主語は「主」②2022年01月02日

アブサロムとイスラエルの人々はみな言った。「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い。」これは、主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。
                        サムエル記第二17章14節

 「アヒトフェルの助言」について聖書はこのように記しています。

当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はすべて、ダビデにもアブサロムにもそのように思われた。                   サムエル記第二16章23節

しかし、主(神さま)は、冒頭引用個所にあるように「アヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定められ」、その通りになっていきます。
 その引用個所において、主語が「主」になっているように、主権者は神さまですから、どんなに人間的に優れた、神さまのことばのように聞こえることばであっても、当然のことですが、神さまの主権にまさるものとはなりえません。
 ダビデ王は、その「神さまの主権」を認める信仰に立っていました。そのためこの困難な状況に至っても、その主権者なる神さまにお委ねしつつ、神さまに自らの思いを素直にお献げしています。その様子が、下記個所に記されています。

そのときダビデは、「アヒトフェルがアブサロムの謀反に荷担している」と知らされた。ダビデは言った。「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」                     サムエル記第二15章31節

 結果的に主権者なる神さまのなされたことは、今回の章に記されている通り、「アヒトフェルの助言を愚かなもの」にすることではなく、アヒトフェルの優れた助言を聞く側に「フシャイの助言の方がより良い」と思わせたことでした。
 今、私たちが、どんなことでも祈れるのは、主権者なる神さまにとっての最善しかならないという信仰に立つからです。今週も主権者なる神さまを信じて、どんなことも祈りつつ、歩みを進めていきましょう。          (吉持日輪生)

ダビデの叫び、父なる神さまの叫び2022年01月09日

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」   
サムエル記第二18章33節

 感情豊かなダビデ王の姿が、この章には記されています。アブサロム王率いる軍と戦う時、ダビデ王はこのように語っています。

私自身も、あなたがたと一緒に出陣する。    サムエル記第二18章2節後半

しかし、兵たちから反対されると次のように答えています。

あなたがたが良いと思うことを、私はしよう。  サムエル記第二18章4節前半

ダビデ王の謙遜さを読み取ることのできるやり取りです。
 そしてこの章最後に記されている冒頭個所では、自分に謀反を起こした息子アブサロムの死に激しく泣くダビデ王の言葉が記されています。この部分を「聴くドラマ聖書」の俳優さんの朗読で聞くと、本当にダビデ王の嘆き悲しむ姿が伝わってきます。その朗読を耳にしながら、私は「父なる神さまの叫び」を感じました。
 私たちも、父なる神さまの前にまさに父ダビデ王の息子アブサロムのような存在です。父なる神さまに反旗を翻し、神さまの忌み嫌われることをしてしまう存在です。しかし、父なる神さまは、そのような私たちが死に定められようとする時、このダビデ王のように激しく嘆き悲しまれるのです。そして、それゆえにひとり息子である「イエスさま」を私たちの代わりに死なせることで「救い」「贖い」の道を用意してくださったのです。
 アブサロムのところに自分の名前を入れ、父なる神さまの叫びとして読んでみてください。
 「わが子〇〇〇。わが子、わが子〇〇〇よ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。〇〇〇。わが子よ、わが子よ。」
 父なる神さまは、このような嘆き悲しみの中で、ひとり息子のイエスさまを私たちの代わりに死なせ、私の救い、私の贖いをなしてくださったのです。今週もそのことを心に刻み、その神さまの思いに応えつつ歩みましょう。(吉持日輪生)

すべてのことがともに働いて益となる2022年01月16日

イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王のうちに十の分を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っている。なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。                サムエル記第二19章43節

 サムエル記第二19章は、ダビデ王の前に登場する人物が、めまぐるしく入れ替わります。ダビデ軍の長ヨアブ(1~7節)、祭司ツァドクとエブヤタル(11~12節)、アマサ(13節)、バフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイ(16節、18~20節、23節)、ツィバ(17節)、ツェルヤの子アビシャイ(21~22節)、サウルの孫メフィボシェテ(24~30節)、ギルアデ人バルジライとキムハム(31~40節)などです。そして最後41~43節は、イスラエルの10部族の人々とユダの2部族の人々とのやりとりで終わっています。この時代は、まだイスラエルが北王国と南王国に分裂していない時ですが、分裂の可能性を感じさせる内容となっています。
 この章を最後まで読み終えて残る印象は、ダビデ王のテキパキとした適切な対応と、「雨降って地固まる」ではないけれども、確固たるダビデ王の体制が整えられていったことを感じさせられます。新約聖書の言葉で表現するならば、下記のことばでしょう。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
                        ローマ人への手紙8章28節

 私たちも、2022年の歩みが必ず神さまによって「すべてのことがともに働いて益となる」と信じ、また期待して歩んでいきましょう。 (吉持日輪生)

神さまの前にすべては明らかにされる2022年01月23日

ヨアブはアマサに「兄弟、おまえは無事か」と言って、アマサに口づけしようとして、右手でアマサのひげをつかんだ。アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブは彼の下腹を突いた。それで、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。ヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバの後を追った。                 サムエル記第二20章9~10節

 上記聖書箇所にある通り、ヨアブは、アマサに挨拶の口づけをするように見せかけて近づき、アマサの下腹を剣で一突きして殺しています。ヨアブの口づけは、まさに「裏切りの口づけ」でした。

 ダビデ王は、自分の息子アブサロムを殺したヨアブに代えて、アマサを軍の長にしていましたが、ヨアブは、アマサを殺し、再び軍の長に返り咲きます。このようにうまく軍の長に返り咲いたヨアブですが、ダビデ王は、晩年、王位を継承したソロモンにこのように語っています。

また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは彼らを虐殺し、平和なときに戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。だから、あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい。彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない。    列王記第一2章5~6節

 イエスさまのおことばを思い出します。

隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。             マルコの福音書4章22節

 すべてを知っておられる神さまの前に、私たちも、正しい歩みを重ねていきましょう。                             (吉持日輪生)

真剣に主の御顔を求めよう2022年01月30日

彼らはサウルとその息子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。               サムエル記第二21章14節

 上記聖書箇所の最後に「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」とあります。この個所を読みながら、日本の教会が、日本人クリスチャンが献げている「この国の祈り」にも「心を動かされて」ほしいと強く思わされました。そのために何が必要なのでしょうか。そのことを今回は、この章から考えます。
 ダビデ王は、3年間続いた飢饉の中、何をしたでしょうか。「それで、ダビデは主の御顔を求めた」(サムエル記第二21章1節前半)とあります。それまでも日々の生活の中で、習慣的に神さまに祈ることはもちろんあったことでしょう。飢饉1年目2年目も習慣的な礼拝、習慣的な祈りを献げながら、生活の方は蓄えていたものでなんとかやりくりできていたのでしょう。しかし、さすがに飢饉が3年も続くと生活も厳しくなり、様々な不安も大きくなっていったと考えられます。そのような中、ダビデ王は習慣的ではなく、真剣に、切実な思いで「主の御顔を求め」たのです。
 神さまは、私たち信仰者の信仰を目覚めさせるために、度々厳しい状況に置かれます。そのような中、私たちも習慣的な礼拝生活、習慣的な祈りの生活から、真剣な「礼拝」へ、切実な「祈り」へと導かれます。そのような状況がダビデ王にも現れたことを、聖書は「それで、ダビデは主の御顔を求めた」(サムエル記第二21章1節前半)と記しているのです。そしてダビデ王をはじめとするイスラエルの真剣な礼拝、切実な祈りに、冒頭聖書箇所にある通り「神はこの国の祈りに心を動かされた」のです。
 今、私たちは、新型コロナウイルスの災いの中、3年目の歩みを始めています。私たちも、ダビデ王のように、習慣的な礼拝、習慣的な祈りではなく、真剣な礼拝、切実な祈りを献げつつ、「神はこの国の祈りに心を動かされた」と導かれるように歩みたいものです。今週も、真剣な礼拝、切実な祈りを献げつつ歩みましょう。                            (吉持日輪生)