20120902 幸いな悲しみがある2012年09月02日

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」  マタイの福音書5章4節

 イエス様の山の上の教えはこの世の考え方と正反対です。とりわけ上記の第二番目の幸いの教えは驚きです。この世は普通、楽しいこと、お金が儲かること、苦しみが無く、問題が無いことが幸いと考えます。いったい悲しむ者がどうして幸いなのでしょうか。
 確かに私たちの人生は悲しみの連続です。新約聖書には悲しみを表現する言葉がたくさん出てきます。それほど悲しみの種類が多くあり、人生が悲しみに満ちているからでしょう。イエス様が大笑いをしたと言う記事は福音書の記述の中に出て来ません。一方、イエス様が涙したことや、悲しまれたこと、憤られたことなどが記述されています。悲しみが満ち溢れている人生の中でいったいどのような悲しみが幸いなのでしょうか。
 その例として、詩篇51篇に記されたダビデの悲しみを挙げることができます。その詩篇の冒頭の説明に「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」とあります。このときダビデは十戒のうち2つを破るたいへんな罪を犯しました。預言者にその罪を指摘されて、彼は神様の御前に出てこう告白したのです。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51篇4節)彼は神様の御前に大きな罪を犯したことを知り、深く悲しんだのです。新約聖書に「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」とあります。
 神様は砕かれた、悔いた心を愛してくださいます。取り返しのつかない罪を犯したダビデでしたが、神様は彼にあわれみをかけ、その罪を赦されました。幸いとは神様との交わりを回復し、祝福に満ちた神様のご性質にあずかることなのです。私たちの罪は神様との交わりを妨げ、神様の祝福を受けることができないようにしているのです。幸いへの道は罪を自覚し、神様の御前でその罪を悲しむことから始まるのです。

20120909 キリストの生きる姿勢2012年09月09日

「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。」   
  コリント人への手紙第二10章1節

 パウロは上記の聖書箇所でキリストの精神として柔和と寛容を取り上げています。柔和という言葉はイエス様の生き様そのものでした。山上の垂訓の8つの幸いの教えの中で、「柔和な者は幸いです」と、柔和であることが神様の民として相応しいあり方であることを教えています。さて、この柔和とはどのような意味で用いられているのでしょうか。
 柔和という言葉は、薬では「鎮痛剤」に用いられ、痛みを和らげたり、落ち着かせたりする意味です。また動物を「調教」するという言葉に用いられ、野生のロバがトレーナーによって、野生の力がコントロールされて、さらにその力が役に立つものになるという意味です。荒々しい力が暴発するのではなく、しっかりと制御されて有用なものとなることを意味しています。聖書が言う柔和とは弱々しさ、軟弱、確信の欠如、臆病といったものではなく、むしろ勇気、真の強さを持つことです。力を持っているが、その力をしっかりコントロールして他の人に仕える人が柔和な者です。
 柔和の模範はイエス様の十字架の姿の中に一番良く表されています。イエス様は罪を犯されませんでしたが、不当に罪を着せられて十字架に付けられました。ののしられましたがののしり返すことをせず、苦しめられても脅すことをしなかったのです。イエス様は神様の御子としてご自分を守るために何でもすることがおできになったお方でしたが、その力をご自分を守るためには一度も使われなかったのです。
 聖書に「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」(箴言16章32節)とあり、またさらに「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。」(箴言25章28節)とあります。私たちはキリストの柔和の精神に学び落ち着いて行動したいものです。

20120916 仕事と誠実さ2012年09月16日

「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」   
 詩篇37篇3節

新聞の小見出しに「条件は・・・ 知識と『誠実さ』」とあり、私の目を惹きました。「誠実」という言葉は私にとっていつも気にかかる言葉のひとつなので、いったい何の記事なのかと関心を掻き立てられました。大見出しに「英中銀総裁を『公募』」とあり、英国の財務省がイングランド銀行(中央銀行)の総裁職を募集する広告を出すことになったというのです。このような重要な立場の人を公募するというのも珍しいことですが、その条件のひとつに「金融市場や経済に対する深い理解」とともに「疑いようのない誠実さ」を持っていることなどを条件に挙げていることに興味を覚えたのです。この背景には金融市場での不正が取りざたされていることがあるのでしょう。
 さて、私たちがいかにして仕事において祝福をいただくことができるかについて考えてみるとき、「誠実さ」は必要不可欠の要素であると言えます。長く仕事を続けたいと願うなら、清く正しく働かなければなりません。誠実さは人格の問題です。仕事において祝福を受けるためには他の人から信頼される人になることです。
 かつて日本の某銀行が米国で不正を訴えられ、米国の金融市場から退場する羽目になったことがありました。その結果海外での業務が一切できなくなるという取り返しのつかない大きなダメージを受けたのです。その不正とは一人の行員が行った取引による大きな損失を隠したことです。損失隠しによってその銀行の誤ったイメージを金融市場に与えたことが不誠実と非難されたのです。そのとき、すぐにその損失を公表し、そのための対策を打ち出せば、一時的に困難に直面したでしょうが、海外業務を失うという取り返しのつかないことにまでならなかったのです。
 誠実であることはいつも完全であり、過ちが無いと言うことではありません。私たちはみな不完全で失敗をするのです。大事なことは失敗をしても、それを正直に認めることです。そこに誠実さが示され、信頼が築かれていくのです。

20120923 献金の意味について2012年09月23日

「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」     コリント人への手紙第一16章1~2節

 上記の聖書箇所は献金の勧めについて述べています。パウロがコリントの教会の人々にユダヤにあるエルサレム教会のために支援献金をお願いしました。エルサレム教会は絶えず困窮していたからです。パウロは異邦人で形成されているコリント教会からエルサレムのユダヤ人教会に対して愛に基づく支援献金を分かち合うことによって、異邦人教会とユダヤ人教会との絆がより一層強くなることを願ったのです。
 さて、支援献金についてのパウロの勧めの中に、私たちの日ごろの献金の原則を学ぶことができます。上記の聖書箇所から「いつも週の初めの日に」という言葉に注目してみましょう。これは日曜日の礼拝における献金を指しています。私たちは毎週礼拝において献金をささげています。毎週日曜日の礼拝において献金をささげることに意味があるのです。献金は礼拝式次第の一つとして位置づけられています。それは献金が礼拝行為であり、礼拝の一部であり、また礼拝そのものだということです。旧約聖書において人々が神様に礼拝をささげる時、何も持たずに神様の御前に出ることはありませんでした。人々は捧げものを携えて神様の御前に出たのです。その意味は私たちが所有しているものすべては神様の所有であることを表明しているのです。
 イスラエルの王ダビデは「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(詩篇24篇1節)と述べています。さらに「主よ。王国もあなたのものです。」(歴代誌第一29章11節)とも述べています。私たちは毎週の礼拝の献金において、私たちが所有しているものはすべて神様のものであり、神様から託されているものであることを確認し、それらを主にお捧げしていくことです。