20141005 私たちはキリスト者2014年10月05日

ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。       創世記14章13節

上記聖書箇所で特筆すべきことは、「ヘブル人」という表現が初めて聖書に登場する箇所だということです。新約聖書と旧約聖書の両方に親しんでいる私たちにとって、新約聖書に「ヘブル人への手紙」という書簡があるため、「ヘブル人」は聖書に良く登場することばのように思いがちですが、旧約聖書に31回、新約聖書に2回しか使われていません。ちなみに新約聖書の2回は2つともパウロが自分のプロフィールについて触れているところです(第2コリント11章22節、ピリピ3章5節)。
さて「ヘブル人」について聖書辞典を調べると、このように書かれていました。「旧約聖書におけるヘブル人。〈ヘブル語〉イブリーは動詞〈ヘブル語〉アーバル(『渡る、進む、通り過ぎる、越える』という意味)と関連づけて『(向うから)渡ってきた人』と解される。『通り過ぎる』とは、牧羊生活を営む人々またはそのような社会層を指す表現であったかもしれない」と。また「ヘブル人」とほぼ同じ人たちを指す「イスラエル人」は聖書中に601回、「ユダヤ人」は269回登場しますので、それと比べてみても「ヘブル人」はかなり特異な表現と言えます。
私の印象では、「ヘブル人」は上記聖書箇所に由来し「アブラハムの子孫」であることが意識され、「イスラエル人」は12部族の父ヤコブ(後にイスラエル、アブラハムの孫)が意識され、「ユダヤ人」は「ユダヤ教」が意識されて使われているように感じています。そしてこのような呼び方の延長線上に「クリスチャン」(キリスト者)ということばが生まれてきています。私たちは、文化を越え、言語を越え、習慣を越え、イエスさまに贖われた者として「キリスト者」とされ、あらゆる民族とつながりながら歩む存在です。あなたも「キリスト者」となり、あらゆる民族と関わりながら共に「神の国」を建て上げていきましょう。

20141012 祝福、信仰告白、そして契約2014年10月12日

①彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。    創世記15章6節
②これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」                        創世記15章1節
③そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」                     創世記15章5節

上記①の聖書箇所は、新約聖書ローマ人への手紙における信仰義認の根拠として引用される箇所です。けれども丁寧にこのアブラムの信仰告白前後を読むと、アブラムの信仰告白は、神さまのアブラムへの祝福が語られた後になされています。その神さまからの祝福とは、上記②③の聖書箇所です。
そこには、神さまの守りと大きな報い、そして天の星の数ほどに子孫が増えるという数の祝福です。つまりアブラムの信仰告白は、神さまからの祝福のことばへの応答としてなされているのです。
そして今、私たちが手にしている聖書(旧約聖書、新約聖書)には、アブラムが創世記15章で聞かされた以上にたくさんの神さまの守り、大きな報い、そして数の祝福が語られています。それを読む私たちに求められていることは、アブラムと同様、その神さまのことばを信じるのか、信じないのかです。そして今も、アブラムと同様、この聖書に書かれている神さまのことばを信じる者を神さまは義(正しい)としてくださり、その者と契約を結んでくださり、この聖書のことばをその人の人生に、その人の周りに力強く現してくださいます。
信仰の父と言われたアブラムに倣い、私たちも日々、神さまのことばを信じ、聖書が約束している守り、大きな報い、数の祝福を私たちの人生の中に力強く見せていただきましょう。

20141019 ご覧になる神さまとの会話(お祈り)2014年10月19日

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。                    創世記16章13節

上記聖書箇所の「エル・ロイ」の脚注には「ご覧になる神」と説明されています。この「エル・ロイ」ということばを発したのは、アブラムの妻サライの女奴隷ハガルでした。創世記16章を読むとそのハガルが、アブラムの妻、彼女の女主人であるサライに振り回され、辛い状況にあったことが読み取れます。ハガルは、自分の女主人サライに言われてアブラムの妻となり(3節)、アブラムの子をみごもりますが、アブラムの子を身ごもると、今度は自分を見下げているとサライからいじめられます(5節)。結局ハガルは、そのいじめの辛さから逃れたく身重でありながら女主人サライのもとから逃げ去ります(6節)。しかし、主の使いが女主人サライのもとから逃れた身重のハガルを荒野の泉のほとりで見つけ、ハガルに「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」(9節)と語られました。そしてハガルは、その語りかけられた神さまを「エル・ロイ」と呼んだというのです。
けれどもこのように良くこの箇所を読むと「ご覧になる神」さまだけでなく、語りかけてくださる神さまの姿が見えてきます。そしてその語りかけは、ただ私たちを受容するだけの語りかけではなく、また私たちの全てを否定する語りかけでもありません。創世記16章で主の使いがハガルに語りかけた最初のことばは「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」(8節)でした。神さまはまずハガルの立場をはっきりと「サライの女奴隷ハガル」と表現し、また頭ごなしに「女主人のもとに帰りなさい」(9節)とも言わず、「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」とハガルに考える機会を与えています。ハガルは、この「ご覧になる神」さまと語り合いながら、心穏やかにされ、女主人のもとへと帰って行くのですが、私たちにとってもこの「ご覧になる神」さまとの会話が必要です。神さまとの会話(お祈り)を大切にし、心穏やかな日々を送りましょう。

20141026 全能なる神さまとの契約2014年10月26日

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。                創世記17章1節

創世記17章の特徴は、「契約」ということばです。上記の聖書箇所には「契約」ということばは登場しませんが、17章全体でその数は10回(2節、4節、7節、9節、10節、11節、13節、14節、19節、21節)。17章は27節までありますので、3節ごとに1回以上登場する計算になります。また私たちが手にしているこの「聖書」も「旧約聖書」「新約聖書」に分かれていますが、ここには「旧い契約」と「新しい契約」という意味があります。
さてこのように聖書の神さまは、「契約」を好まれる神さまですが、契約にとって大事なことは、契約の相手がどういう存在かということと、その内容です。どんなにすばらしい内容であっても、契約を結ぶ相手が信用ならない存在であれば、そのような契約は結ぶ意味がありません。なぜならその相手が契約通り対応してくれるのか不確かだからです。
では私たちが、契約を結ぼうとしている聖書の神さまはどのようなお方でしょうか。そのことが上記聖書箇所に記されています。「わたしは全能の神である」と。「全能」とは、漢字の通り「全てを能(あた)う」お方です。つまり、すべてのことを行なうことのできるお方です。ですから私たちは安心してこの神さまと契約を結んでいいのです。契約を結ぶ時、神さまはすべてのことがおできになるお方だからこそ、聖書に記されている一つ一つの約束を、あなたの上になしてくださいます。
イエスさまは、このようにも語られています「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(マタイ5章18節)と。神さまの全能さ、そして神さまの約束の確かさに土台を据え、それぞれの人生を建て上げていきましょう。