20160424 自由に祈れる恵み2016年04月24日

祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。                 出エジプト記29章38節

先週、笠川路人先生が「喜びの秘訣」という題で説教をしてくださいました。そしてその週の「オメル」4月20日(水)でレビ記23章39~40節を取り扱いました。この箇所は、レビ記において唯一「喜び」が出てくる箇所です。そしてその喜びの根拠は「収穫」でした。このオメルを読み親しんでいる中、ちょうどこの「恵泉」(この原稿のこと)を準備していたのですが、収穫の喜びを意識して初めて、旧約聖書におけるいけにえを献げることの損失、犠牲ついて考えさせられました。上記聖書箇所を読むと、毎日最低1歳の若い雄羊2頭が献げられています。これが毎日ですから年間で計算すると合計730頭になります。これは大きな犠牲、大きな損失です。しかもこのいけにえを毎日献げる理由は、祝福を得るためではなく、神さまにお会いし、神さまと語るだけのためでした。出エジプト記29章42節で「これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る」とあり、また45節では「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」とあります。これが、イエスさまの十字架以前の神さまと人間との関係でした。
そして今、私たちが、いつでも、どこででも「天のお父さま」と祈れる理由は、イエスさまの十字架という犠牲があるためです。しかし、旧約聖書時代のことも、イエスさまの十字架も聖書の文字だけでしか知らない私たちは、旧約では毎日2頭の雄羊が献げられ、新約ではイエスさまの十字架があって初めて神さまとお会いできることを忘れやすい者です。
私たちは、今日も、また今週も、毎日天の父なる神さまに祈りますが、イエスさまの十字架という贖いがあるゆえ、このように祈れることを覚え、またそのことを感謝し、その恵みにしっかり応えつつ、日々歩ませていただきましょう。
                         (吉持日輪生牧師)