20130804 ねたみから解放されるために2013年08月04日

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」               コリント人への手紙第一13章4節

 ねたみは私たちの人間関係を壊し、また自分の人生をも壊してしまいます。ねたみは2つの形で表れてきます。一つは、他の人が自分よりも良いものを持っているとき、うらやましく思いそれを欲しがることです。もう一つは、他の人が良いものを持っているとき、その人がそれを失うことを願うことです。これは他の人に悪いことを願う破壊的なねたみと言えます。上記の聖書箇所には「愛は人をねたみません」とあります。愛とねたみは共存することができないのです。また別の箇所では、「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。」(箴言27章4節)とねたみの恐ろしさを教えています。私たちはみなねたみを抱くものです。他の人が祝福されているのを見て、ねたましく思うものです。仕事場で、学校で、また家庭の中でねたみ合っています。私たちはどうしたらねたみから解放されるのでしょうか。2つのことを覚えたいと思います。
 第一に、他の人と比較しないことです。聖書には「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」(ガラテヤ6章4節)とあります。ねたみは他の人と比較することから始まるのです。他の人が持っている財産、賜物、能力、立場などと比較せず、うらやましく思わないことです。
 第二に、私たち自身のユニークさに気づくことです。神様は私たちひとり一人をユニークに造られたのです。たとえ何十億人の人がこの地上に生まれてきても、私たちはみな違い、同じ人間は一人もいないのです。神様は私たちひとり一人に違った計画を持って造られているのです。私たちが他の人をねたましく思うとき、それは私たちに対する神様のご計画を私たち自身で台無しにしていることになるのです。聖書には「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2章10節)とあります。

20130811 雷の子と呼ばれた人が愛の使徒に2013年08月11日

「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。」
ヨハネの福音書13章23節

 イエス様はご自分の働きの後継者として12人の弟子を選び、使徒としました。その中に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの二人がいました。彼らはペテロとアンデレの兄弟とともにガリラヤ湖で漁師をしていました。この4人は12使徒の中でもいつもイエス様のそばに置かれ、密度の濃いトレーニングを受けたのでした。
 さて、この4人の中で、いつも4番目に名を記されているヨハネについて考えてみましょう。ヨハネは兄弟ヤコブとともにイエス様から「雷の子」と名づけられていました。その理由は彼らの激しい性格のためであったようです。イエス様一行がガリラヤからエルサレムに向かっている途中、サマリヤで一泊しようとしていたときです。弟子たちはイエス様に命じられて、サマリヤの人々に宿を求めましたが、拒まれました。これを見て、ヤコブとヨハネは「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言ったのです。「しかし、イエス様は振り向いて、彼らを戒められた」とあります。
 ヨハネたちのように熱心で、激しやすい性格の人はしばしば相手の気持ちを気遣う感性に欠けることがあります。ヨハネは荒削りで、感情的で、すぐに爆発してしまうタイプの人でしたが、イエス様とともに歩む中で愛の使徒と呼ばれるほどに大きく変えられたのです。上記のヨハネが書いた福音書の箇所に、ヨハネは自分のことを、「イエスが愛しておられた者」と記しています。ヨハネはイエス様に愛されることを通して愛に満たされて、他の人に愛を注ぐ者と変えられていったのです。イエス様が十字架上でヨハネに母マリヤを託したことがヨハネによって福音書に記されています。雷の子から愛の使徒に造り変えられたヨハネであったからこそ、イエス様は安心して大切な母の行く末をヨハネに託すことができたのです。伝説によると、ヨハネはマリヤが召されるまでエルサレムにとどまり世話をしたと言われています。熱心だけでは不十分です。他の人に対する愛がなければ良い働きをすることはできないのです。

20130818 あわれみに満ちた神様2013年08月18日

「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」                     マタイの福音書9章36節

 大勢の人々が数か月にもわたりイエス様に従っていました。町から町へ、会堂から会堂へ、家から家へ、イエス様が行くところどこにでも彼らはついて行きました。イエス様はそのような人々をご覧になってかわいそうに思われ、引き続き、彼らに説教し、教え、癒し、仕えておられました。イエス様の奉仕の動機は、神様にしか持ちえない人々への深いあわれみでした。人々の悲しみ、痛み、苦しみ、弱さに対してイエス様もともに悲しみ、痛み、苦しみ、その弱さを感じ、お心に受け留められました。
 イエス様が病を癒されたとき、しばしば手を伸ばしてその人に触れて癒されたとあります。そこにイエス様の深いあわれみの心が表されています。あるとき、ハンセン氏病の重い病を罹っていた人がイエス様のところにやって来ました。宗教家である律法学者やパリサイ人ならばこの人を決して受け入れることはせず、むしろ恐ろしい剣幕で怒鳴り、石を投げつけたことでしょう。当時の人々はこのような人が近づくだけで病気が移り、また宗教的にも汚れると恐れていたからです。しかしイエス様はこの人を深くあわれんで受け入れられました。そして手を伸ばして「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われ、彼に触って癒されたのです。どんな病も一言で癒すことができたイエス様が、なぜわざわざ手を伸ばし彼に触れていやされたのでしょうか。それはイエス様のあわれみの愛を示しているのです。この人はこの病のゆえにだれからも触れてもらえない人でした。イエス様は触れて欲しいと願うこの人の心を見抜いて、手を伸ばして触れられたのでした。イエス様のこの行為は彼の病と彼の苦しみをご自分の身に引き受けられたことを意味したのでした。
 神様はあわれみに満ちたお方です。私たちは神様の御子イエス様のお姿の中に神様のあわれみに満ちたご性質を見ることができるのです。

20130825 何をするにも、ただ神の栄光のために2013年08月25日

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」        コリント人への手紙第一10章31節

 聖書は私たちに「何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」と命じています。この言葉から2つのことを考えてみたいと思います。第一に、何をするにも、人に対してではなく、神様に対してすることです。ある退職した人の話です。彼は近くのショッピングモールに行くのが楽しみでした。あるとき、そのモールの一部改修工事が始まりました。彼は一人のクレーンを操作している人の働きぶりにたいへん感心しました。彼は毎日来て、熱心に働くその姿を見ていました。ついに、その改修工事の終わりがきました。彼はその人に話す機会を見つけて言いました。「私は退職者です。毎日ここに来て、あなたの仕事ぶりを見ていました。私はたいへん驚き、目を見張りました。あなたは仕事にどれほど熱心に取り組んでいたことでしょうか。」そのとき、その人は彼を見つめ、大きな目を開いて言いました。「あなたは退職者だったのですか。私はあなたがこの工事の監督者だと思っていました。」私たちはしばしば人が見ているときだけ、一生懸命に働くものです。しかし私たちは人のためでなく、神様のために働くのです。神様はいつも私たちの仕事を見ておられるのです。
 第二に、自分に与えられた仕事のプロになることを通して神様の栄光を現わすことです。私たちは直接神様の働きをすることが神様の御心に適い、神様の栄光を現わすことだと考えがちです。しかし聖書は「何をするにも」と言っています。イチロー選手が4千本安打を達成したことが大きな話題になっています。そのインタビューで、8千本の打ち損じのことが悔しいと述べていました。22年間の平均打率が三割を超える好打者ですが、尚打ち損じたことに悔しさを覚え、さらなる成長へと目を向けている姿勢に本当のプロフェッショナルの姿を見ることができます。私たちも自分に与えられた仕事が何であれ、神様の栄光を現わすためにその仕事を極める本当のプロになることが求められています。