罪の告白 ― 2017年02月12日
「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。」 民数記5章6~7節
今回、民数記5章において目を留めたいのが「罪の告白」です。今の時代の信仰においてもとても大切な「罪の告白」ですが、民数記5章にはその「罪の告白」のことが記されています。私たちの「罪の告白」のプロセスは「罪を認め」「罪を告白し」「イエスさまの十字架の償いに立つ」という流れですが、民数記においても同じです。「罪を認め」「罪を告白し」「償いをなす」という流れです。神さまは、数千年前の人間に対しても、また21世紀に生きる私たちにも、同じように罪を認め、罪を告白し、罪の償いをなすように求めておられるのです。
では「罪を告白する」歴史はいつから始まっているのでしょうか。それは、「罪を告白しなかった」出来事から始まっていて、そのことが創世記3章に記されています。アダムとエバが罪を認めなかったところです。創世記3章11節で神さまから「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われたアダム(人)は、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(創世記3章12節)と、罪を認めず、罪の責任を妻に転嫁しています。そして次に神さまは、妻に問いかけます。創世記3章13節「あなたは、いったいなんということをしたのか」、この返答は「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と、妻も罪を認めず、その責任を蛇に転嫁しています。
これが私たちの弱さです。だからこそ聖書は、神さまの前に罪を認め、罪を告白し、罪の償いをなすように求めるのです。私たちも、今週、どんな小さな罪でも、どんな大きな罪でも、罪を認め、罪を告白し、そしてイエスさまの十字架の贖いに立ち、再び立ち上がり、歩み始めましょう。(吉持日輪生)
今回、民数記5章において目を留めたいのが「罪の告白」です。今の時代の信仰においてもとても大切な「罪の告白」ですが、民数記5章にはその「罪の告白」のことが記されています。私たちの「罪の告白」のプロセスは「罪を認め」「罪を告白し」「イエスさまの十字架の償いに立つ」という流れですが、民数記においても同じです。「罪を認め」「罪を告白し」「償いをなす」という流れです。神さまは、数千年前の人間に対しても、また21世紀に生きる私たちにも、同じように罪を認め、罪を告白し、罪の償いをなすように求めておられるのです。
では「罪を告白する」歴史はいつから始まっているのでしょうか。それは、「罪を告白しなかった」出来事から始まっていて、そのことが創世記3章に記されています。アダムとエバが罪を認めなかったところです。創世記3章11節で神さまから「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われたアダム(人)は、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(創世記3章12節)と、罪を認めず、罪の責任を妻に転嫁しています。そして次に神さまは、妻に問いかけます。創世記3章13節「あなたは、いったいなんということをしたのか」、この返答は「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と、妻も罪を認めず、その責任を蛇に転嫁しています。
これが私たちの弱さです。だからこそ聖書は、神さまの前に罪を認め、罪を告白し、罪の償いをなすように求めるのです。私たちも、今週、どんな小さな罪でも、どんな大きな罪でも、罪を認め、罪を告白し、そしてイエスさまの十字架の贖いに立ち、再び立ち上がり、歩み始めましょう。(吉持日輪生)
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