、私たちに教えられている神の望む生き方を見いだしていきましょう。
 また、私たちは教会で行われていること、聖書で教えられている行動をただ実行すれば良いというものではないと気付く必要があるかもしれません。それを通して、神が何を望んでいるのかを共に考えていくことができたらと願っています。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

神の怒りを受ける人間2016年11月20日

その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。              レビ記1章4節

 前回からレビ記に入りましたが、今回は、レビ記の1つ目のくくり、1章から7章を見ていきましょう。ここには、献げものに関しての規定が記されていて、様々な重要な要素があります。今回は、その中でも「贖い」に注目します。
 聖書学者の中で、この「贖う」とは、償い( expiation )なのか、なだめ( propitiation )なのか、議論がありました。この議論は、なだめ( propitiation )のためにいけにえを献げるのだという結論に達しました。
 では、私たちは、誰をなだめる必要があるのでしょうか。それは、もちろん神さまです。私たち、罪人として生まれた人間は、生きているだけで神さまの怒りを受けています。私たちは、その怒りをなだめるためにいけにえが必要とされているのです。
 また、なだめのためにいけにえで必要とされているものは何でしょうか。それは、いのちです。私たちはいのちを持って、神さまの怒りをなだめなければならないのです。レビ記には、このように記されている箇所があります。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ記 17:11)つまり、私たちは贖い、すなわち神さまの怒りをなだめるために、いのちである血を流さなければならないのです。神さまと関わろうと思うのであれば、神さまの怒りをなだめる血が必要なのです。
 神さまにとって、罪ある者として生きる人間は、不快な存在です。そのような不快な存在に怒るのは当然のことです。私たちは、キリストによって、贖いの道が用意されていることを知っているかもしれません。しかし、それ以前に、私たちが神さまから怒りを受ける存在であるという事実も受け入れ、知っていく必要があるでしょう。       参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

神に喜ばれるささげ物2016年11月27日

穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは【主】への火によるささげ物の最も聖なるものである。         レビ記2章 10 節

 今回も、1章から7章のくくりから、献げものについて見ていきます。レビ記には、5つの献げものが記されています。1つ目は、全焼のいけにえ、2つ目は、穀物のささげ物、3つ目は、和解のいけにえ、4つ目は、罪のためのいけにえ、5つ目は、罪過のためのいけにえです。これらは、神に喜ばれる順序で記されており、1つ目の全焼のいけにえが神の最も喜ぶささげ物です。
 さて、2つ目から4つ目のささげ物では、それらが「聖」であると記されています。1つ目の全焼のいけにえは、聖であるとは明記されていませんが、注意深く読んでいけ
ば、聖であることが分かります。
 では、これらのささげ物はどのような経緯を通って、聖となっていくのでしょうか。それは、ささげ物が切られ、あらゆる部分に分けられ、内臓も取り分けられ、焼かれることによってです。ここには、私たちが神の前で聖とされていく上で必要なことが指し示されています。その必要なこととは、私たちの心も切られ、心の奥底まであらわにされ、焼かれて、無くなっていくことです。すると、「心」を無くして、生きていくことが聖なのかと思われるかもしれません。しかし、ここでは、どのような「心」が無くなっていくかが重要です。それは、生まれながら罪に陥っている人間が持つ自己中心の心です。神の前に聖となるとは、神の前で自己中心の心が切られ、あらわにされ、焼かれて、無くなっていくことが必要なのです。
 私たちは、日々、どのような心を持って歩んでいるでしょうか。自己中心の心で歩んでいるのであれば、それを神は喜ばれません。神に受け入れられていくには、私たちには、自己中心の心ではない、全く別の新しい心が必要です。ぜひ、この機会に、自らの心をかえりみましょう。もし、そこに自己中心の心があるのであれば、それは、神の前では罪ある人間であるという証拠です。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)