へりくだり受諾するヨブ2025年09月07日

ヨブは主に答えた。
あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
                    ヨブ記42章1~2節

 ヨブ記もいよいよ最終章になりました。ヨブ記42章は、38章~41章まで続いた主(神さま)のことばに対するヨブの返答が、42章1~6節まで記されています。その内容は、冒頭引用個所にある通り、主(神さま)の前に打ち砕かれたヨブの思いが記されています。
 このヨブの「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないこと」を読みながら、新約聖書に登場するあるやり取りが思い起こされます。

御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。(中略)神にとって不可能なことは何もありません。」 
                   ルカの福音書1章35~37節

 御使いが、イエスさまのいのちを宿すマリアに語ったことばです。「男の人を知らない」のに「身ごもって、男の子を産みます」と御使いに語られ動揺しているマリアへのことばです。マリアは、その御使いのことばに次のように答えます。

マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
                   ルカの福音書1章38節

 マリアも、ヨブと同様、神さまの側で決められ、行われた「出来事」を、へりくだり受諾しています。私たちも日々の歩みの中で、様々な「出来事」に直面します。不本意なこと、不条理に思える一つ一つの「出来事」の背後に神さまの姿を覚え、神さまの前にへりくだって受諾する時、ヨブも、マリアも経験したように、私たちの思いや、想像を超えた神さまの御業を見ることができます。
 今週も、主(神さま)に期待しつつ、一つ一つの出来事の背後におられる神さまを覚えて歩みましょう。                    (吉持日輪生)

幸いなことよ2025年09月14日

幸いなことよ
悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。       詩篇1篇1節

 難解で、最後まで読み切っても、明確なメッセージを完全に理解できないヨブ記を最後の42章まで読み終え、今日から詩篇です。その詩篇1篇の最初のことばが、冒頭で引用している通り「幸いなことよ」です。
 この詩篇冒頭の「幸いなことよ」に、様々な思いを抱きました。一つは、難解なヨブ記を読み終え、簡潔でわかりやすい詩篇に進めた「幸い」です。ヨブ記は一つの章を読み終えても、もう一つ理解できないのに対して、詩篇は一つ一つの詩から明確なメッセージを読み取ることができます。本当に「幸い」です。
 もう一つの「幸い」は、「幸いなことよ」のヘブル語音です。ヘブル語で「アシュレイ」と読むことばが使われています。どこかで聞いたことのある響きですよね。そうです、私たちの教会が、スポーツを愛する若者への伝道を目的としてサポートしているフットサルチームの名前です。「アシュレイ茨木」の「アシュレイ」は、この詩篇1篇1節の冒頭のことばから取ったものでした。「アシュレイ茨木」は、現在、大阪府フットサル連盟1部リーグに、昇格して今年から所属していますが、まだ1勝もできず、1部リーグ最下位です。しかし「アシュレイ茨木」のチーム名には、試合に勝つ「幸い」だけでなく、スポーツを愛する若者たちに、まさに「幸い」な人生を歩んでほしいという思いが込められています。
 「アシュレイ茨木」の選手だけでなく、私たちも詩篇1篇冒頭の「アシュレイ」のことばに触れつつ、それぞれの人生を「悪しき者のはかりごとに歩まず」「罪人の道に立たず」「嘲る者の座に着かない」者として歩みたいものです。そのために詩篇1篇2節以降にこのように記されています。

主のおしえを喜びとし 
昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。
その人は
流れのほとりに植えられた木。 
時が来ると実を結び 
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。     詩篇1篇2~3節

 今週も「主のおしえを喜び」「そのおしえを口ずさみ」つつ歩みましょう。
                               (吉持日輪生)

主に身を避ける人となろう2025年09月21日

主が怒り おまえたちが道で滅びないために。
御怒りが すぐにも燃えようとしているからだ。
幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。     詩篇2篇12節

 詩篇1篇は「幸いなことよ(アシュレイ)」で始まりましたが、詩篇2篇は「幸いなことよ(アシュレイ)」で終わっています。詩篇1篇で取り扱われた「幸いな人」は単数で、「悪しき者」「罪人」「嘲る者」は複数形になっていました。つまりこの世に生きる一人の人間が「幸いな人」として歩むためのメッセージとして読むことができました。一方詩篇2篇は、一人の人間、いち市民ではなく、「王たち」に向けられています。「主と 主に油注がれた者に対して」(2節)立ち構える王たちについて取り上げています。そして「主に油注がれた者」(2節)、「わたしが わたしの王を立てたのだ」(6節)、「あなたはわたしの子。わたしが今日 あなたを生んだ」(7節)は、新約聖書に登場するイエスさまのことを思い出させます。つまり神さまと神のひとり子イエスさまに立ち構える「王たち」「地をさばくも者たち」のことが意識されています。
 いつの時代の「王たち」「地をさばく者たち」も、人間の罪深さ、欲深さゆえに、主権者なる神さまに、そして救い主イエスさまに立ち向かい、立ち構えてしまいます。ですから詩篇2篇で次のように語られているのです。

それゆえ今 王たちよ 悟れ。
地をさばく者たちよ 慎め。
恐れつつ 主に仕えよ。
おののきつつ震え 子に口づけせよ。       詩篇2篇10~11節

 そして冒頭引用の12節とつながります。
 私たちも、家族の中にあって、また様々な組織、グループの中にあって詩篇2篇のことばを意識しつつ歩みたいと思います。今週も「主に身を避ける人」として歩みましょう。  (吉持日輪生)

「敵」にどのように対応するか2025年09月28日

主よ なんと私の敵が多くなり
私に向かい立つ者が多くいることでしょう。    詩篇3篇1節

 詩篇1篇は「人」に目が向けられ、詩篇2篇では「王、君主」に目が向けられました。そして詩篇3篇では、冒頭で引用した通り「敵」に目が向けられています。この流れは、旧約聖書の最初に記されている「創世記」の流れとも似ています。創世記1章で「人」が創造され、創世記2章で最初の人間、アダムとエバ(神に似せて造られた人のリーダー的存在)のことが記され、そして創世記3章で、最初の罪、「敵」の存在が記されていきます。そのような意味でも、聖書は最初から「敵」の存在を認め、「敵」とどのように向き合い、どのように考えたら良いかを教えています。

多くの者が私のたましいのことを言っています。
「彼には神の救いがない」と。     セラ    詩篇3篇2節

 このように記されている通り、いつの時代も「敵」のメッセージは、神さまを否定し、神さまの救いを否定します。そして自分の力で事を動かそうと促します。そのような思いを抱きやすい私たちに聖書はこのように語ります。

しかし 主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾
私の栄光 私の頭を上げる方。
私は声をあげて主を呼び求める。
すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。 セラ
                              詩篇3篇3~4節

 「敵」の存在に直面した時、「敵」の存在が気になり出した時、私たちがすべきことは、声をあげて主(神さま)を呼び求めることです。主は、その叫びに必ず答えてくださいます。
 詩篇3篇は、このようなことばで終わります。

救いは主にあります。
あなたの民に あなたの祝福がありますように。   セラ
                               詩篇3篇8節

 今週も、主に祈り、主からの救いを期待し続けましょう。
                              (吉持日輪生)