20130407 表面的な信仰への警告2013年04月07日

「すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』」          マタイの福音書8章20節

 上記のイエス様の言葉は有名です。この言葉が言われたきっかけは、イエス様が弟子たちにガリラヤ湖を舟で横切って向こう岸に渡り、群衆のいない静かな所で休息を取ろうと言ったことからでした。そのとき、そこに、ひとりの律法学者が来てこう言ったのです。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」と。イエス様はこの人の立派な献身の表明に対して上記の言葉をもって応答されたのです。このイエス様の言葉から表面的な信仰への警告を学ぶことができます。
 この人はイエス様に敵対していた律法学者グループの一員でしたが、イエス様の教えに驚嘆し、またイエス様が行った数々の奇蹟に興奮してイエス様に従っていたのです。ここでのイエス様の応答は一見すると彼の献身の表明に対してかみ合っていないように思えます。イエス様は彼の本心を見抜き、彼自身も気づかず、考えてもいなかった大事な点について指摘しているのです。向こう岸に渡ろうとイエス様が言われたとき、彼は「どこにでもついてまいります」と言いましたが、律法学者としての立場から離れられず、イエス様にすぐに従いついて行くことに躊躇を感じていたのです。
 そこでイエス様は上記の言葉をもって、従うことには犠牲が伴うことを彼に指摘したのです。狐や鳥という動物にさえ心地よく休む場所があるにもかかわらず、イエス様ご自身には心地よく休む自分の家さえもないと言われたのです。イエス様について行くとき、時には自分の心地よさを犠牲にすることもあるのです。イエス様が話された種まきのたとえ話があります。岩地に落ちた種は、すぐに芽を出すが、土が薄いために根を張ることができず、日が上ると枯れてしまうというのです。岩地に落ちた種とは、喜んでイエス様を受け入れるが、試練や困難に直面すると、すぐに信仰を失って、イエス様から離れてしまう人のことだというのです。私たちが試練や困難に直面する時、私たちの信仰が表面的なものから根を深く張る信仰へと成長する機会だと考えるべきです。

20130414試みの中で主に助けを求める2013年04月14日

「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』」  マタイの福音書8章24~25節

 イエス様は弟子たちにガリラヤ湖の向こう岸に行くために舟の用意を命じました。そして弟子たちとともに舟に乗り込みました。しばらくして大暴風が起こり、舟は大波をかぶり沈みそうになりました。この出来事は「湖上の嵐」と呼ばれ、イエス様の弟子たちにとって忘れられない思い出となりました。この出来事から3つのことを学びましょう。
第一に、大暴風の中で眠っておられたイエス様の安らかな姿です。イエス様は疲れ果てて深い眠りに陥っていたことは事実ですが、危機的な状況の中で、なお静けさを保ち、恐れないで父なる神様の見守りと愛に信頼して休んでいたことです。私たちも神様の見守りと愛とを忘れないことです。
 第二に、弟子たちがパニックに陥ったことです。弟子たちの中には漁師たちもいました。彼らはあらゆる手立てを尽くしましたが、自分たちの力ではどうすることもできない絶望的な状況に追い込まれたのです。そこでイエス様に叫び声を上げたのです。私たちも試練や苦しみに直面し失望や落胆を経験することがあります。そのような時、弟子たちのようにイエス様に助けを求め、叫び声を上げることが大切です。神様は私たちの叫び声を待っておられ、私たちを助けようと待ち構えているのです。
 第三に、弟子たちの叫びに対してイエス様が「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」と言われたことです。弟子たちは舟に乗り込む前に、イエス様が行った数々の奇蹟を見たにもかかわらず、一瞬のうちにパニックに陥ってしまいました。神様に信頼することができなかったのです。この弟子たちの姿を私たちは笑うことができません。私たちも同じことを経験しているからです。大事なことは私たちも弟子たちのように神様であるイエス様に助けを求めて叫ぶことです。

20130421 忠実さを培う2013年04月21日

「忠実な人は多くの祝福を得る」           箴言28章20節

 上記の聖書のことばは神様の約束です。忠実さは私たちの人生に大きな祝福をもたらします。神様から豊かな祝福をいただきたかったら忠実であることです。とりわけ小さなことに忠実であることです。私たちの忠実さはどこで量られるのでしょうか。それは公の場所ではなく、むしろ個人的な、だれも見ていないところで量られるのです。もし私たちが不忠実であれば、私たちは自分の人生を問題だらけにしてしまいます。私は学生時代に新聞配達をしていたことがあります。新聞は忠実な配達員によって毎朝郵便受けに届けられます。そのとき私は毎朝200部ほど配達していました。私はしばしば配達区域の中で一軒だけ入れ忘れました。すぐに店に連絡が入り、店の他の従業員が新聞を届けることになりました。もし新聞が忠実に毎朝届けられなかったら、顧客は怒り出し、信用は失われ、ほかの新聞に代えられてしまいます。
 さて、聖書も神様の奉仕者としての資格について忠実であることを求めています。初代教会の礎を築いたパウロは次のように言っています。「キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」(テモテへの手紙第一1章12節)神様が彼を伝道者としてその職務に選び出したとき、その基準は忠実であることでした。次に、パウロがテモテを後継者として選んだとき、その基準も忠実であることでした。彼はテモテについて「私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。」と語っています。さらに、パウロはテモテに奉仕者を選ぶときの基準について次のように助言しています。「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(テモテへの手紙第二2章2節)聖書は奉仕者の選定基準について忠実であることを第一の資格としています。やがて私たちはみな神様の御前に立つことになるのです。そのとき何が吟味されるのでしょうか。それは忠実であったかどうかです。神様から「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言われたいものです。

20130428 愛は人を妬みません2013年04月28日

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」             
  コリント人への手紙第一13章4節

 聖書は妬みがいかに私たちの人生を台無しにするかを教えています。あらゆる罪の根は妬みから出てくると言われます。ヤコブの手紙3章16節に「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」とあります。妬みは2つの形で表されます。一つは他の人が自分よりも良いものを持っている時、それを欲しがることです。もう一つは他の人が持っているものを失うことを願うことです。それは他の人のために悪いことを願うことで、より破壊的な妬みと言えます。上記の聖書箇所において「愛は人をねたみません」とあります。妬みと愛とは両立しません。互いに愛し合う祝福に満ちた人生を送ろうと願うなら、妬みを取り除く必要があります。ではどのようにして私たちの人生から妬みを取り除くことができるのでしょうか。
 第一に、決して自分を他の人と比較しないことです。私たちは絶えず他の人と比較して生きています。比較する時、私たちは必ず優越感と劣等感との間を行き来することになります。自分よりも良いものを持っている人に劣等感を抱き、自分の方が良いものを持っていると思う時に優越感を抱くものだからです。私たちが他の人と比較する時、その根には妬みがあることを覚えることです。第二に、自分に与えられているものに満足することです。私たちは自分をあるがままで受け入れることが必要です。また今与えられているものに感謝し満ち足りることです。日本人の働く人の平均年収は409万円で、これは世界でトップ4%の富裕層に入るそうです。日ごろ収入に不満を持っている人でも、世界の人々がどれほど貧しい中に置かれているかを知ることは私たちの考えを変えさせてくれます。第三に、他の人に注がれている神様の祝福をともに喜ぶことです。聖書は「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とあります。「良かったね」とともに喜ぶ者になりましょう。