ダビデ王の限界 ― 2022年03月06日
また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。(中略)だから、あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい。彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない。しかし、ギルアデ人バルジライの子たちには恵みを施してやり、彼らをあなたの食卓に連ならせなさい。(中略)また、あなたのそばに、バフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。(中略)しかし今は、彼を咎のない者としてはならない。あなたは知恵の人だから、どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるかが分かるだろう。」
列王記第一 2章5~9節(抜粋)
列王記第一2章は「ダビデの死ぬ日が近づいたとき」で始まっています。そのことをふまえて読むと、ダビデ王がしっかりと様々なことを記憶していることに驚かされます。「ヨアブのこと」も、「バルジライのこと」も、そして「シムイのこと」もしっかりと覚えていて、それに適切な指示を与えています。
しかし同時に、この地上での歩みの最後まで、「彼(ヨアブ)の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない」(6節)とか、「どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるか」(9節)といった思いを抱いていていることによる心の負担も感じます。
しかし、これがイエスさまの十字架を知らない時代の限界でしょう。私たちは、イエスさまの十字架のゆえに、自分の罪が赦されていることを自覚しているからこそ、他の人の罪も赦すように導かれています。
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
コロサイ人への手紙3章13節
歳を重ねても、死を前にしても、私たちの内側に「赦せないこと」があるならば、その時は、イエスさまの十字架に立ち返ることです。今週も、聖書が教えているように、互いに愛し合い、互いに赦し合う歩みを進めていきましょう。(吉持日輪生)
列王記第一 2章5~9節(抜粋)
列王記第一2章は「ダビデの死ぬ日が近づいたとき」で始まっています。そのことをふまえて読むと、ダビデ王がしっかりと様々なことを記憶していることに驚かされます。「ヨアブのこと」も、「バルジライのこと」も、そして「シムイのこと」もしっかりと覚えていて、それに適切な指示を与えています。
しかし同時に、この地上での歩みの最後まで、「彼(ヨアブ)の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない」(6節)とか、「どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるか」(9節)といった思いを抱いていていることによる心の負担も感じます。
しかし、これがイエスさまの十字架を知らない時代の限界でしょう。私たちは、イエスさまの十字架のゆえに、自分の罪が赦されていることを自覚しているからこそ、他の人の罪も赦すように導かれています。
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
コロサイ人への手紙3章13節
歳を重ねても、死を前にしても、私たちの内側に「赦せないこと」があるならば、その時は、イエスさまの十字架に立ち返ることです。今週も、聖書が教えているように、互いに愛し合い、互いに赦し合う歩みを進めていきましょう。(吉持日輪生)
聞き分ける心 ― 2022年03月13日
善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。 列王記第一 3章9節
上記聖書箇所から、ソロモン王が神さまに求めたものが「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心」だったことがわかります。そしてこのことは、「主のみこころにかなった」(列王記第一3章10節)ものであったと記されています。
そして、列王記第一3章16節以降、ソロモンに、確かに「聞き分ける心」が与えられたことを現わす具体的な事例が取り上げられています。ソロモン王は、ふたりの遊女のことばを、まさに適切に聞き分け、適切な判断を下します。そのことを列王記第一3章ではこのようにしめくくっています。
全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。 列王記第一3章28節
「善悪を判断」することについては、創世記3章に記されている通り、アダムとエバが罪を犯してしまって以降、人は、勝手に「善悪を判断してしまう」存在になってしまいました。ソロモン王の中には、そのような自覚があったからこそ、勝手に「善悪を判断して」しまわないように、神さまに「聞き分ける心」を求めたのでしょう。
現代の私たちは、ソロモン王が直面した情報よりも、多くの情報が日々目から耳から入ってきます。私たちは、日々情報の氾濫状態の中を歩んでいます。だからこそ、私たちにも「善悪を判断し」「聞き分ける心」が必要です。ソロモン王が、それを神さまに求めたように、私たちも「善悪を判断し」「聞き分ける心」を神さまに求めつつ、この情報過多の時代を「地の塩」「世の光」として歩んでいきましょう。
(吉持日輪生)
上記聖書箇所から、ソロモン王が神さまに求めたものが「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心」だったことがわかります。そしてこのことは、「主のみこころにかなった」(列王記第一3章10節)ものであったと記されています。
そして、列王記第一3章16節以降、ソロモンに、確かに「聞き分ける心」が与えられたことを現わす具体的な事例が取り上げられています。ソロモン王は、ふたりの遊女のことばを、まさに適切に聞き分け、適切な判断を下します。そのことを列王記第一3章ではこのようにしめくくっています。
全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。 列王記第一3章28節
「善悪を判断」することについては、創世記3章に記されている通り、アダムとエバが罪を犯してしまって以降、人は、勝手に「善悪を判断してしまう」存在になってしまいました。ソロモン王の中には、そのような自覚があったからこそ、勝手に「善悪を判断して」しまわないように、神さまに「聞き分ける心」を求めたのでしょう。
現代の私たちは、ソロモン王が直面した情報よりも、多くの情報が日々目から耳から入ってきます。私たちは、日々情報の氾濫状態の中を歩んでいます。だからこそ、私たちにも「善悪を判断し」「聞き分ける心」が必要です。ソロモン王が、それを神さまに求めたように、私たちも「善悪を判断し」「聞き分ける心」を神さまに求めつつ、この情報過多の時代を「地の塩」「世の光」として歩んでいきましょう。
(吉持日輪生)
海辺の砂のように ― 2022年03月20日
ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた。 列王記第一 4章20節
上記聖書箇所に記されている「海辺の砂のように」という表現は、列王記第一4章に2回、上記20節と29節に登場します。
神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。 列王記第一 4章29節
しかし、この「海辺の砂のように」という表現で、より多くの方々の印象に残っているのは、アブラハムが、神さまから命じられ、ひとり息子イサクを献げようとする個所です。神さまは、そこまでするアブラハムの信仰を見、祝福され、次のように語られました。
確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
創世記 22章17節
この3個所の「海辺の砂のように」の使い方を見ると、「数」の祝福だけでなく、「広さ」の祝福としても用いられていることがわかります。
私たちも信仰によって、神さまがアブラハムに語られた「海辺の砂のように」という「数」的な祝福をいただくだけでなく、ソロモンが祈りを通して「海辺の砂のように広い心」を与えられたように、信仰と祈りをもって、「数」的にも、「広さ」的にもあふれるばかりの恵みをいただいて、今週も歩みましょう。(吉持日輪生)
上記聖書箇所に記されている「海辺の砂のように」という表現は、列王記第一4章に2回、上記20節と29節に登場します。
神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。 列王記第一 4章29節
しかし、この「海辺の砂のように」という表現で、より多くの方々の印象に残っているのは、アブラハムが、神さまから命じられ、ひとり息子イサクを献げようとする個所です。神さまは、そこまでするアブラハムの信仰を見、祝福され、次のように語られました。
確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
創世記 22章17節
この3個所の「海辺の砂のように」の使い方を見ると、「数」の祝福だけでなく、「広さ」の祝福としても用いられていることがわかります。
私たちも信仰によって、神さまがアブラハムに語られた「海辺の砂のように」という「数」的な祝福をいただくだけでなく、ソロモンが祈りを通して「海辺の砂のように広い心」を与えられたように、信仰と祈りをもって、「数」的にも、「広さ」的にもあふれるばかりの恵みをいただいて、今週も歩みましょう。(吉持日輪生)
神さまに聞くことの大切さ ― 2022年03月27日
主は約束どおり、ソロモンに知恵を授けられた。ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、二人は契約を結んだ。 列王記第一5章12節
上記聖書箇所にある通り、神さまは「ソロモンに知恵を授けられ」ました。それだけでなく、「豊かさ」も与えられました。そのためソロモンが建築する神殿は、下記にある通り「高価な」ものが使われました。
王は、切り石を神殿の礎に据えるために、大きな石、高価な石を切り出すように命じた。 列王記第一 5章17節
このようなソロモンの繁栄について、イエスさまも山上の説教の中で「栄華を極めたソロモン」(マタイの福音書6章29節)と言及しています。
さて「知恵」があり、「豊かさ」もある「栄華を極めたソロモン」でしたが、彼にも欠点がありました。それは「神さまのことば」に聞く姿勢です。ソロモンは、神殿建設に際して、「知恵」と「豊かさ」を用いていますが、神さまに聞くことをしていません。もし神さまのことばに聞こうとしていたならば、「切り石を神殿の礎に据える」ことや、「高価な石を切り出す」必要はなかったのかもしれません。なぜならば神さまは、十戒をイスラエルに示した際に、このように語っていたからです。
もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。
出エジプト記20章25節
この出エジプト記の言及は、「神殿」ではなく、「幕屋」ですし、またこの個所は「神殿」ではなく、「祭壇」への言及ですので、すべて当てはめることは難しいかもしれませんが、このような「神さまのことば」、このような「神さまの教え」に聞くことで、ただただ豪華で、立派な神殿建設ではない、方向性も見えてきたかもしれません。
神さまからの「知恵」があっても、また神さまからの「豊かさ」があっても、「神さまのことば」に聞く姿勢がないと、この後のソロモンのように間違った方向に進んでしまう危険があるのでしょう。今週も「神さまのことば」にしっかり耳を傾けて歩みましょう。(吉持日輪生)
上記聖書箇所にある通り、神さまは「ソロモンに知恵を授けられ」ました。それだけでなく、「豊かさ」も与えられました。そのためソロモンが建築する神殿は、下記にある通り「高価な」ものが使われました。
王は、切り石を神殿の礎に据えるために、大きな石、高価な石を切り出すように命じた。 列王記第一 5章17節
このようなソロモンの繁栄について、イエスさまも山上の説教の中で「栄華を極めたソロモン」(マタイの福音書6章29節)と言及しています。
さて「知恵」があり、「豊かさ」もある「栄華を極めたソロモン」でしたが、彼にも欠点がありました。それは「神さまのことば」に聞く姿勢です。ソロモンは、神殿建設に際して、「知恵」と「豊かさ」を用いていますが、神さまに聞くことをしていません。もし神さまのことばに聞こうとしていたならば、「切り石を神殿の礎に据える」ことや、「高価な石を切り出す」必要はなかったのかもしれません。なぜならば神さまは、十戒をイスラエルに示した際に、このように語っていたからです。
もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。
出エジプト記20章25節
この出エジプト記の言及は、「神殿」ではなく、「幕屋」ですし、またこの個所は「神殿」ではなく、「祭壇」への言及ですので、すべて当てはめることは難しいかもしれませんが、このような「神さまのことば」、このような「神さまの教え」に聞くことで、ただただ豪華で、立派な神殿建設ではない、方向性も見えてきたかもしれません。
神さまからの「知恵」があっても、また神さまからの「豊かさ」があっても、「神さまのことば」に聞く姿勢がないと、この後のソロモンのように間違った方向に進んでしまう危険があるのでしょう。今週も「神さまのことば」にしっかり耳を傾けて歩みましょう。(吉持日輪生)
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