20150329 「主がともにおられる」ということ2015年03月29日

監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。
                          創世記39章23節

創世記39章には、ヨセフに対して「主がともにおられた」という内容の箇所が、2節、3節、21節、そして上記聖書箇所23節と4回記されています。ゆえに私たちは、この章を通して「主がともにおられる」ことについて、いくつかのことを知ることができます。私たちは「主がともにおられる」からこそ、私の思い、私の計画、私の希望通りに人生が進んで行くように思います。しかしヨセフの生涯を見る時、そうではないことがわかります。ヨセフには確かに「主がともにおられ」ました。しかしヨセフは「主がともにおられる」からこそ様々な所へ遣わされています。エジプトへ遣わされ、パロの廷臣で侍従長のポティファルの元へ遣わされ、さらに王の囚人が監禁される監獄へ遣わされました。それは、神さまがともにおられる「ヨセフ」を通して、エジプトを祝福し、ポティファルの家を祝福し、監獄の長を祝福するためでした。そして、その遣わされ方は、ヨセフの思い通り、計画通り、希望通りではなく、裏切り、濡れ衣とヨセフの思いもしない、考えもつかない方法での派遣でした。
このヨセフの経験から「主がともにおられる」から何もかもが順調に、思い通り、計画通り、希望通り進むのではないことがわかります。しかし自らの思い、自らの計画、自らの希望が進まない時こそ、実は神さまのご計画が前進している時なのです。そして神さまは、あなたを通して、その遣わされた先を祝福しようとされているのです。
春は変化の時です。私の思い、私の計画、私の希望が通らず、そのような中で遣わされていくことは、不安ですし不本意です。しかしその派遣された先には、神さまの「成功」という御業が待っているのです。あなたが経験した思いもかけない出来事は、神さまが行なわれる「成功」の出発点です。あなたとともにいてくださる神さまに期待し、神さまが遣わされた先で地の塩、世の光として力強く歩み出しましょう。

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