神さまからの恵みが先行する2023年07月30日

ソロモンは、そこに、すなわち会見の天幕におられる主の前にある青銅の祭壇に上り、その上で千匹の全焼のささげ物を献げた。その夜、神はソロモンに現れて仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」      
                      歴代誌第二 1章6~7節

 上記聖書箇所の神さまとソロモン王とのやり取りを読むと、ソロモン王が「千匹の全焼のささげ物を献げた」結果、神さまが「あなた(ソロモン王)に何を与えようか。願え」と語っているように読み取れます。そうだとするならば、聖書の神さまは「たくさんのささげ物に反応する神さま」ということになります。
 そのような誤解が生まれないためにもう少し神さまとソロモン王とのやりとりに注目しましょう。

ソロモンは神に言った。「あなたは、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。そして、父に代わって私を王とされました。
                      歴代誌第二 1章8節

 ここでソロモン王は、告白しています。「あなたは、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました」と。つまりソロモン王が献げた「千匹の全焼のささげ物」は、ソロモン王が神さまに願いを聞いてもらうための「ささげ物」ではなく、これまで父ダビデが神さまから受けた「大いなる恵み」に対する、ソロモン王の応答としての「ささげ物」でした。
 同じような誤解が生じやすい個所に出エジプト記20章に記されている「十戒」があります。「十戒」の第一戒から読み始めると、

(第一戒)あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
(第二戒)あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。    
                       出エジプト記 20章3~4節

 この後にも続く十の「戒め」を「十戒」と呼びますが、神さまは、これらの「戒め」を守れば、あなたがたを祝福するので、「戒め」を守りなさいと教えているように読めてしまいます。しかし聖書は、そのような誤解が生じないように、この「十戒」には「前文」を記しています。

わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
                          出エジプト記 20章2節

 このように「ささげ物」にも、「戒め」にも、神さまからの恵みが先行しています。今週も、先行的な神さまの恵みに目を留め、その恵みに応答して日々歩みましょう。 (吉持日輪生)

直ぐな心で、自ら進んで献げる2023年07月23日

すると、一族の長たち、イスラエル各部族の長たち、千人隊と百人隊の長たち、さらに王家の執務の長たちは、自ら進んで、神の宮の奉仕のために、金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントを献げた。
                        歴代誌第一 29章6~7節

民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。
                        歴代誌第一 29章9節

このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。       
                        歴代誌第一 29章14節

わが神よ。あなたは心を試される方で、真っ直ぐなことを愛されるのを私はよく知っています。私は直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました。また今、ここにいるあなたの民が、自ら進んであなたに献げるのを、私は喜びのうちに見ました。
                         歴代誌第一 29章17節

 これら上記聖書箇所に共通していることばは「自ら進んで…献げ…」です。

 聖書の神さまのために最初に建てられた神殿が、「直ぐな心で、自ら進んで献げた」ものによって建て上げられたことが記されています。私たちも、先週現在の礼拝堂が建てられて30年の節目を迎えました。この会堂を50年は使いたいと考えていますが、そろそろ次なる会堂のための準備をしていく時期に来ていることも感じます。
 ダビデ王は、自ら「私は全力を尽くして、私の神の宮のために準備をしてきた」(歴代誌第一29章2節前半)とあるように、私たちも、ダビデ王のように、またその時代の信仰者たちのように「直ぐな心で、自ら進んで献げる」姿勢をもって、次なる礼拝堂の備えをしていきましょう。 (吉持日輪生)

「主の励ましは変わらない」2023年07月16日

それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕に関わるすべての仕事を完成させてくださる。見よ。神の宮のあらゆる奉仕のために祭司とレビ人の各組がいる。どんな仕事でも、あらゆる奉仕のために知恵をもって進んで事に当たる者がみな、あなたとともにいる。首長たちとすべての民は、あなたの命令すべてに従う。」      歴代誌第一 28章20~21節

 上記引用箇所にある「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず…」とは、本当に心強いおことばです。
 同じような励ましが、エジプトを脱出する時のリーダーとなったモーセからヨシュアにも語られています。

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。                
                         ヨシュア記 1章9節

 丁寧に読むならば、上記ヨシュア記1章9節において、ヨシュアは、直接神さまから励ましを受けているのに対して、ソロモンは、ダビデ王から励ましを受けています。しかしダビデ王自身が、ヨシュアと同じように神さまから直接励ましを受け続けてきたからこそ、神さまの励ましと似ているのでしょう。そしてこの神さまの励ましの根拠、大前提は「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから」(ヨシュア記1章9節)であり、「神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず」(歴代誌第一28章20節)です。
 「主(神さま)がともにおられる」「神がともにいてくださる」。これは時代が変わろうと、状況が変わろうと変わることのない神さまからのメッセージであり、約束です。今週も、その神さまを信じ、励ましをいただき、力強く歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)

神さまの約束を信じて歩もう2023年07月09日

ダビデは二十歳以下の者は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のように多くすると言われたからである。ツェルヤの子ヨアブが数え始めたが、終わらなかった。しかし、このことで御怒りがイスラエルの上に下った。それでその数はダビデ王の年代記の統計には載らなかった。      歴代誌第一 27章23~24節

 上記聖書箇所に「主がイスラエルを天の星のように多くすると言われたから」とありますが、この「天の星のように多くする」の原点は、恐らく創世記15章のことです。

そして主は、彼(アブラム)を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。  
創世記 15章5~6節

 ここには、神さまがアブラムに語られた約束とその約束を信じたアブラムのことが記されています。そしてこのアブラムの時代から約1000年後がダビデ王の時代です。ダビデ王は、約1000年前の神さまの約束を忘れていませんでした。しかし、その約束を確かめようと考えたのか、イスラエルの人口を調べた出来事が、サムエル記第二24章に記されています。冒頭に引用した内容とサムエル記第二24章とでは大きな違いがありますが、今回の歴代誌第一27章の記述から、神さまの怒りの根拠が見えてきます。それは「天の星のように多くする」という神さまとの約束を信じることができず、人口を数えようとしたことに神さまは怒られたのです。つまり創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるように、ダビデ王をはじめ、ツェルヤの子ヨアブは、その信仰に立つことができず、人口を調べようとしたからこそ、神さまは怒られたのです。
 さて私たちは、どうでしょうか。私たちも、聖書に記されている神さまの約束を信じる者として歩んでいます。私たちもアブラムのようにまっすぐに「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」の立場に立ちたいものです。
 神さまの約束が、昨日のことであっても、また数千年前の約束であっても、神さまは必ず約束を果たしてくださることを信じること、それが神さまの前の義(正しさ)であることを覚えて今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)

知恵と工夫2023年07月02日

門衛の組分けについて。コラ人ではアサフ族のコレの子メシェレムヤ。
                          歴代誌第一 26章1節

 歴代誌第一25章では、「シンバル、琴、竪琴、歌」を奏でる賛美グループの組み分けについて記されていました。今回、歴代誌第一26章では、冒頭引用箇所に「門衛の組分け」とある通り、「門衛の組分け」について記されています。
 「賛美を奏でるグループ」と「門衛のグループ」では、その働きは違うでしょうが、グループの構成には似たところがありました。先週のところでは取り上げませんでしたが、「賛美を奏でるグループ」について、「その子たち、兄弟たち」という言葉が、毎回繰り返されていました。そして今回の「門衛のグループ」においても、「子ども」「兄弟たち」という言葉が繰り返し記されています。つまり「賛美を奏でるグループ」も、「門衛のグループ」も、「家族」ごとに担われていたのでしょう。
 しかし違いもあります。「賛美を奏でるグループ」について、1グループの人数は必ず「12人」(歴代誌第一25章9~31節)でしたが、「門衛のグループ」には、固定した人数の決まりを読み取ることはできません。「オベデ・エドムに属する者は62人」(8節)、「彼らは勇者で、18人」(9節)、「ホサの子ども、兄弟たちは合計13人」(11節)となっています。つまり「賛美を奏でるグループ」については、グループの人数が12人と固定していたのに対して、「門衛のグループ」には固定した人数の定めはなかったのでしょう。けれどもその先を読み進めると、「門衛」として配置される場所の人数は、しっかり決められていました。

東方には六人のレビ人、北方には毎日四人、南方には毎日四人、倉には二人ずつ、
西方の前庭には、大路に四人、前庭に二人であった。
                       歴代誌第一 26章17~18節

 聖書の記述だけでは、十分に読み取れないところもあります。けれども確実に歴代誌第一25章の「賛美グループ」と26章の「門衛グループ」のあり方には違いがありました。当時の人たちも、神さまに祈りつつ、神さまから知恵をいただきつつ、それぞれの働き、役割を考え、様々な工夫を行っていたのでしょう。
 私たちも、コロナを経験したクリスチャンとして、祈りつつ、知恵をいただきつつ、この時代にキリストのからだなる教会を共に建て上げていきましょう。 (吉持日輪生)

「違い」を越えて一つとなる2023年06月25日

彼ら、および、主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった彼らの同族の数は二百八十八人であった。彼らは、下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引いた。
                   歴代誌第一 25章7~8節

 前回取り上げた歴代誌第一24章31節に「かしらもその弟と全く同じであった」とあるように、この25章でも「下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引いた」とあります。しかも冒頭で引用した個所の最初には、「彼ら、および、主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった」と記されています。
 つまり「訓練を受け」「みな達人」であったけれども、そこには私たちが置かれている状況と同様「下の者も上の者も、達人も弟子も」いたのです。ですから「みな同じように任務のためのくじを引き」12人のグループに分けるならば、当然その同じグループ内には「下の者も上の者も、達人も弟子も」いることになります。
 想像してみましょう。「みな達人」というグループでありながら、そこには「下の者、上の者、達人、弟子」という違いがあるのです。人間関係の難しさが生じやすい状況です。特にここでグループに分けられた人たちの働きは、「竪琴と琴とシンバルに合わせて預言する者」(1節)、「シンバル、琴、竪琴を手に、主の宮で歌を歌い、(中略)神の宮の奉仕に当たる者たち」(6節)とあります。つまり共に楽器を奏で、共に歌を献げるグループです。感情的な不協和音が、確実に演奏に、歌に出やすい状況ですが、神さまは、そのような12人のグループを24組も造られたのです。なぜでしょうか。恐らくそのようなグループの中で、一人ひとりが信仰的にも、霊的にも訓練されていくことを願われたのでしょう。しかも神さまは、グループに分けるだけでなく、ある人たちをも備えておられました。それが「王の指揮にしたがって預言するアサフの指揮下」(2節)、「賛美しながら預言する彼らの父エドトンの指揮下」(3節)、「これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、琴、竪琴を手に、主の宮で歌を歌い、王の指揮下に神の宮の奉仕に当たる者たち」(6節)と「指揮」をとる人の存在です。その人の下で、それぞれの違いを越えて、一つとされ、奉仕がなされていったのです。
 今、私たちが建て上げている「教会」の中にも、様々な違いのある人々が存在し、不協和音の生じやすい状況です。だからこそ私たちも、「教会のかしら」(エペソ人への手紙5章23節)であるイエスさまの指揮の下、整えられ、励まされ、支えられながら一つとされる必要があります。今週も、イエスさまの指揮の下、心を重ね、一つの思いになって共に歩みましょう。             (吉持日輪生)

「組分け」し、「全く同じ」ように担う奉仕2023年06月18日

アロンの子らの組分け。アロンの息子は、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。
                    歴代誌 第一 24章1節

 歴代誌第一23章から「組に分ける」という内容が目につきます。

四千人は門衛となり、四千人は私が賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者となりなさい。」
ダビデは彼らを組に分けた。
                    歴代誌 第一 23章5〜6節(前半)

 そして今回取り上げている歴代誌第一24章でも冒頭で引用している通り「組分け」が記されています。そしてその「組分け」の役割については、このように記されています。

ダビデは、エルアザルの子孫の一人ツァドク、およびイタマルの子孫の一人アヒメレクと協力して、アロンの子らをそれぞれの奉仕に任命し、それぞれの組に分けた。
                    歴代誌 第一 24章3節

 つまり「組分け」は、上記聖書箇所に「奉仕に任命し」とあるように、奉仕することとセットになっていました。そしてその「組分け」は、下記のように行われたようです。

彼らはみな同じようにくじを引いて、それぞれの組に分かれた。

                    歴代誌 第一 24章5節(前半)

 この「組分け」の特徴は、「くじ」だけではありません。下記のようにも記されています。

彼らもまた、彼らの同族であるアロンの子らと全く同じように、ダビデ王、ツァドク、アヒメレク、祭司とレビ人の一族のかしらたちの前で、くじを引いた。一族では、かしらもその弟と全く同じであった。      
                    歴代誌 第一 24章31節

 「全く同じ」という言葉が2回出てきますが、かしらもその弟たちも「全く同じ」ようにくじを引き、組分けに参加し、奉仕に関わったのです。旧約聖書歴代誌と現代との歴史的文脈の違いを考えないといけないのでしょうが、「組分け」して奉仕を「全く同じ」ように担う姿勢、体制について、このような箇所から学ぶ必要があるのかもしれません。
 私たちの教会にも様々な奉仕があります。特に土曜日には礼拝を献げるための「礼拝堂を整える奉仕」を誕生月別に「組分け」し、「全く同じ」ように担ってもらおうとしています。ぜひみんなで礼拝堂を整え、気持ちよく毎週の主日礼拝をお献げしていきましょう。(吉持日輪生)

賛美で始まり、賛美で終わる人生2023年06月11日

「そのうち、主の宮の務めを指揮する者は二万四千人、つかさとさばき人は六千人、四千人は門衛となり、四千人は私が賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者となりなさい。」              歴代誌第一 23章4~5節

 歴代誌第一23章の最初は、「ダビデは日を重ねて年老い、その子ソロモンをイスラエルの王とした」(1節)と記されています。つまりダビデが、王位を息子ソロモンに託した後、何をしたかがここに記されています。
 その一つが、冒頭引用箇所にある「男性四千人による演奏隊」。しかも演奏する楽器について「私が賛美するために作った楽器」とあるように、ダビデは神さまを賛美する楽器も作っていたことが読み取れます。
 確かにダビデが聖書に登場するサムエル記第一16章でも、竪琴を奏でるダビデのことがこのように記されていました。

神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。   

                     サムエル記第一 16章23節

 自らも竪琴を奏でるダビデは、晩年「賛美するための楽器」を作成し、「男性四千人による演奏隊」を作り、神さまへの賛美を献げ続けたのでしょう。
 サウル王に憎まれ、息子に裏切られ、エルサレムから逃れ、気が変になったふりをしなければならなかったり、神殿を建てることが許されず、また、罪を犯し、とダビデの生涯は本当に波乱万丈でしたが、今日の個所を読む時、彼の生涯は賛美で始まり、賛美で終わろうとしていたことが分かります。そして、そこには神さまと共に歩んだダビデの証しがにじみ出てきます。
 私たちの人生も、ダビデほどに波乱万丈ではないかもしれませんが、神さまと共に歩む時、いろいろな所を通らされながらも、その晩年は、神さまへの賛美で終わるのでしょう。
 今週も、何があっても神さまと共に歩み続け、ダビデのように私たちも晩年になっても神さまを賛美し続ける者とされましょう。 (吉持日輪生)

「すべてのことをともに働かせて益とする」神さま2023年06月04日

そこで、ダビデは言った。「これこそ神である主の宮だ。これこそイスラエルの全焼のささげ物の祭壇だ。」        
                    歴代誌第一 22章1節

 冒頭引用箇所を読み、「あれ?」と思われた方、おられるのではないでしょうか。
その通り、ダビデ王は「神殿建設」をしたかったのですが、神さまはダビデ王による神殿建設をお認めになりませんでした。

主はこう言われる。あなた(ダビデ王)がわたしのために、住む家を建てるのではない。
                      歴代誌第一 17章4節後半

 ダビデ王自身、このことをしっかり記憶していたでしょうが、それ以上に神さまは、ダビデ王の神殿建設に対する強い思いを知っておられました。ダビデ王が行なった「人口調査」の罪による民へのさばきが実行される中、神さまはダビデ王に告げられます。

そこで、主の使いは、ダビデにこう伝えるようガドに言った。「ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主の祭壇を築かなければならない。」
  歴代誌第一 21章18節

 このように告げられたダビデ王は、早速エブス人オルナンから土地を買い、祭壇を築き、全焼のささげ物などを献げ、神さまもそれに答えてくださいました。この喜びの経験が、冒頭で引用した個所になり、さらにこの経験が、晩年のダビデ王に、ある強い思いを与えていきます。

ダビデは言った。「わが子ソロモンは、まだ若く力もない。主のために建てる宮は、壮大なもので、全地で名声と栄誉を高めるものでなければならない。それゆえ、私が用意をしておく。」こうして、ダビデは彼が死ぬ前に多くの用意をしておいた。
    歴代誌第一 22章5節

 「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ人への手紙8章28節後半)とあるように、神さまは、ダビデ王の「神殿建設への思い」「人口調査の罪」「祭壇建築の指示」、これらのことをともに働かせ、ソロモンによる神殿建設の用意に注力するダビデ王の歩みが生み出されました。今週も「すべてのことをともに働かせて益とする」神さまに信頼して歩みましょう。   (吉持日輪生)

ダビデ王のように素直に、速やかに2023年05月28日

ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。どうか、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」
                          歴代誌第一 21章8節

 歴代誌第一は、ダビデ王のウリヤの妻バテ・シェバとの罪(サムエル記第二11章)については記していませんでしたが、サムエル記第二24章に記されていた「人口調査」の罪は、しっかりと21章に記しています。圧倒的な強さの最中、ダビデ王は罪を重ねますが、ウリヤの妻バテ・シェバの時も、人口調査の時も、本当に素直に罪を告白し、悔い改めています。
 今回の「人口調査」をしたことの中に罪があったことを認めると、冒頭に引用しているように「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。どうか、このしもべの咎を取り去ってください」(歴代誌第一21章8節前半)と悔い改め、罪・咎が取り去られるように祈り求めています。

ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。
「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。…」
                       サムエル記第二 12章13節

 これは、ウリヤの妻バテ・シェバとの罪の告白です。このウリヤの妻バテ・シェバとの罪については、詩篇51篇にもダビデの悔い改めが記されています。

指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。
神よ 私をあわれんでください。
あなたの恵みにしたがって。
私の背きをぬぐい去ってください。
あなたの豊かなあわれみによって。
私の咎を 私からすっかり洗い去り
私の罪から 私をきよめてください。
                  詩篇 51篇 冒頭の説明~2節

 私たちもダビデ王のように、素直に、そして速やかに罪の告白と罪が取り去られるように祈る者となりましょう。       (吉持日輪生)