ダビデの葛藤2021年08月01日

ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」ダビデは言った。「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。…」
                    サムエル記第一 26章9~10節

 サムエル記第一24章に続いて、サウル王を「主に油注がれた方」として、自ら手を下して殺すことを避けているのがサムエル記第一26章です。しかし、ダビデの中にも葛藤があったことが伺えます。サムエル記第一24章では、サウル王が、たまたまダビデたちがいた洞穴に入ってきたのに対して、今回のサムエル記第一26章では、ダビデの方からサウル王のもとに出かけて行っています。しかし、サウル王を殺せる機会が与えられたにもかかわらず、やはり殺すことは思いとどまり、冒頭の引用箇所のように語っているのです。
 つまりダビデは、葛藤しながらも、主にゆだねる道を選んだのです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。   
                            伝道者の書 3章11節
 
 このことばは、ダビデの息子ソロモンの知恵として聖書が記していますが、この信仰、この知恵は、当然最初はソロモンの父ダビデが、時間をかけて神さまから学んだものであり、それがソロモンにも受け継がれていったのでしょう。
 そして、私たちの人生の主権者も、私ではなく、神さまです。だからこそ私たちも、その神さまのご意思を聖書から学びつつ、日々下さなければならない様々な選択、決断の根拠に、常に聖書のことばを据えることが大切です。
 今週も、主権者である神さまにゆだねつつ、聖書のことばを根拠に日々の歩みを重ねていきましょう。 (吉持日輪生)

順調な時もそうでない時も2021年08月08日

ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。         
                          サムエル記第一 27章2節

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。 
                          サムエル記第一 22章2節

 上記引用箇所の2つ目にある通り、ダビデの集団は当初約400人からスタートしました。そして上記引用箇所の1つ目にある通り、その後ダビデの集団は600人になっています。しかし、ダビデの集団について、23章、25章でも記述がありました。それらが以下のものです。

ダビデとその部下およそ六百人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラから逃れたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。                   
                          サムエル記第一 23章13節

ダビデは部下に「各自、自分の剣を帯びよ」と命じた。(中略)四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。
                           サムエル記第一 25章13節

 つまりこれらの記述からダビデの集団が、最初は400人でスタートしますが、すぐに600人に増えたこと。しかしその後は、なかなか600人から増えることがなく、600人を維持していたことがわかります。このようなダビデの状況を踏まえて下記聖書箇所を読むと、ダビデの意気消沈した心の状況がよりわかります。

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」
                           サムエル記第一 27章1節

 私たちも、右肩上がりの順調な時も、現状維持の時も、ダビデのように主に信頼し、主から知恵をいただいて歩みましょう。 (吉持日輪生)

サウル王と私たちとの違い2021年08月15日

サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。主はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。…」                サムエル記第一 28章16節

 「主はあなたから去り、あなたの敵になられた」とは、とても寂しく、悲しいことばです。これまでサウル王に語られてきた「神さまのことば」は、ここまで寂しく、悲しいものではありませんでした。例えば、

さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。                     サムエル記第一 16章14節

 「主の霊」が離れ去り、「わざわいの霊」がもたらされる。このような感じでした。しかし、今回は、「あなたの敵になられた」です。そのため、サウルが神さまに伺いをたてても答えてもらえませんでした。

サウルは主に伺ったが、主は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。             サムエル記第一 28章6節

 このようなサウル王の状況を読むと、私たちも不安になります。なぜなら私たちも、神さまに祈っても、祈っても、答えてもらえないことなどよくあるからです。

 しかし、私たちにはイエスさまの十字架という贖いがあり、またそのことが記されている「聖書」という「神さまのことば」があります。ですからサウル王と同じように「夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても」答えてもらえなくても、私たちは「聖書のことば」から答えを読み取り、「天のお父さま…」と直接神さまに祈ることで、答えをいただくことができます。
 罪人である私たちは、本来はサウル王と同じ状況ですが、イエスさまの贖いの十字架のゆえに、イエスさまの恵みに満ちたおことばの中にあります。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
                         マタイの福音書 28章20節b

 この恵みに満ちた福音を、今週も携え、届けつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)

神さまのあわれみ2021年08月22日

ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。  
             サムエル記第一 29章1~2節

 ダビデが、ガテの王アキシュの元にいたのは「1年4か月」(サムエル記第一27章7節)とありますが、ダビデはその期間でガテの王アキシュの信頼を得ていきます。そのことが下記の個所に記されています。

アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」                  サムエル記第一 27章12節

 しかし、今回のイスラエル人との戦いのために集まったペリシテ人の首長たちの中には、まだまだかつてのダビデのうわさをしっかり覚えている人たちがいました。

この男は、皆が踊りながら、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたダビデではないか。           サムエル記第一 29章5節

 神さまのあわれみは、このダビデのうわさ、記憶をペリシテ人の首長たちの中に思い起こさせ、ダビデが、このイスラエル人との戦いから逃れられるようにしてくださいました。それだけではありません、次章サムエル記第一30章を読むと、ダビデたちが、この戦いから外れ、ツィクラグに戻ることも神さまのあわれみであったことを知ることができます。神さまのあわれみ深さは、本当にはかりしれません。
 今週も、そのような神さまのあわれみに包まれながら歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)

寛容なダビデの姿に倣おう2021年08月29日

兵たちは野で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二房の干しぶどうをやると、そのエジプト人はそれを食べて元気を回復した。彼は三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったのである。
                    サムエル記第一 30章11~12節

 ダビデ一行が、ペリシテ人の戦いに同行している間に、アマレク人たちが、ダビデたちが住んでいたツィクラグを、攻撃し、火で焼き払い、ツィクラグに残っていたダビデとその兵士たちの妻も息子も娘も連れ去られてしまいます。そのような困難な中、ダビデは主に伺い、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」と答えをいただき、アマレク人を追います。その中で、出会ったのが、冒頭に引用した弱り果て倒れていたエジプト人でした。そして、そのエジプト人をダビデは、とても暖かく取り扱います。ダビデの扱いが暖かいものであったことは、次の個所からも良くわかります。

ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。       
                    サムエル記第一 30章13節

 アマレク人は、この奴隷(エジプト人)を病気だからと置き去りにし、ダビデは、
アマレク人たちを追いかけることより、この弱っているエジプト人を介抱することを優先したのです。その結果、そのエジプト人の病気は癒され、元気を取り戻します。そしてこのエジプト人の存在が、アマレク人から「自分たちの妻、息子、娘」を取り戻すことにつながります。
 このようなダビデの暖かい姿勢は、30章の後半にも記されています。

戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。          サムエル記第一 30章24節b

 私たちもこのようなダビデの姿に倣い、今週、神さまが出会わせてくださるお一人お一人と隣人愛をもってしっかりと向き合い、手を差し伸べていきましょう。             (吉持日輪生)