20130303 あなたの罪は赦されました2013年03月03日

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」         マルコの福音書2章5節
 キリスト教のメッセージの中心は罪が赦されることです。福音、良きおとずれ、グッド・ニュースは人が罪から解放されること、すなわち罪がもたらす悲惨な結果から解放されることです。キリスト教にはたくさんの良い教えがあります。日常生活に適用される数多くの有益な教えで満ちています。しかしその中心は罪人がきよめられ、聖なる神様との交わりの中に入ることができるというメッセージです
 ニューヨークの郊外にある墓地に、「フォーギブン」すなわち「赦された」と刻まれた墓石があるというのです。その墓地に埋葬された人の生涯を一言で言い表した言葉なのでしょう。「神様によって赦された人ここに眠る」と言い換えても良いでしょう。この人は赦された人であったと言うのです。この言葉こそ私たちが最も必要としているものではないでしょうか。人生の終わりに、「あなたの罪は赦されました」とイエス様に言われることほど幸いなことは他にはないでしょう。
 上記の「あなたの罪は赦されました」の「赦されました」という言葉は、「取り除かれた」、「追い払われた」と言う意味です。聖書に神様が「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103篇12節)とあります。また「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」(ミカ書7章19節)とあります。さらに「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」(エレミヤ書31章34節)とあります。これらの聖書箇所は神様が私たちの罪をきれいに取り除いてくださるお方であることを示しているのです。
 イエス様の十字架を覚える受難週が近づいてきました。イエス様の十字架は、聖なる神様が罪人の罪を赦すために、ご自身のひとり子を身代わりとして、私たちの罪をイエス様の身に背負わせてくださった出来事です。罪の赦しは私たちの一番必要な神様からの贈り物です。

20130310 人生を何の上に築くか2013年03月10日

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」          ヤコブの手紙1章22節

イエス様のたとえ話に二人の人が家を建てた話があります。ひとりは賢い人と呼ばれ、もうひとりは愚かな人と呼ばれています。この二人にはいくつかの共通するものと、また違っていた点とがあります。まず共通する点は、第一に、イエス様から同じ聖書の話を聞いていたことです。いわば教会で同じ説教を聞いていたということです。同じ救いの道を聞いていたのです。第二に、救いの道を聞いた後で、家を建てたことです。ここで家は人生にたとえられています。賢い人はイエス様から聞いたお言葉に基づいて人生を建て上げたのです。一方、愚かな人はイエス様から聞いたことばに関係なく人生を建て上げたのです。第三に、同じ嵐に直面していることから同じ場所に建てたことが分かります。すなわち環境的に何ら違いは無かったのです。第四に、同じような家を建てたことから、周りの人から見て、同じように教会生活をし、社会生活をしていたのです。
外から見分けがつかなかった二人の家でしたが、共通していたこと以上に、違いの方がはるかに大きかったのです。その違いは家の土台でした。賢い人は岩の上に家を建てました。愚かな人は砂の上に家を建てました。ここで言う岩とは石ではなく岩盤のことです。それは大きな岩で、びくともしない、安定した岩でした。愚かな人は砂という移ろいやすい、不安定なものの上に家を建てたのです。イエス様のお言葉を聞いて、それに従って生きることが岩の上に人生を建てることで、賢いことだと言うのです。砂とは人間の意見、考えを表しています。愚かな人は移ろいやすい人間の考えに左右されて生きていると言うのです。
何を土台としているかは普段違いが分かりません。しかし嵐が二人の人の家に襲ってきたとき、はっきりと分かるのです。賢い人の家は倒れませんでしたが、愚かな人の家は倒れてしまいました。またその倒れ方はひどいものだと言うのです。イエス様のお言葉をただ聞くだけではなく、私たちの人生に適用させることです。

20130317 外側は醜かったが、内側はきよく美しかった人2013年03月17日

「すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。』」     マタイの福音書8章2節

イエス様のもとに重い病の人がやってきて、ひれ伏しました。この人はその病のゆえに人々には恐れられ、忌み嫌われ、隔離された生活を余儀なくされていました。その外見はとても恐ろしく醜いものでしたが、内面は敬虔で、謙遜で、美しく、信仰に満ち溢れていました。私たちはこの人がイエス様に対してとった言動から彼の内面を知ることができます。またそれは私たちが学ぶべきことです。
第一に、彼は確信を持ってイエス様のみもとに来ました。「イエス様は私を決して恥じたり、恐れたり、忌み嫌ったりすることはない。むしろ私を深く愛し、あわれんで受け入れてくださる」と確信していました。当時の宗教的リーダーであるパリサイ人や律法学者たちなら、彼が近づいたら、叱り飛ばすか、石を投げつけたに違いないのです。彼はイエス様が愛してくださると確信していたのです。
第二に、彼は敬虔な心でイエス様に近づいたのです。彼がイエス様のみもとに来て、ひれ伏し、「主よ」と呼びかけたのは、彼がイエス様を神様とし、神様の御前において、敬虔な心で礼拝したことを意味しています。
第三に、彼は謙遜な心でイエス様に近づいたのです。彼は癒されることを切に願ってやって来ました。しかし彼は自分の願いをイエス様に押しつけていません。私を祝福してくださいと一方的に要求していません。「お心一つで」という表現の中に、彼の謙遜さが表されています。もしイエス様のお心が「重い病のままでいなさい」と言われるのなら、喜んでイエス様のお心に従うという彼の姿勢を読み取ることができます。
第四に、彼は信仰をもってイエス様に近づきました。「私をきよくしていただけます」とイエス様の御力に対する信頼を表明しています。姿が変わり果てるほどの恐ろしい病です。その病から癒されるとだれも考えることができませんでした。しかし彼は「イエス様は私をきよくすることができる」と信じたのです。
私たちも彼のようにイエス様に近づくべきです。

20130324 私たちの代わりに罪とされた2013年03月24日

「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」 マタイの福音書27章46節

イエス様の十字架の死について、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント人への手紙第二5章21節)と聖書は説明しています。なぜイエス様は何一つ罪を犯されなかったのに、あれほどの苦しみをお受けになって死ななければならなかったのでしょうか。また、なぜ十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と悲痛な叫びをあげなければならなかったのでしょうか。イエス様はいつも神様を「父よ」と親しく呼んでおられたのに、なぜ十字架上で「わが神、わが神」と呼ばなければならなかったのでしょうか。
その理由は、第一に、神様が聖なるお方であることです。第二に、神様は罪を見過ごしになさらず、罪を罰するお方であることです。私たちの罪が神様と間の仕切りとなり、神様との交わりを断絶させているのです。第三に、罪から救われるために尊い代価が支払われなければならなかったことです。罪無き神の御子イエス様が私たちの身代わりに罪とされて死なれたのです。イエス様という尊い代価が支払われ、私たちは罪を赦され救われたのです。
では私たちの代わりに罪とされ死んでくださったイエス様に対して、私たちはどのような応答をするべきなのでしょうか。まず、罪から離れて、救ってくださるイエス様を信頼することです。次に、感謝にあふれて生きることです。尊い神の御子イエス様が私の救いのために死んでくださったことを深く覚え感謝することです。そして、罪の誘惑に直面するとき、イエス様の十字架を見上げ、誘惑を退けることです。さらに、十字架のすばらしい知らせをひとりでも多くの人々に伝えることです。

20130331 本当の希望を持つ人生へ2013年03月31日

「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」               ペテロの手紙第一 1章3節

 イースターはイエス様が死からよみがえられたことをお祝いする日です。イースターが私たちにどのような祝福をもたらしてくれるのかについて考えてみましょう。それは、私たちを新しく生まれさせて、生きる望みを持つようにしてくれることです。生きる望みとは何でしょうか。第一に、それは、イエス様のよみがえりが私たちの人生を新しく生まれさせ、神様の目的を持つ人生へと造り変えられることです。聖書は言います。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ人への手紙2章10節)さらに「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)と言っています。目的の無い人生から神様によって新しい目的を持って生きる人生へと変えられるのです。
 第二に、私たちが直面している現状に十分対処できる力をイエス様からいただくことができることです。死からよみがえられたイエス様は私たちのうちに働いて、私たちの力ではどうすることもできない問題、困難を克服する力を私たちに与えてくださるのです。聖書は約束しています。「あなたがたが、神様の栄光ある偉大な力に満たされて、どんなことが起ころうとも常に前進し、いつも、主の喜びにあふれていることができますように。」(コロサイ人への手紙1章11節、リビングバイブル訳)
 第三に、よみがえられたイエス様がいつも私たちとともにいて下さるので、私たちがイエス様に似た者とされていくという望みの中に生きることができることです。