ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファル登場 ― 2025年02月02日
ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。
ヨブ記11章2~3節前半
ヨブ記11章では、ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファルの発言が記されています。そして「ナアマ」という名前は、創世記4章にも登場しています。
一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。トバル・カインの妹はナアマであった。
創世記4章22節
創世記4章を読むと、ナアマはカインの子孫で、「青銅と鉄のあらゆる道具を作る者」であったトバル・カインの妹として紹介されています。つまり女性の名前だということです。またナアマの意味は「楽しい」「喜ばしい」と聖書辞典に記されています。一方ツォファルの意味は「小鳥のようにさえずる」あるいは「喜んで跳びはねる」と説明されています。
このような「ナアマ」「ツォファル」の意味からは、快活な印象を受けますが、名前の通りヨブに快活に語り掛けています。冒頭引用個所は、まさに快活な印象を受ける部分です。
神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。
ヨブ記11章6~9節
あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。
ヨブ記11章17節
神さまが咎を忘れてくださること、神さまがはかり知ることができないほど豊かで大きいこと、そして神さまが私たちの一生を輝かせてくださることなど、様々な神さまについての知識を語っています。しかし、私たちはヨブ記1章2章を読んで知っているからこそ、このような神さまの知識を豊かに持っているナアマ人ツォファルでも知りえない神さまの姿があることを教えられます。
私たちも神さまの知識を豊かにすると共に、知りえない、理解しえない神さまの姿があることを覚え、どんなに知識が豊かにされても神さまの前では謙遜に歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記11章2~3節前半
ヨブ記11章では、ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファルの発言が記されています。そして「ナアマ」という名前は、創世記4章にも登場しています。
一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。トバル・カインの妹はナアマであった。
創世記4章22節
創世記4章を読むと、ナアマはカインの子孫で、「青銅と鉄のあらゆる道具を作る者」であったトバル・カインの妹として紹介されています。つまり女性の名前だということです。またナアマの意味は「楽しい」「喜ばしい」と聖書辞典に記されています。一方ツォファルの意味は「小鳥のようにさえずる」あるいは「喜んで跳びはねる」と説明されています。
このような「ナアマ」「ツォファル」の意味からは、快活な印象を受けますが、名前の通りヨブに快活に語り掛けています。冒頭引用個所は、まさに快活な印象を受ける部分です。
神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。
ヨブ記11章6~9節
あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。
ヨブ記11章17節
神さまが咎を忘れてくださること、神さまがはかり知ることができないほど豊かで大きいこと、そして神さまが私たちの一生を輝かせてくださることなど、様々な神さまについての知識を語っています。しかし、私たちはヨブ記1章2章を読んで知っているからこそ、このような神さまの知識を豊かに持っているナアマ人ツォファルでも知りえない神さまの姿があることを教えられます。
私たちも神さまの知識を豊かにすると共に、知りえない、理解しえない神さまの姿があることを覚え、どんなに知識が豊かにされても神さまの前では謙遜に歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブの誠実さ、直ぐな心 ― 2025年02月09日
私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。
ヨブ記12章3節
ヨブ記12章は、ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファルの発言を受けて、ヨブが答えています。ナアマ人ツォファルは、ヨブに対して「あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い」(ヨブ記11章7~8節前半)と言われたことに対して、そんなことは私もわかっていると答えています。
同時にヨブも神さまについての知識を語ります。
知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。
ヨブ記12章13節
力と英知は神とともにあり、迷い出る者も、迷わす者も神のものだ。
ヨブ記12章16節
「知恵と力」「思慮と英知」「力と英知」が神さまとともにあることを語っています。さらに「迷い出る者」「迷わす者」も神さまのものと語っています。ここで「迷い出る者」とは、ヨブ自身のことを指しています。ヨブ記6章でヨブ自身このように語っていました。
私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。
ヨブ記6章24節
「迷い出る者」がヨブだとすると、「迷わす者」とはヨブの友人たちということになります。つまりヨブは、ここで「迷い出ているヨブ」も、「ヨブのことをさらに迷わせている友人」も神さまのものと語っているのです。ヨブ記冒頭のヨブの紹介を思い出します。
ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。
ヨブ記1章1節
ヨブの誠実さ、直ぐな心、そして神さまについての知識の豊かさの中で、ヨブが語った「迷い出る者も、迷わす者も神のものだ」のことばが心に残ります。私たちの教会における神の家族の交わりの中にも様々な違いを覚えることがありますが、私たちもヨブの誠実さ、直ぐな心にならい「あなたも、私も神のもの」と語り合える交わりに成長し、成熟していきましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記12章3節
ヨブ記12章は、ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファルの発言を受けて、ヨブが答えています。ナアマ人ツォファルは、ヨブに対して「あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い」(ヨブ記11章7~8節前半)と言われたことに対して、そんなことは私もわかっていると答えています。
同時にヨブも神さまについての知識を語ります。
知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。
ヨブ記12章13節
力と英知は神とともにあり、迷い出る者も、迷わす者も神のものだ。
ヨブ記12章16節
「知恵と力」「思慮と英知」「力と英知」が神さまとともにあることを語っています。さらに「迷い出る者」「迷わす者」も神さまのものと語っています。ここで「迷い出る者」とは、ヨブ自身のことを指しています。ヨブ記6章でヨブ自身このように語っていました。
私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。
ヨブ記6章24節
「迷い出る者」がヨブだとすると、「迷わす者」とはヨブの友人たちということになります。つまりヨブは、ここで「迷い出ているヨブ」も、「ヨブのことをさらに迷わせている友人」も神さまのものと語っているのです。ヨブ記冒頭のヨブの紹介を思い出します。
ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。
ヨブ記1章1節
ヨブの誠実さ、直ぐな心、そして神さまについての知識の豊かさの中で、ヨブが語った「迷い出る者も、迷わす者も神のものだ」のことばが心に残ります。私たちの教会における神の家族の交わりの中にも様々な違いを覚えることがありますが、私たちもヨブの誠実さ、直ぐな心にならい「あなたも、私も神のもの」と語り合える交わりに成長し、成熟していきましょう。 (吉持日輪生)
「神のことば」は力強い ― 2025年02月16日
けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。
ヨブ記13章3節
ヨブ記13章も、ヨブの発言が続きます。ヨブ記はこれまで見てきた通りヨブとヨブの三人の友人たちとのやりとりで進んでいきます。テマン人エリファズは「4章5章」「15章」「22章」で発言をしています。シュアハ人ビルダデは「8章」「18章」「25章」で発言しています。そして三人目のナアマ人ツォファルは「11章」「20章」で発言しています。このようにヨブ記は、ヨブとヨブの三人の友人たちとのやり取りが27章まで続きます。ヨブ記は全部で42章ありますので、その大半は友人たちとの対話です。
このようなヨブ記の特徴を知る時、冒頭で引用した「神と論じ合うことを願う」とのヨブのことばは、三人の友人たちとの対話を一通りやり終えたヨブの素直な気持ちとして読むことができます。
私たちも、様々な試練や、困難、悲しみの中に置かれた時、家族や、友人たちからの慰め、励ましのことばに助けられる面はありますが、やはり「神のことば」に勝るものはありません。家族や、友人がクリスチャンであっても、やはり「人のことば」は、束の間の慰め、励ましです。根本的なところからの慰め、励ましは、やはり「神のことば」からしか得られません。
クリスチャンが、困難な中に置かれている友人や、知人への手紙や、メールの中で、みことばを送るのは、まさにそのような思いからです。「とりなしの祈り」も、神さまがその友人、知人に直接関わってくださり、直接語り掛けてくださることを祈るものです。
私たちクリスチャンは、「人の慰め、励まし」「人のことば」の限界を知ると共に、私たちは「神のことば」の力強さを信じ、聖書に記されている「神のことば」を届け続けたいのです。「人のことば」の限界を知りつつ、友人、知人を励ますと共に、私たちが目指すところは、「全能なる神さまのことば」「聖書に記されている神のことば」を、大切な人たちに届けることです。
今週も、「人のことば」としての励まし、慰めを隣人に届けると共に、隣人に、力ある「神のことば」を届け続けましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記13章3節
ヨブ記13章も、ヨブの発言が続きます。ヨブ記はこれまで見てきた通りヨブとヨブの三人の友人たちとのやりとりで進んでいきます。テマン人エリファズは「4章5章」「15章」「22章」で発言をしています。シュアハ人ビルダデは「8章」「18章」「25章」で発言しています。そして三人目のナアマ人ツォファルは「11章」「20章」で発言しています。このようにヨブ記は、ヨブとヨブの三人の友人たちとのやり取りが27章まで続きます。ヨブ記は全部で42章ありますので、その大半は友人たちとの対話です。
このようなヨブ記の特徴を知る時、冒頭で引用した「神と論じ合うことを願う」とのヨブのことばは、三人の友人たちとの対話を一通りやり終えたヨブの素直な気持ちとして読むことができます。
私たちも、様々な試練や、困難、悲しみの中に置かれた時、家族や、友人たちからの慰め、励ましのことばに助けられる面はありますが、やはり「神のことば」に勝るものはありません。家族や、友人がクリスチャンであっても、やはり「人のことば」は、束の間の慰め、励ましです。根本的なところからの慰め、励ましは、やはり「神のことば」からしか得られません。
クリスチャンが、困難な中に置かれている友人や、知人への手紙や、メールの中で、みことばを送るのは、まさにそのような思いからです。「とりなしの祈り」も、神さまがその友人、知人に直接関わってくださり、直接語り掛けてくださることを祈るものです。
私たちクリスチャンは、「人の慰め、励まし」「人のことば」の限界を知ると共に、私たちは「神のことば」の力強さを信じ、聖書に記されている「神のことば」を届け続けたいのです。「人のことば」の限界を知りつつ、友人、知人を励ますと共に、私たちが目指すところは、「全能なる神さまのことば」「聖書に記されている神のことば」を、大切な人たちに届けることです。
今週も、「人のことば」としての励まし、慰めを隣人に届けると共に、隣人に、力ある「神のことば」を届け続けましょう。 (吉持日輪生)
神さまについての知識を得る ― 2025年02月23日
木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し その若枝は絶えることがない。たとえ、その根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し、苗木のように枝を出す。しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。水は海から消え去り、川は干上がり、涸れる。そのように、人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない。
ヨブ記14章7~12節
ヨブ記14章も、ヨブの発言が続きます。今から3千年以上前に書かれたヨブ記を読んでいると、ヨブや、ヨブの友人たちの知識の豊かさに驚かされます。上記引用個所でも、「木」という植物の知識が豊富です。「たとえ切られても、また芽を出し」とか、「根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し」など、植物の知識が正確に語られています。
同時に「人間の死」についても、正確に語られています。「人は死ぬと倒れたきり」「人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない」と、人間の死と、聖書が語る「よみがえり」について語っています。
また神さまの前の人間の姿もしっかりと理解しています。
今、あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を留めないでください。私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。
ヨブ記14章16~17節
神さまは、私たちの「一歩一歩」を数えることができるほどに知っておられること。また、どんなに小さな罪でも「私の罪に目を留め」られるお方であること。だからこそ、「私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください」と願う必要があることを、ヨブはしっかりと語っています。
私たちの一般的な知識は、ヨブ記の時代の人たちより、またヨブよりも豊かかもしれませんが、神さまに対する知識は取るに足りないものです。だからこそ私たちは、「旧新約聖書」を通して正確な神さまについての知識をいただく必要があります。今週も、聖書を通して「神さまについての知識」を豊かにし、真実な神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記14章7~12節
ヨブ記14章も、ヨブの発言が続きます。今から3千年以上前に書かれたヨブ記を読んでいると、ヨブや、ヨブの友人たちの知識の豊かさに驚かされます。上記引用個所でも、「木」という植物の知識が豊富です。「たとえ切られても、また芽を出し」とか、「根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し」など、植物の知識が正確に語られています。
同時に「人間の死」についても、正確に語られています。「人は死ぬと倒れたきり」「人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない」と、人間の死と、聖書が語る「よみがえり」について語っています。
また神さまの前の人間の姿もしっかりと理解しています。
今、あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を留めないでください。私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。
ヨブ記14章16~17節
神さまは、私たちの「一歩一歩」を数えることができるほどに知っておられること。また、どんなに小さな罪でも「私の罪に目を留め」られるお方であること。だからこそ、「私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください」と願う必要があることを、ヨブはしっかりと語っています。
私たちの一般的な知識は、ヨブ記の時代の人たちより、またヨブよりも豊かかもしれませんが、神さまに対する知識は取るに足りないものです。だからこそ私たちは、「旧新約聖書」を通して正確な神さまについての知識をいただく必要があります。今週も、聖書を通して「神さまについての知識」を豊かにし、真実な神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
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