LVT482017年09月03日

あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。
 In all you must give the Levites forty-eight towns, together with their pasturelands.               民数記35章7節(新改訳、NIV)
 
 AKB48のようなタイトルにしてみましたが、民数記35章7節の英語聖書(NIV)から付けてみました。
 エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野を40年間移動しながら生活してきました。その時、神さまが民に命じていた配置が民数記2章に紹介されていました。その内容は、「会見の天幕(幕屋)」を中心に、そのまわりにレビ人(メラリ、ゲルション、ケハテ、モーセ、アロン)が宿営し、さらにそのまわりの北に「ナフタリ、アシェル、ダン」、西に「エフライム、マナセ、ベニヤミン」、南に「ガド、シメオン、ルベン」、東に「ユダ、イッサカル、ゼブルン」が配置されていました。つまり、左図にある通り、イスラエルの民は、常に「会見の天幕(幕屋)とレビ人」を中心にして移動していました。
 そのイスラエル人が、約束の地に入り定住生活をするにあたり、常に中心にいたレビ人をどうしたかというと、48の町に分散させたというのが民数記35章の内容です。
 だいたいイスラエルの地域は、四国程度と言われます。四国の面積が18800㎢です。それを48で割ると、391.7㎢になります。これはだいたい北摂地域より少し小さい面積ですので、北摂地区に一つレビ人の町があるという感じでしょうか。「結ぶ」という意味を持つ「レビ人」は、神さまとイスラエルの民とを結ぶ役割を担い、また人と人とを結ぶ役割を担っていたのでしょう。
 私たちも、この北摂地区のクリスチャンとして、神さまと北摂の人々を結び、人と人との間を結ぶ役割を担うことで、地の塩、世の光としての使命を果たしていきましょう。(吉持日輪生)

「数」から「賜物」へ2017年09月10日

こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。
                                民数記36章9節 

 民数記もついに最後の章、36章になりました。この章を読み終えての感想は、とても淡々とした終わり方だなあというものでした。けれども一方で、今から数千年前の人々も、現代の人たちと同じような問題に直面していたんだなあとも思わされました。3節「もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります」と、相続地減少を心配しています。
 そして、その心配の根底にある思いは、2節「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています」。つまり神さまから命じられ、神さまから与えられた相続地の減少を危惧していることがわかります。
 さて、この淡々と記されている民数記36章から私たちが学べることは、何でしょうか。その一つは、神さまが私たちひとりひとりに与えてくださっている相続地(賜物)が減ることへの関心でしょう。民の数を数えるところから始まった民数記、そこからは「数」への関心が見えてきますが、最後は、「数」ではなく「相続地(賜物)」に関心が向けられています。神さまから与えられた相続地に対して上記聖書箇所でも「堅く守らなければならない」と書かれているように、私たちも神さまから与えられている相続地(賜物)を堅く守る責任があることを教えられます。
 ローマ人への手紙11章29節を思い出します。「神の賜物と召命とは変わることがありません」。今週も、神さまから与えられている賜物をしっかり管理し、かつフルに活用し、地の塩、世の光として歩ませていただきましょう。
                           (吉持日輪生)

約束を信じて2017年09月17日

 向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。              申命記1章7節 

 「向きを変えて、出発せよ」(1章7節)、この言葉に励まされて、どれだけ多くの方々が、時代を越え、民族を越えて、新たな出発をしてきたことでしょう。
 私たちもこれまでこの紙面を通して創世記から始まり、1回1章を基本に読み進めてきました。そして先週でついに「民数記」を読み終え、今日から「申命記」に入ります。
 さて申命記1章に記されているイスラエルの民が、「向きを変えて、出発した」点は、組織の改編でした。出エジプト記18章で、モーセのしゅうとイテロのアドバイスで、イスラエルの民の中から「千人の長」「百人の長」「五十人の長」「十人の長」を選ぶようにしてきましたが、申命記1章からは、各部族ごとに「千人の長」「百人の長」「五十人の長」「十人の長」を選ぶようにと命じられています。
 そしてこの組織改編は、約束の地に入り、その地で民が増え広がることを前提にしていました。11節「──どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように──」とある通り、さらなる人口増加を考えての組織改編でした。
 私たちも、主にあって「向きを変えて、出発する」点があるとするならば、神さまは、必ず日本のキリスト教界を祝福してくださるとの約束を信じ、増やされた時のことを考えて教会の組織を考え、教会活動計画を立てていくことでしょう。
 申命記を読み進めつつ、「向きを変えて、出発」できるところは、できるところから始めていきたいものです。神さまの民が、私たちの教会にもたくさん呼び集められることを信じ、期待して・・・。(吉持日輪生)

神さまの備えがあるから一歩先へ2017年09月24日

アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである──
申命記2章11~12節

 向きを変えて出発し、荒野の旅を続けていく中、申命記2章には、神さまの備えがあったことが記されています。その一つが、上記聖書箇所ですが、これが神さまの愛の業であることは、次の聖書箇所と合わせて読むと、よりはっきりします。民数記13章28節「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました」。民数記13章33節「そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」。これは、約束の地を探りに行った12人の偵察隊の内10人の言葉でした。「アナク人」、または「ネフィリム人のアナク人」とは、先程の民数記聖書箇所から巨人であったことが伺えますが、イスラエル人は、そのような巨人が住む地に入るのは無理と決め込み、約束の地に入りませんでした。
 それから40年が経ち、いよいよ約束の地に入る時、上記聖書箇所や、申命記2章20~21節「──そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた」を読む時、恐ろしいと思っていたアナク人のような人たちを、神さまがすでに取り除いていてくださったことがわかります。
 神さまは、私たちにとって恐ろしいと思える問題課題を取り除くことのできるお方です。そのことを知る時、私たちも、向きを変えて出発するその先に、どんなに恐ろしいものがあったとしても、神さまが、それを取り除いてくださるとの信仰を持って、前進することができます。今週も、主に信頼して、一歩先へと踏み出して行きましょう。(吉持日輪生)