時を大切にされる神さま2022年04月03日

イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建築に取りかかった。           列王記第一 6章1節

 皆さんは、旧約聖書を読んでいて、数字を大切にしていると感じたことはないでしょうか。旧約聖書は、今から数千年前の書物ですが、年数にしても、民の数にしてもとても正確に記しています。
 冒頭に引用した聖書箇所も同様で「イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目」と明確に年数を記しています。私たちが慣れ親しんできた「日本の昔話」のような「昔々、あるところに…」といった漠然としたものではありません。そこにも聖書の神さまのご性質が現わされています。聖書の神さまは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝道者の書3章1節)と記されているように、神さまは「時」を創造し、「時」を支配されるお方です。ですから神さまを見上げる時、神さまと共に歩む時、人は「時」を大切にし、「時」の流れを記したくなるのでしょう。
 さて、私たちは今、どのような「時」を歩んでいるでしょうか。イエスさまがこの世に誕生されて2022年目。宗教改革の起点と考えられる1517年から505年目。茨木聖書教会がこの地に誕生して57年目。そしてこの会堂が神さまの前に献堂されて29年目です。
 新年度の歩みが始まりました。「時」を創造し、「時」を支配される神さまと共に、この1年の「時」を大切にしながら、共にキリストのからだなる教会を建て上げていきましょう。(吉持日輪生)

ソロモン王の「欲」2022年04月10日

また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。                          列王記第一 7章1節

 この冒頭の聖書箇所だけを読むと、「13年かけて宮殿を作ったんやぁ…」と思うだけですが、6章最後の節、つまり上記聖書箇所の前の節を下記に引用します。

第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。          列王記第一 6章38節

 章は変わるけれども、この2つの連続した節を読んでわかることは、ソロモン王は7年かけて神殿を建て、13年かけて自分の住む宮殿を建てたということです。
 この年数の違いは、当然費用のかけ方の違いにつながります。そしてさらに読み進めると「レバノンの森の宮殿」(7章2節)、「妻としたファラオの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた」(7章8節)とあるように、次々に建物を建てています。その後、さらに記されていく内容は、建物が完成すると、様々な丁寧な装飾と数々の備品を作っています。まさに栄華を極めたソロモン王の様子を知ることができます。
 しかし、このソロモン王の歩みから読み取ることができることは、ソロモン王の欲の広がり、深まりです。「主の家」(神殿)を建築したいという「欲」は、次に自分の住む宮殿、さらには妻の家、さらに柱の装飾、さらに数々の備品と続いていきます。ソロモン王の「欲」は、留まることなく沸き起こり続けます。そして、その後のソロモン王の歩みを想う時、下記の新約聖書の言葉が頭に浮かびます。

そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
                           ヤコブの手紙 1章15節

 このソロモン王の姿を、自らの姿と重ね、イエスさまの十字架を覚えて歩みましょう。

私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
                     テトスへの手紙 3章3~4節
                             (吉持日輪生)

約3千年前の「祈り」2022年04月17日

あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち「わたしの名をそこに置く」とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。
                       列王記第一 8章28~29節

 ソロモン王は、紀元前10世紀頃に活躍した人物ですが、その時代のイスラエル人たちの祈りの姿勢がここに記されています。
 「この宮の中にある、あなたの祭壇の前」(31節)での祈り、「この宮」(33節)での祈り、「この場所(宮)に向かって」(35節)の祈り、「この宮に向かって両手を伸べ広げて」(38節)の祈り、また「あなたの民イスラエルの者でない異国人」(41節)の祈り、「捕らわれて行った地」(47節)での祈りなどが記されています。それと同時に「あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください」(30節)と「祈り」を聞かれるのは、天においてであることも記されています。
 これらの「祈り」、つまり今から約3千年前の「祈り」の姿勢を読む時、私だけでなく、ほとんどのクリスチャンは、何も違和感を覚えないことでしょう。それ程に、聖書の神さまへの「祈り」は、神さまに造られた人間に本質的に与えられている姿勢なのです。
 私たちも、「教会」での祈りだけでなく、「神さまの御住まいの天」に向かっての祈りを、どこにいても献げます。「祈り」は、いつでもどこでも献げることができるものであり、また同時にその献げられた「祈り」を神さまは、天において聞いてくださいます。
 けれども旧約聖書時代に神殿(宮)での祈りを大切にしていたように、また新約聖書時代に「会堂」での祈りを大切にしていたように、私たちも「会堂」での祈りを大切にしていきたいと思います。コロナ禍の中、様々なことがオンラインで参加できる時代になりましたが、それでも可能な限り「会堂」に身を置き、礼拝を献げ、祈りを献げるのは、私たちの救い主イエスさまが、受肉してこの世に来てくださったことが原点です。イエスさまが、この世にいらしてくださったことへの私たちにできる応答の一つとして、これからも「会堂」に身を置いての礼拝、祈りを大切にしていきましょう。                     (吉持日輪生)

神さまの目と心2022年04月24日

主は彼に言われた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある。           列王記第一 9章3節

 「わたし(神さま)の目と心は、いつもそこに(宮)にある」。このことばは、ソロモン王の時代だけに有効なものだったのでしょうか。そうではありません。2022年の今も変わることなく、「神さまの目と心」は、エルサレムの神殿に向けられています。私たちは、そのことを次のことから知ることができます。一つは、「エルサレム」という町が今も存在していること。もう一つは、そこに神殿があり、今も「祈りの場所」(「嘆きの壁」のこと)で、聖書の神さまへの祈りが献げられ続けていることです。
 しかし、新しい契約、つまり神さまと私たちとの、主イエス・キリストによる契約の中にあって、このことばの適応は、さらに広げられました。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。           コリント人への手紙第一 3章16節

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。                 コリント人への手紙第一 6章19節

 私たちのからだは「神の宮」であり、「聖霊の宮」です。だからこそ神さまは、私たち一人ひとりに「神さまの目と心」を注いでいてくださるのです。70億人以上いる一人ひとりに「目と心」を向けることができるのは、神さまが全能だからです。そして一人ひとりに「目と心」を向けられる神さまは、宇宙にも「目と心」を向けられ、統制をとっておられます。それができるのも、神さまが全能だからです。
 今週も、全能なる神さまの目と心が私に向けられていることを覚えつつ、日々そのような神さまに祈りを献げつつ、知恵をいただいて歩みましょう。(吉持日輪生)