神さまと私の心が通う祈り2017年10月01日

しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」             申命記3章26節 

 申命記3章23節「私は、そのとき、主に懇願して言った」とあるように、モーセは神さまに「どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください」と切に願いますが、神さまの返事は、上記引用箇所の通り。「もう十分だ」「もう二度とわたしに言うな」と、強く拒否されています。
 けれども私は、この神さまの「もう十分だ」「もう二度とわたしに言うな」の言葉の背後には、神さまの心の痛み、葛藤を感じます。出エジプトのプロセスを共に歩んできた神さまは、モーセの頑張りも、苦しみも、悲しみも、全てを知っておられるからこそ、モーセの「約束の地を見たい」との切なる思いは、痛いほどよくわかっていたことでしょう。ですからこれ以上懇願されることは、神さまも辛いからこそ「もう二度と言うな」と言われたように思うのです。そしてそのことを裏付けるものが、27節にあります。27節「ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ」。ヨルダンを渡ることはできないけれども、モーセの切なる願いの一部「ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください」は叶えてくださったのです。
 モーセと神さまとのやりとりをこのように読ませていただくと、神さまと心が通う祈りを献げることの素晴らしさを教えられます。信仰の父アブラハムも創世記18章で神さまに「もしや、その町の中に五十人の正しい者が」(24節)から始まって、「四十五人」(28節)、「四十人」(29節)、「三十人」(30節)、「二十人」(31節)、「十人」(32節)と少しずつ正しい人の人数を下げて祈る姿の内にも、神さまと心が通う祈りを見ます。
 私たちも、今週、神さまと心が通う祈りを献げていきましょう。
(吉持日輪生)

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