20160403 幕屋の多種多様な材料2016年04月03日

幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。                 出エジプト記26章1節
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。 
                コリント人への手紙第1 12章13節

出エジプト記26章は、「幕屋」のことが記されています。この「幕屋」は荒野を旅していた民と共に移動する礼拝の場であり、そのため組み立て式でした。この章では、その組み立て式礼拝堂の様々なパーツについて紹介しています。
まず「10枚の幕」(1節)、その幕に使われた「亜麻布」「青色の撚り糸」「紫色の撚り糸」「緋色の撚り糸」(1節)、幕のつなぎ目に使う「青いひもの輪」(4節)、「金の留め金」(6節)、「11枚の幕」(7節)、「青銅の留め金」(11節)、「雄羊の皮」「じゅごんの皮」(14節)、「板」(15節)、「銀の台座」(19節)、「環」(24節)、「横木」(26節)、「中央横木」(28節)、「柱」(32節)、「あかしの箱」(33節)、「贖いのふた」(34節)、「机」「燭台」(35節)などが天幕の材料として記されています。
これらの多種多様な材料が組み合わされ、つなぎ合わされて「幕屋」という礼拝の場が建て上げられていったのです。この特徴は、新約時代のちょうどキリストのからだなる教会と重なります。教会も、様々な特徴のある人、人、人で構成され、それらの人が組み合わされ、つなぎ合わされて「キリストのからだなる教会」という礼拝を献げる場が建て上げられていきます。
今日も、主の日の礼拝を献げるために集まる多種多様な存在をながめながら、それらが組み合わされ、つなぎ合わされて一つの「キリストのからだなる教会」となり、礼拝が献げられていることを視覚的に確認しつつ、豊かな礼拝を献げましょう。                        (吉持日輪生牧師)

20160410 やみの中に輝くともしび2016年04月10日

あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともしびを整えなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。             出エジプト記27章20~21節

出エジプト記27章は、26章のつながりで天幕で使用する礼拝式用備品のことが記されていて、最後に上記の、純粋なオリーブ油で灯すともしびのことが記されています。
会見の天幕の中で夕方から朝まで、つまり闇がまわりを覆う時間、ともしびを整えるように書かれています。しかも「これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきて」とまで書かれるほど重要なおきてとなっています。
ではいったいなぜ、ともしびを切らさずともし続けるのでしょうか。それは神さまと会見できる「会見の天幕」だからでしょう。詩篇121篇4節にも「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」とあるように、天の父なる神さまは、365日24時間「父なる神さま」として私たちを見守り、私たちとお会いしてくださる神さまです。
そして、さらにもう一箇所思い浮かぶ聖書箇所は、ヨハネの福音書1章5節「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」です。この「光」はイエスさまのことを指していますが、「やみ」は漠然とした、象徴的な「やみ」ではなく、具体的に陽が沈んだ後の天幕内の「やみ」がイメージされているのではと思わされました。つまり私たちは、イエスさまの存在があるからこそ、どんな暗やみの中でも、イエスさまという「光」に助けられ、「父なる神さま」とお会いすることができるのです。
今週も、イエスさまという「まことの光」に助けられながら、日々父なる神さまと向き合いながら歩ませていただきましょう。      (吉持日輪生牧師)

20160417 祭司の務めを担うために2016年04月17日

また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。
                       出エジプト記28章2節
バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。           ガラテヤ人への手紙3章27節

出エジプト記28章は、アブラハムの兄アロンとその子らが、祭司として神さまに仕える時に、身に着けるもののことが記されています。その目的は、上記最初に記した聖書箇所にある通り「栄光と美を表す」ことでした。そこに使われた色は「金色や、青色、紫色、緋色」(5節)、さらに12部族にあわせて12種類の宝石「赤めのう、トパーズ、エメラルド」(17節)、「トルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド」(18節)、「ヒヤシンス石、めのう、紫水晶」(19節)、「緑柱石、しまめのう、碧玉」(20節)が使われたことが記されています。これらの鮮やかな色と12種類の宝石をもって神さまに仕える祭司の「栄光と美」を表したのでしょう。
では、今日「万人祭司」と呼ばれる私たちクリスチャンには、どのような「栄光と美」の装束が用意されているのでしょうか。そのことが記されているのが、上記2つ目の聖書箇所です。私たちには、キリストという装束が用意され、その服を着て私たちは祭司の務めを行うことができるのです。
旧約聖書時代の祭司が、この「栄光と美を表す聖なる装束」を着て祭司の務めを果たしていたように、私たちも「キリストを身に着」なければ祭司の務めを担うことはできません。マタイ22章に記されている「王子のために結婚の披露宴を設けた王」のたとえ話の中でも、「ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」(マタイ22章11節)とあり、神さまの前に出るためには「キリストという礼服」が必要なのです。また出エジプト記28章には「栄光と美を表す聖なる装束」を着る理由として「彼らが咎を負って、死ぬことのないため」(43節)と記されています。ですから今週も、キリストを身に着て、神さまと人々をつなげる祭司の務めをしっかり担っていきましょう。                  (吉持日輪生牧師)

20160424 自由に祈れる恵み2016年04月24日

祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。                 出エジプト記29章38節

先週、笠川路人先生が「喜びの秘訣」という題で説教をしてくださいました。そしてその週の「オメル」4月20日(水)でレビ記23章39~40節を取り扱いました。この箇所は、レビ記において唯一「喜び」が出てくる箇所です。そしてその喜びの根拠は「収穫」でした。このオメルを読み親しんでいる中、ちょうどこの「恵泉」(この原稿のこと)を準備していたのですが、収穫の喜びを意識して初めて、旧約聖書におけるいけにえを献げることの損失、犠牲ついて考えさせられました。上記聖書箇所を読むと、毎日最低1歳の若い雄羊2頭が献げられています。これが毎日ですから年間で計算すると合計730頭になります。これは大きな犠牲、大きな損失です。しかもこのいけにえを毎日献げる理由は、祝福を得るためではなく、神さまにお会いし、神さまと語るだけのためでした。出エジプト記29章42節で「これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る」とあり、また45節では「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」とあります。これが、イエスさまの十字架以前の神さまと人間との関係でした。
そして今、私たちが、いつでも、どこででも「天のお父さま」と祈れる理由は、イエスさまの十字架という犠牲があるためです。しかし、旧約聖書時代のことも、イエスさまの十字架も聖書の文字だけでしか知らない私たちは、旧約では毎日2頭の雄羊が献げられ、新約ではイエスさまの十字架があって初めて神さまとお会いできることを忘れやすい者です。
私たちは、今日も、また今週も、毎日天の父なる神さまに祈りますが、イエスさまの十字架という贖いがあるゆえ、このように祈れることを覚え、またそのことを感謝し、その恵みにしっかり応えつつ、日々歩ませていただきましょう。
                         (吉持日輪生牧師)