栄光の王 それはだれか ― 2026年02月22日
門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王とは だれか。
強く 力ある主。
戦いに力ある主。
門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王 それはだれか。
万軍の主 この方こそ栄光の王。 セラ 詩篇24篇7~10節
詩篇24篇は、上記にあるようにとても力強いことばで終わります。ここで繰り返し登場することばは「栄光の王」です。「栄光の王が入って来られる」(7、9節)、「栄光の王とは だれか」(8節)、「栄光の王 それはだれか」(10節)、「万軍の主 この方こそ栄光の王」(10節)。このような個所を読みながらつながるのが、イエスさまのエルサレム入城です。
4つの福音書にそれぞれ記されていますが(マタイの福音書21章、マルコの福音書11章、 ルカの福音書19章、ヨハネの福音書12章)、そのイエスさまの姿は、ろばの子に乗り、エルサレムに入られています。この詩篇での「栄光の王」は、偉大だからこそ「門よ おまえたちの頭を上げよ」と門を最大限に大きくしなければ入れない程に大きい「栄光の王」として記されています。しかし実際の「栄光の王」であるイエスさまは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。ここにも下記のことばが重なります。
キリスト(栄光の王)は、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
ピリピ人への手紙2章6~9節
「栄光の王」は、十字架の死にまでへりくだられた王です。私たちもそのような「栄光の主」にならい、へりくだって歩みましょう。
(吉持日輪生)
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王とは だれか。
強く 力ある主。
戦いに力ある主。
門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王 それはだれか。
万軍の主 この方こそ栄光の王。 セラ 詩篇24篇7~10節
詩篇24篇は、上記にあるようにとても力強いことばで終わります。ここで繰り返し登場することばは「栄光の王」です。「栄光の王が入って来られる」(7、9節)、「栄光の王とは だれか」(8節)、「栄光の王 それはだれか」(10節)、「万軍の主 この方こそ栄光の王」(10節)。このような個所を読みながらつながるのが、イエスさまのエルサレム入城です。
4つの福音書にそれぞれ記されていますが(マタイの福音書21章、マルコの福音書11章、 ルカの福音書19章、ヨハネの福音書12章)、そのイエスさまの姿は、ろばの子に乗り、エルサレムに入られています。この詩篇での「栄光の王」は、偉大だからこそ「門よ おまえたちの頭を上げよ」と門を最大限に大きくしなければ入れない程に大きい「栄光の王」として記されています。しかし実際の「栄光の王」であるイエスさまは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。ここにも下記のことばが重なります。
キリスト(栄光の王)は、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
ピリピ人への手紙2章6~9節
「栄光の王」は、十字架の死にまでへりくだられた王です。私たちもそのような「栄光の主」にならい、へりくだって歩みましょう。
(吉持日輪生)
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://mikotoba.asablo.jp/blog/2026/02/22/9837907/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。