ヨブのように2025年01月05日

ですから、私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます。
                   ヨブ記7章11節

 ヨブの友であるテマン人エリファズの発言は、ヨブ記1章~2章を知らないからこそ、的外れな発言でした。しかし、ヨブも同じ状況でした。当然と言えば当然でしょう。財産を失い、子どもを失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患っているのですから。
 そしてヨブは、そのような状況の中、冒頭引用個所にある通り、「自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆」いています。
 私たちは、このようなヨブの姿から慰めを覚えます。なぜなら私たちも「試練の中にあって」「霊の苦しみの中にあって」、また「たましいの苦悩の中にあって」嘆くからです。ヨブのように「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかって」(ヨブ記1章1節)いても、「朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げ」(1章5節)ていても、また神さまから「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1章8節)と言われるような人でもです。
 いよいよ2024年も終わり、2025年が始まりました。年が変わっても、それぞれが置かれている状況、抱えている問題や課題、直面している試練や苦しみは変わらないことでしょう。私たちクリスチャンも、神さまから「問題や課題」「試練や苦しみ」の意味を教えていただくまでは、ヨブのように「自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆く」ことが許されているのです。
 私たちは、全ての源である神さまを信じる者として、大いに嘆き、大いに祈り、大いに神さまに礼拝を献げるのです。今年も週に1回、それぞれの生活している空間、状況から離れて、主の日の礼拝を共に献げ続けましょう。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。     
                  ローマ人への手紙11章36節  
                                 (吉持日輪生)

ヨブの友シュアハ人ビルダデの登場2025年01月12日

次に、シュアハ人ビルダデが答えた。 
                      ヨブ記8章1節

 ヨブの友として二人目のシュアハ人ビルダデが登場します。ヨブの友として登場した一人目のテマン人エリファズは、「テマン人」が「エサウ(ヤコブの兄)の長子」であることから、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の流れから外れていることがわかります。一方「シュアハ人」は、創世記25章1~2節に登場します。

アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。彼女はアブラハムに、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハを産んだ。
                      創世記25章1~2節

 このことからシュアハは、アブラハムの最初の妻サラとの間の子ではなく、妻サラが亡くなった後にアブラハムが結婚したケトラとの間の子であることがわかります。やはり「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主流派から少し外れているという点では、ヨブの一人目の友人と似ています。そしてシュアハ人ビルダデの主張は、「もし、あなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう」(6節)、「見よ。神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない」(20節)というものでした。
 ヨブ記4~5章で読んできたテマン人エリファズの主張と同様に、シュアハ人ビルダデの主張も、ヨブ自身の中に、今回の苦しみの原因があるというものでした。この主張自体は間違いではありませんが、これまでも触れてきた通り、ヨブ記1~2章を知っているヨブ記の読み手である私たちは、事実との違いを感じてしまいます。
 そしてそのような違いに触れる時、サムエル記第一2章に記されていた「ハンナの祈り」の一部を思い出します。

おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。
                      サムエル記第一2章3節

 今週も「おごり高ぶって、多くのことを語る」ことがないように、神さまの前に慎み深く歩みましょう。                   (吉持日輪生)

ヨブの戸惑いからの気付き2025年01月19日

ヨブは答えた。そのとおりであることを、私は確かに知っている。しかし、人はどのようにして、神の前に正しくあり得るのか。
                    ヨブ記9章1~2節

 ヨブ記9章では、ヨブがヨブの友シュアハ人ビルダデの発言に答えています。ヨブは、シュアハ人ビルダデの発言に対して「そのとおりであることを、私は確かに知っている」(2節)と答えています。シュアハ人ビルダデの発言を肯定しつつも、ヨブ自身の中にある戸惑いを語っています。

まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。    ヨブ記9章14節

たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。    ヨブ記9章20節

自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを。私はきっと、悪しき者とされるでしょう。         ヨブ記9章28節~29節前半

 このようにヨブは、自らの中にある戸惑いを吐露しつつ、あることに気付かされます。

私たち二人(神さまとヨブ)の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。     ヨブ記9章33節

 短いヨブのことばですが、仲介者、仲裁者、通訳者なるイエスさまが与えられている私たちとの大きな違いを感じます。そして私たちも、もし仲介者、仲裁者、通訳者なるイエスさまがおられなかったら、このヨブのような戸惑いに直面するのでしょう。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。    テモテへの手紙第一2章5節

 今週も、仲介者、仲裁者、通訳者であるイエスさまに助けてもらいながら、神さまと共に歩みましょう。 
                    (吉持日輪生)

ヨブの思いからわかること2025年01月26日

それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。
                        ヨブ記10章6~7節

 ヨブ記10章は、ヨブ記9章に続いて、ヨブの発言が記されています。そして10章も9章と同様、イエスさまのような「仲介者、仲裁者、通訳者」が存在しないことに触れています。上記個所は、「あなた(神さま)の手から救い出せる者がいない」(7節)のに、「私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか」(6節)と嘆いています。つまりヨブの主張は、イエスさまのような「咎から、また罪から私たちを助け出してくださる救い主」がおられるのであれば、「私の咎を探し、私の罪を探る」(6節)ことは理解できるけれども、そのような存在がいない中で、「私の咎を探し、私の罪を探る」のは困るということでしょう。そのようにこの個所を読むと「私に悪しきことがないこと」(7節)は、まさにイエスさまの十字架と復活による贖いのゆえに「私に悪しきことがないこと」につながります。
 私たちは、このようなヨブの思い、思考から、旧約聖書時代の人たちの信仰を垣間見ることができます。「仲介者、仲裁者、通訳者」がいない中で父なる神さまと向き合うことの厳しさ、辛さに触れることができます。そしてヨブはこのように叫んでいます。

もし、私が罪ある者となるなら、あなたは私を見張られます。こうして、私の咎を免じてはくださいません。もし、私が悪しき者とされるのなら、ああ、なんと悲しいことでしょう。私は正しい者とされても、頭を上げることはできません。自分の恥に飽き飽きし、自分の苦しみを見ていますから。  
                     ヨブ記10章14~15節

 今週も、私たちにはイエスさまという、身をもって私たちの咎、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったお方がおられること、イエスさまのゆえに「罪」「咎」を赦されていることに感謝しつつ、三位一体の神さまと共に歩みましょう。  (吉持日輪生)