20130707 キリストの愛を知る2013年07月07日

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」
 エペソ人への手紙3章19節

 聖書は私たちに「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と勧めています。いったいキリストの愛とはどのようなものなのでしょうか。それは第一に互いに受け入れ合うことです。聖書には「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」とあります。愛は互いの違いを認めて、受け入れ合うことから始まります。キリストは人々から嫌われ蔑まれていた取税人たちとともに食事をし、彼らの友となりました。キリストは偏見を持って人を見ることをしませんでした。
 第二に、赦すことです。聖書は「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」と勧めています。人はみな不完全です。過ちや失敗を仕出かします。私たちが人と関わって生きようとするとき、絶えず赦し、赦され続ける必要があります。キリストは私たちの罪を赦すために十字架で身代わりに死んでくださったのです。
 第三に、仕えることです。聖書には「それぞれ賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」とあります。神様は私たちにいろいろな賜物を与えておられます。その目的は自分のためにではなく、他の人のために用いることです。私たちは互いに仕え合うためにこの地上に置かれているのです。
 第四に、励ますことです。聖書は「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と勧めています。愛するとは他の人を励ますことです。人はだれでも励ましを必要としています。人をおとしめ、心を挫くことは愛とは正反対のことです。愛する人は他の人の応援団になります。キリストは私たちの応援団長です。決して私たちを見捨てることはありません。愛に生きましょう。

20130714 愛はホスピタリティを生み出す2013年07月14日

「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」ローマ人への手紙12章13節

 新約聖書の中に、もてなすことについての言及がよく記されています。この「もてなし」は英語でホスピタリティと言い、普通に日本語としてよく用いられています。上記の聖書箇所では「旅人をもてなしなさい」と勧められています。ホスピタリティの元の意味はこの「旅人をもてなす」ことにあったことが分かります。新約聖書の時代、現代のようにホテルが至る所にあったわけではありません。宿屋はわずかであり、値段も高く、またたいへん危険でもありました。そのような状況の中でクリスチャンは彼らの家を開放して旅をする信者たちに宿泊と食事を提供したのです。とりわけ各地を巡回する伝道者たちのためには進んで愛のもてなしが提供されたのです。ホスピタリティは愛に基づくクリスチャンの交わりのしるしです。
 新約聖書の教会は現代のように教会堂を中心にした活動をしていませんでした。教会の活動の中心はクリスチャンの家々に置かれていました。キリスト教会が教会堂を持つのはずっと後の時代のことです。新約聖書のクリスチャンたちはあらゆる活動を自分たちの家々で持っていたのです。彼らは家々で共に食事をし、交わり、礼拝し、説教を聞き、学び合い、そして伝道をしていたのです。すべてのクリスチャンの家庭がもっと開かれて、愛のもてなしが実践されていくことは神様の御心ではないかと思います。クリスチャンの家庭が、ホスピタリティを必要としている人々にとって人生の嵐を避ける港のようになっていったら、どんなにすばらしい神様の御業が起きることでしょうか。
 ホスピタリティのすばらしい模範はイエス様の「良きサマリヤ人」のたとえ話に見出すことができます。強盗に襲われ、半殺しの目にあい、傷つき倒れているユダヤ人に対して、敵対していたサマリヤ人がかわいそうに思い、近づき、介抱してあげるのです。さらに宿屋にまで連れて行き、その費用まで負担してあげるのです。見知らぬ人へのこれほどまでのホスピタリティがあるでしょうか。愛はホスピタリティを生み出すのです。

20130721 神様はいつも不完全な者たちを用いられた2013年07月21日

「さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、」 マタイの福音書10章2節

 イエス様は多くの弟子たちの中から12人を選んで、使徒と名付け、ご自分の働きの後継者にしました。彼らの使命は全世界の人々にイエス様の福音を宣べ伝えることでした。イエス様がこの重大な使命を委ねた12人の使徒たちとはどのような人々だったのでしょうか。彼らは大切な働きに相応しい高い能力や教養を持った人々ではありませんでした。彼らは不完全で罪深い者たちでした。聖書の歴史を見るとき、私たちは神様がいつも不完全な者たちを用いて、神様の大いなるご計画を成し遂げられてきたことに気づかされます。神様はご自身の大切な働きのために相応しくない者たちを選んで用いられます。それはたいへん恵み深いことです。
 旧約聖書から、神様に用いられた信仰者でありながら、不完全でもあった人々の例を見てみましょう。ノアは洪水から救出された後、酔っぱらって不品行なことを仕出かしました。信仰の父と呼ばれたアブラハムは、神様に信頼することができず、妻を妹と偽ったり、妻の女中であったハガルと関係をもって子どもを得ました。イサクも自分の命が危うくなったとき、同じように妻について偽りを言いました。ヤコブは兄のエサウの弱さに付け込んで、彼から長子の特権を奪いました。モーセは殺人者でした。また彼は高ぶり、神の命令に逆らったゆえに、約束の地に入れませんでした。彼の兄アロンは最初の祭司職を与えられた人でしたが、モーセがシナイ山で神様から律法を受け取っていたとき、金の子牛の像を造り、それを礼拝するようにイスラエル人を導きました。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したゆえに、父親としての権威を失いました。また彼はたくさんの血を流したゆえに神様の宮を建てることを許されませんでした。もうこれ以上述べる必要はないでしょう。神様はいつも不完全な者たちを用いて神様のご計画を成し遂げられるのです。この事実は私たちにとって大きな励ましです。神様の力は私たちの弱さのうちに完全に現れると聖書は語っています。

20130728 一番弟子と呼ばれたペテロ2013年07月28日

「さて、十二使徒の名はつぎのとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンと兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」  マタイの福音書10章2節

 新約聖書の中で、イエス様のほかに、ペテロほどその名を記されている人はいないでしょう。彼はイエス様によって12人の使徒の一人に選ばれました。上記の聖書箇所に、「まず、ペテロと呼ばれるシモン」とあるように、シモン・ペテロは12人の中で中心人物として活躍することになったのです。イエス様は他のだれよりもペテロと一緒に時を過ごしたのです。それはペテロが絶えずイエス様のそばにいたからです。彼はイエス様にいつも質問し、様々な助言をいただいていたのです。
 さて、ガリラヤ湖畔で漁師をしていた無学なペテロがどのようにして12人の使徒たちの中で中心人物になっていったのでしょうか。いくつかの理由を考えてみましょう。第一に、彼が絶えず質問していたことです。4歳ぐらいの幼子は「なぜ」「どうして」と質問を連発します。いろいろ質問することによって多くのことを学んでいるのです。親が幼子の質問にしっかり答えていくことは子どもの成長を助ける大切な役割を果たしているのです。ペテロのリーダーとしての資質のひとつは絶えず質問することだったのです。ペテロはイエス様が言われたこと、行われたことについて、分からないことは何でも質問したのです。分からないままにしておくことに我慢できなかったのです。彼の質問の多くは未熟で、的外れなものでしたが、イエス様は忍耐をもって彼の質問を用いて彼を成長させてくださったのです。
 第二に、ペテロがいつも率先して行動したことです。イエス様が弟子たちに問いかけた時、真っ先に答えるのはペテロでした。ペテロの行動は間違いだらけでしたが、イエス様のためになると思ったとき、彼はすぐに行動に移したのです。
 第三に、ペテロはイエス様の働きの真ん中にいつも彼自身を置いていたことです。彼は傍観者でいられない人でした。イエス様の働きにいつも関わっていたいと願っていた人でした。私たちもペテロに学びながら、イエス様を目標に成長していきたいものです。