真剣に主の御顔を求めよう2022年01月30日

彼らはサウルとその息子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。               サムエル記第二21章14節

 上記聖書箇所の最後に「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」とあります。この個所を読みながら、日本の教会が、日本人クリスチャンが献げている「この国の祈り」にも「心を動かされて」ほしいと強く思わされました。そのために何が必要なのでしょうか。そのことを今回は、この章から考えます。
 ダビデ王は、3年間続いた飢饉の中、何をしたでしょうか。「それで、ダビデは主の御顔を求めた」(サムエル記第二21章1節前半)とあります。それまでも日々の生活の中で、習慣的に神さまに祈ることはもちろんあったことでしょう。飢饉1年目2年目も習慣的な礼拝、習慣的な祈りを献げながら、生活の方は蓄えていたものでなんとかやりくりできていたのでしょう。しかし、さすがに飢饉が3年も続くと生活も厳しくなり、様々な不安も大きくなっていったと考えられます。そのような中、ダビデ王は習慣的ではなく、真剣に、切実な思いで「主の御顔を求め」たのです。
 神さまは、私たち信仰者の信仰を目覚めさせるために、度々厳しい状況に置かれます。そのような中、私たちも習慣的な礼拝生活、習慣的な祈りの生活から、真剣な「礼拝」へ、切実な「祈り」へと導かれます。そのような状況がダビデ王にも現れたことを、聖書は「それで、ダビデは主の御顔を求めた」(サムエル記第二21章1節前半)と記しているのです。そしてダビデ王をはじめとするイスラエルの真剣な礼拝、切実な祈りに、冒頭聖書箇所にある通り「神はこの国の祈りに心を動かされた」のです。
 今、私たちは、新型コロナウイルスの災いの中、3年目の歩みを始めています。私たちも、ダビデ王のように、習慣的な礼拝、習慣的な祈りではなく、真剣な礼拝、切実な祈りを献げつつ、「神はこの国の祈りに心を動かされた」と導かれるように歩みたいものです。今週も、真剣な礼拝、切実な祈りを献げつつ歩みましょう。                            (吉持日輪生)