20150301 旅立ちの準備2015年03月01日

そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。                            創世記35章3節

創世記35章は、春という旅立ちの季節に読むのにふさわしい箇所です。その理由は、上記聖書箇所に「私たちは立って、ベテルに上って行こう」とベテルへの旅立ちのことが記されているからです。
ヤコブ一族は、ベテルへの旅立ちを前にどのような準備をしていたでしょうか。創世記35章2節に「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい」と記されています。ヤコブ一族は、パダン・アラムという異国の地で生活し、異国の神々が入り込んでいたのでしょう。その根拠は、創世記31章30節に「それはそうと、あなたは、あなたの父の家がほんとうに恋しくなって、どうしても帰って行きたくなったのであろうが、なぜ、私の神々を盗んだのか」と記されている通りです。ヤコブ一族は、それらの神々を取り除き、さらに身をきよめ、そして着物を着替え、旅立ちの準備をしました。
私たちも、新年度の様々な新しい歩みに備えて、このヤコブ一族の姿勢に倣いましょう。私たちの生活の中に入り込んでいる「異国の神々」、すなわち天の父なる神さま以外に頼ってしまっている存在を取り除き、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第2コリント5章17節)を確認して「身をきよめ」、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3章27節)にある通りキリストという「着物に着替え」、新しい環境に旅立つ準備をしましょう。神さまが、あなたの新しい歩みを祝福してくださるようにお祈りしています。

20150308 エサウへの祝福の源2015年03月08日

これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。       創世記36章1節

創世記36章には、エサウの系図が記されています。エサウは、ヤコブ(後にイスラエルという名前になる)の兄です。創世記27章で兄エサウは、弟ヤコブに父イサクから受ける祝福を横取りにされますが、神さまはエサウも祝福してくださいました。そのエサウの祝福の源をこの創世記36章にあるエサウの系図から読み取ることができます。その系図とは2~3節「エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわち・・・それにイシュマエルの娘でネバヨテ(イシュマエルの長男、創世記25章13節)の妹バセマテである」です。つまりエサウは、アブラハムとサラの女奴隷ハガルとの間に与えられたイシュマエルの子孫に加えられていたのです。そのイシュマエルは、父アブラハムのもとから追い出されていきますが、その時このように神さまから語られていました。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから」(創世記21章12~13節)。また「行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ」(創世記21章18節)とある通りです。このようにイシュマエルへの祝福が約束されていたのですが、エサウはそのイシュマエルの娘との結婚へ導かれ、イシュマエルの祝福の中に入れられていたのです。その祝福について聖書は具体的に「エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである」(創世記36章6~7節)と。
今週も、神の子の恵みの中に入れられている私たちは、神さまからのたくさんの祝福をいただきながら歩ませていただきましょう。

20150315 絡まるような神さまの祝福2015年03月15日

そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。                   創世記37章28節

前回創世記36章で、エサウの祝福の源がイシュマエルの娘との結婚にあり、そのことでエサウがイシュマエルへの祝福の中に入れられたことに触れました。そして今回37章にもイシュマエル人が登場します。それが上記にある聖書箇所です。
「これがヤコブの歴史である」(創世記37章2節)と始まり、すぐに取り上げられているのが「ヨセフ物語」ですが、そのヨセフは、イシュマエル人に奴隷として売られてしまいます。しかしヨセフはこのイシュマエル人のおかげで安全にエジプトへ移動することができ、また「パロの廷臣、侍従長ポティファル」(創世記37章36節)というエジプトの中でも良い家庭に売られていきました。神さまが、このようにイシュマエル人を用いて、ヨセフを導かれていることに不思議なものを感じると共に、そこにも神さまからの祝福があったことを強く感じます。しかしそれだけではありません。もう一つ注目してほしい存在は、上記聖書箇所で「イシュマエル人」と重なる表現として使われている「ミデヤン人」です。この「ミデヤン」は、創世記25章1~2節にこのように書かれています。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ」と。つまり「ミデヤン」も、「イシュマエル」と同様、アブラハムの子孫なのです。
神さまから「多くの国民の父となる」という意味の名前が与えられたアブラハムへの祝福は、アブラハムの曾孫にあたるヨセフの生涯の中に「イシュマエル」「ミデヤン」の存在が様々な形で絡まりながら、ヨセフへの祝福につながっていることがわかります。神さまの祝福は、まさにあなたの上にも様々な形で絡まるように私たちを祝福してくださいます。その神さまの祝福に期待しながら今週も歩ませていただきましょう。

20150322 計算高く欲深いユダ2015年03月22日

ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。
                          創世記38章26節

創世記38章1節は「そのころのことであった。ユダは・・・」で始まり、ヨセフのことではなく、ヨセフの兄、ユダのことが記されています。そのユダが創世記37章で登場していたのは創世記37章26~27節「すると、ユダが兄弟たちに言った。『弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。』兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた」です。つまりユダは、とても計算高く損得勘定に長けていて、その判断は他の兄弟たちを納得させるものでした。そしてこのユダの計算高く欲深い生き方は、創世記38章でも変わりません。タマルと結婚した長男エルが死に、さらに次男オナンもタマルと結婚した後に死んでしまうと、計算高いユダは三男シェラをタマルと結婚させないようにします。ユダはタマルにこのように語ります。「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい」(創世記38章11節)と。このユダの計算高い計画は、うまくいきそうにみえましたが、いとも簡単にタマルによって打ち砕かれ、ユダ自身がそのタマルとの間に子孫を残すことになります。ユダはこれらのこと全てを見定め最後に語ります。「あの女は私より正しい」(創世記38章26節)と。
さてこのようなことを経験したユダが、その後どのように変わっていくのか。それがこの「ヨセフ物語」を読んでいく上で、ヨセフの展開と共に、創世記38章を機に読み手の関心事となっていきます。そして計算高いユダの姿は、欲深い私たちの姿と重なります。神さまは、欲深く、計算高い私たちと深く関わってくださり、私たちの人生を正しく導いてくださいます。そのような神さまのお姿を「ヨセフ物語」を読み進めながら味わっていきましょう。

20150329 「主がともにおられる」ということ2015年03月29日

監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。
                          創世記39章23節

創世記39章には、ヨセフに対して「主がともにおられた」という内容の箇所が、2節、3節、21節、そして上記聖書箇所23節と4回記されています。ゆえに私たちは、この章を通して「主がともにおられる」ことについて、いくつかのことを知ることができます。私たちは「主がともにおられる」からこそ、私の思い、私の計画、私の希望通りに人生が進んで行くように思います。しかしヨセフの生涯を見る時、そうではないことがわかります。ヨセフには確かに「主がともにおられ」ました。しかしヨセフは「主がともにおられる」からこそ様々な所へ遣わされています。エジプトへ遣わされ、パロの廷臣で侍従長のポティファルの元へ遣わされ、さらに王の囚人が監禁される監獄へ遣わされました。それは、神さまがともにおられる「ヨセフ」を通して、エジプトを祝福し、ポティファルの家を祝福し、監獄の長を祝福するためでした。そして、その遣わされ方は、ヨセフの思い通り、計画通り、希望通りではなく、裏切り、濡れ衣とヨセフの思いもしない、考えもつかない方法での派遣でした。
このヨセフの経験から「主がともにおられる」から何もかもが順調に、思い通り、計画通り、希望通り進むのではないことがわかります。しかし自らの思い、自らの計画、自らの希望が進まない時こそ、実は神さまのご計画が前進している時なのです。そして神さまは、あなたを通して、その遣わされた先を祝福しようとされているのです。
春は変化の時です。私の思い、私の計画、私の希望が通らず、そのような中で遣わされていくことは、不安ですし不本意です。しかしその派遣された先には、神さまの「成功」という御業が待っているのです。あなたが経験した思いもかけない出来事は、神さまが行なわれる「成功」の出発点です。あなたとともにいてくださる神さまに期待し、神さまが遣わされた先で地の塩、世の光として力強く歩み出しましょう。