「主(神さま)のことば」の力強さ ― 2025年08月24日
ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。
ヨブ記40章4~5節
ヨブ記38章から始まった「主(神さま)の発言」は、ヨブ記40章2節で終わります。そして3節からヨブの主(神さま)への返答が始まります。冒頭で引用した個所は、ヨブの主(神さま)への返答の最初の部分です。ここでヨブは「一度、私は語りました」とありますが、ヨブはどこで語っていたのでしょうか。またそのすぐ後に「二度、語りました」とありますが、ヨブはどこで二度目を語っていたのでしょうか。ヨブ記40章より前にさかのぼっても、ヨブが主(神さま)に答えた個所はありません。しかし、ヨブ記40章以降には、2回ヨブが主(神さま)に答えている箇所があります。ヨブ記40章3節「ヨブは主に答えた」と、ヨブ記42章1節「ヨブは主に答えた」の2個所です。
ヨブは、これまで三人の友人、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルの発言には、しっかりと答えてきました。テマン人エリファズにはヨブ記6章、7章、16章、17章、23章、24章。シュアハ人ビルダデにはヨブ記9章、10章、19章、26章、27章、28章、29章、30章、31章。ナアマ人ツォファルにはヨブ記12章、13章、14章、21章で友人たちのことばにしっかりと答えています。ヨブは、これまで三人の友人という「人のことば」には、多くのことを語っていました。
しかし、ヨブの「主(神さま)のことば」に対する答えは、とても短く、ただただ神さまの前に身を低くしています。このようなヨブの姿を通して、教えられることは、主(神さま)の圧倒的な強さ、怖さ、厳しさです。それは、サタンに対しても、またヨブとヨブの友人たちに対しても、同じように圧倒的な強さを示しています。
イエスさまの十字架による贖いがなされた後の時代に生きる私たちには、もう一つ理解するのが難しい、神さまの圧倒的な強さ、怖さ、厳しさですが、旧約聖書を通してそのような父なる神さまの強さに触れ、そのような神さまが、イエスさまの十字架のゆえに「私の神」として共に歩んでくださることを正しく理解し、覚えていきたいと思います。
今週も、聖書の神さまが「私の神」「あなたの神」として共に歩んでくださることに感謝しつつ過ごしましょう。
(吉持日輪生)
ヨブ記40章4~5節
ヨブ記38章から始まった「主(神さま)の発言」は、ヨブ記40章2節で終わります。そして3節からヨブの主(神さま)への返答が始まります。冒頭で引用した個所は、ヨブの主(神さま)への返答の最初の部分です。ここでヨブは「一度、私は語りました」とありますが、ヨブはどこで語っていたのでしょうか。またそのすぐ後に「二度、語りました」とありますが、ヨブはどこで二度目を語っていたのでしょうか。ヨブ記40章より前にさかのぼっても、ヨブが主(神さま)に答えた個所はありません。しかし、ヨブ記40章以降には、2回ヨブが主(神さま)に答えている箇所があります。ヨブ記40章3節「ヨブは主に答えた」と、ヨブ記42章1節「ヨブは主に答えた」の2個所です。
ヨブは、これまで三人の友人、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルの発言には、しっかりと答えてきました。テマン人エリファズにはヨブ記6章、7章、16章、17章、23章、24章。シュアハ人ビルダデにはヨブ記9章、10章、19章、26章、27章、28章、29章、30章、31章。ナアマ人ツォファルにはヨブ記12章、13章、14章、21章で友人たちのことばにしっかりと答えています。ヨブは、これまで三人の友人という「人のことば」には、多くのことを語っていました。
しかし、ヨブの「主(神さま)のことば」に対する答えは、とても短く、ただただ神さまの前に身を低くしています。このようなヨブの姿を通して、教えられることは、主(神さま)の圧倒的な強さ、怖さ、厳しさです。それは、サタンに対しても、またヨブとヨブの友人たちに対しても、同じように圧倒的な強さを示しています。
イエスさまの十字架による贖いがなされた後の時代に生きる私たちには、もう一つ理解するのが難しい、神さまの圧倒的な強さ、怖さ、厳しさですが、旧約聖書を通してそのような父なる神さまの強さに触れ、そのような神さまが、イエスさまの十字架のゆえに「私の神」として共に歩んでくださることを正しく理解し、覚えていきたいと思います。
今週も、聖書の神さまが「私の神」「あなたの神」として共に歩んでくださることに感謝しつつ過ごしましょう。
(吉持日輪生)
「ろば」のように用いられたい ― 2025年08月17日
だれが野ろばを解き放ったのか。だれが野生のろばの綱をほどいたのか。わたしが、荒れた地をその家とし、不毛の地をその住みかとしたのだ。
ヨブ記39章5~6節
ヨブ記38章からの「主(神さま)の発言」は、様々な知恵、知識に満ちています。ヨブ記39章では、様々な生き物が登場します。「野やぎ」「雌鹿」(1節)、「野ろば」(5節)、「野牛」(9節、10節)、「だちょう」「こうのとり」(13節)、「馬」(18節)、「いなご」(20節)、「鷹」(26節)、「鷲」(27節)。
ヨブ記39章を読みながら、冒頭で引用した「野ろば」の個所が気になりました。その理由は、新約聖書の以下の個所と重なるところがあるからです。
「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」
マタイの福音書21章2~3節
イエスさまは、その後、ほどいて連れて来られた子ろばに乗って、エルサレムに入場します。ヨブ記39章18節から登場する「馬」は、旧約聖書の時代から軍馬として「戦い」によく登場しますが、「ろば」は出来事の大事な場面で用いられています。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、(中略)彼を全焼のささげ物として献げなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。
創世記22章2~3節前半
主の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を避けた。もし、ろばがわたしから身を避けていなかったなら、わたしは今すでに、あなたを殺して、ろばを生かしていたことだろう。」
民数記22章32~33節
そしてイエスさまのエルサレム入城に用いられた「子ろば」です。
私たちも、戦いのための「軍馬」ではなく、「ろば」のように、様々な大事な場面で用いてもらえる者となりましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記39章5~6節
ヨブ記38章からの「主(神さま)の発言」は、様々な知恵、知識に満ちています。ヨブ記39章では、様々な生き物が登場します。「野やぎ」「雌鹿」(1節)、「野ろば」(5節)、「野牛」(9節、10節)、「だちょう」「こうのとり」(13節)、「馬」(18節)、「いなご」(20節)、「鷹」(26節)、「鷲」(27節)。
ヨブ記39章を読みながら、冒頭で引用した「野ろば」の個所が気になりました。その理由は、新約聖書の以下の個所と重なるところがあるからです。
「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」
マタイの福音書21章2~3節
イエスさまは、その後、ほどいて連れて来られた子ろばに乗って、エルサレムに入場します。ヨブ記39章18節から登場する「馬」は、旧約聖書の時代から軍馬として「戦い」によく登場しますが、「ろば」は出来事の大事な場面で用いられています。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、(中略)彼を全焼のささげ物として献げなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。
創世記22章2~3節前半
主の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を避けた。もし、ろばがわたしから身を避けていなかったなら、わたしは今すでに、あなたを殺して、ろばを生かしていたことだろう。」
民数記22章32~33節
そしてイエスさまのエルサレム入城に用いられた「子ろば」です。
私たちも、戦いのための「軍馬」ではなく、「ろば」のように、様々な大事な場面で用いてもらえる者となりましょう。 (吉持日輪生)
語り掛けられる神さま ― 2025年08月10日
主は嵐の中からヨブに答えられた。
ヨブ記38章1節
ヨブ記37章で、ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは終わりました。先週も触れた通り、エリフの発言が終わった後、ヨブではなく、主(神さま)の発言が始まります。
この短い1節ですが、このような主(神さま)の発言から、いくつかのことがわかります。
一つ目は、「主は…ヨブに答えられた」とあることから、主(神さま)は、ヨブに語り掛けているのではなく、ヨブに答えられていることがわかります。このことから何がわかるかというと、主(神さま)は、これまでのヨブの発言を、しっかり聞かれていたということです。聞いていたからこそ「ヨブに答えられた」のです。
二つ目は、「主は嵐の中から…答えられた」とあることから、主(神さま)は、静寂の中でヨブに答えられたのではないことがわかります。私たちは、「静まること」を大切にし、神さまの声、神さまからの語り掛けに耳を傾けたいと考えますが、神さまは嵐の中からでも答えてくださるのです。
三つ目は、「…ヨブに答えられた」とあることから、主(神さま)は、会話の交わりを好まれる神さまだということがわかります。ヨブ記1~2章でも、主(神さま)からサタンに語り掛けていました。新約聖書でも交わりについてこのように教えています。
神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
コリント人への手紙第一 1章9節
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
ヨハネの手紙第一 1章3節
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一 1章7節
今週も、神さまとの会話(祈り)の交わりを重ねつつ、日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記38章1節
ヨブ記37章で、ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは終わりました。先週も触れた通り、エリフの発言が終わった後、ヨブではなく、主(神さま)の発言が始まります。
この短い1節ですが、このような主(神さま)の発言から、いくつかのことがわかります。
一つ目は、「主は…ヨブに答えられた」とあることから、主(神さま)は、ヨブに語り掛けているのではなく、ヨブに答えられていることがわかります。このことから何がわかるかというと、主(神さま)は、これまでのヨブの発言を、しっかり聞かれていたということです。聞いていたからこそ「ヨブに答えられた」のです。
二つ目は、「主は嵐の中から…答えられた」とあることから、主(神さま)は、静寂の中でヨブに答えられたのではないことがわかります。私たちは、「静まること」を大切にし、神さまの声、神さまからの語り掛けに耳を傾けたいと考えますが、神さまは嵐の中からでも答えてくださるのです。
三つ目は、「…ヨブに答えられた」とあることから、主(神さま)は、会話の交わりを好まれる神さまだということがわかります。ヨブ記1~2章でも、主(神さま)からサタンに語り掛けていました。新約聖書でも交わりについてこのように教えています。
神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
コリント人への手紙第一 1章9節
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
ヨハネの手紙第一 1章3節
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一 1章7節
今週も、神さまとの会話(祈り)の交わりを重ねつつ、日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
エリフの役割 ― 2025年08月03日
だから、人々は神を恐れなければならない。神は心に知恵ある者を顧みられないだろうか。
ヨブ記37章24節
ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、37章も続きますが、エリフの発言は、この37章で終わります。そしてこれまでの流れであれば、次にヨブの発言がくるのですが、ヨブ記38章は、主(神さま)の発言になっていきます。しかも、その主(神さま)の発言の相手、対象は、エリフではなく、ヨブでした。
主は嵐の中からヨブに答えられた。 ヨブ記38章1節
それでは、ヨブ記32章から始まったエリフの発言は、どのような意味があったのかと考えさせられます。イエスさま誕生の道備えをしたバプテスマのヨハネ的な役割だったのではないでしょうか。
この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
マタイの福音書11章10節
イエスさまの誕生に道備えが必要であったように、ヨブにとっても主(神さま)のことばを聞くための道備えが必要だったのでしょう。エリフの役割は、主(神さま)のことばを聞くための「道備え」でした。そのように考えると私たちに託されている「福音を届ける」働きのためにも、「語る人」「届ける人」だけではなく、「道備え」をする人も必要なのでしょう。
私たち一人ひとりが、「福音を届ける」ことを意識しつつ、祈りつつ取り組んでいますが、「福音を届ける」人だけでは、うまくいかないのです。「福音を届ける」人と同時に、バプテスマのヨハネのような「道備え」を担う存在、またヨブ記のエリフのような「道備え」をする存在が必要なのです。
「99%に福音を届ける」という私たちの教会の宣教ビジョンに当てはめるならば、「福音を届ける」人だけではなく、やはり「道備え」をする人も必要です。その両者がそろって、福音が一人ひとりのところに届いていくのでしょう。今週も、「道備え」をする人は、道備えを担い、「福音を届ける人」は福音を届けていきましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記37章24節
ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、37章も続きますが、エリフの発言は、この37章で終わります。そしてこれまでの流れであれば、次にヨブの発言がくるのですが、ヨブ記38章は、主(神さま)の発言になっていきます。しかも、その主(神さま)の発言の相手、対象は、エリフではなく、ヨブでした。
主は嵐の中からヨブに答えられた。 ヨブ記38章1節
それでは、ヨブ記32章から始まったエリフの発言は、どのような意味があったのかと考えさせられます。イエスさま誕生の道備えをしたバプテスマのヨハネ的な役割だったのではないでしょうか。
この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
マタイの福音書11章10節
イエスさまの誕生に道備えが必要であったように、ヨブにとっても主(神さま)のことばを聞くための道備えが必要だったのでしょう。エリフの役割は、主(神さま)のことばを聞くための「道備え」でした。そのように考えると私たちに託されている「福音を届ける」働きのためにも、「語る人」「届ける人」だけではなく、「道備え」をする人も必要なのでしょう。
私たち一人ひとりが、「福音を届ける」ことを意識しつつ、祈りつつ取り組んでいますが、「福音を届ける」人だけでは、うまくいかないのです。「福音を届ける」人と同時に、バプテスマのヨハネのような「道備え」を担う存在、またヨブ記のエリフのような「道備え」をする存在が必要なのです。
「99%に福音を届ける」という私たちの教会の宣教ビジョンに当てはめるならば、「福音を届ける」人だけではなく、やはり「道備え」をする人も必要です。その両者がそろって、福音が一人ひとりのところに届いていくのでしょう。今週も、「道備え」をする人は、道備えを担い、「福音を届ける人」は福音を届けていきましょう。 (吉持日輪生)
聖書のみ ― 2025年07月27日
しばらく待て。あなたに示そう。まだ神のために言い分があるからだ。
ヨブ記36章2節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記36章も続きます。そして冒頭で引用した個所には、エリフの発言の立ち位置が滲み出ています。「神のために言い分がある」。このエリフの発言からは、神の代弁者としての立ち位置が見えてきます。
しかし、エリフが語り始めた時の立ち位置は違いました。
すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼は、ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたので、ヨブに向かって怒りを燃やしたのである。彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを不義に定めながら、言い返せなかったからである。
ヨブ記32章2~3節
ここに記されている通り、エリフが語り始めた時の原動力、立ち位置は、「怒り」でした。「ヨブに向かって怒りを燃やし」(2節)、「三人の友に向かっても怒りを燃やし」(3節)とある通りです。しかしそれがいつの間にか、神さまの代弁者的な立ち位置に変わっていったのです。
このようなエリフの変化は、エリフだけのことではありません。私たちも気をつけなければ、「神さまについて」「イエスさまについて」「聖霊なる神さまについて」聖書に記されている知識が増し加えられていく時、知らないうちに高慢になり、自分を神の代弁者と位置付けてしまいやすいのです。
エリフのように高慢になり、自分を神の代弁者と位置付けてしまわないように、「聖書」に記されていることだけを、神のことばとして語ることが大事です。そして下記の通り、「膝をかがめ」「イエス・キリストは主です」と告白することが大事です。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
ピリピ人への手紙2章10~11節
今週も膝をかがめ、「イエス・キリストは主です」と告白しつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記36章2節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記36章も続きます。そして冒頭で引用した個所には、エリフの発言の立ち位置が滲み出ています。「神のために言い分がある」。このエリフの発言からは、神の代弁者としての立ち位置が見えてきます。
しかし、エリフが語り始めた時の立ち位置は違いました。
すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼は、ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたので、ヨブに向かって怒りを燃やしたのである。彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを不義に定めながら、言い返せなかったからである。
ヨブ記32章2~3節
ここに記されている通り、エリフが語り始めた時の原動力、立ち位置は、「怒り」でした。「ヨブに向かって怒りを燃やし」(2節)、「三人の友に向かっても怒りを燃やし」(3節)とある通りです。しかしそれがいつの間にか、神さまの代弁者的な立ち位置に変わっていったのです。
このようなエリフの変化は、エリフだけのことではありません。私たちも気をつけなければ、「神さまについて」「イエスさまについて」「聖霊なる神さまについて」聖書に記されている知識が増し加えられていく時、知らないうちに高慢になり、自分を神の代弁者と位置付けてしまいやすいのです。
エリフのように高慢になり、自分を神の代弁者と位置付けてしまわないように、「聖書」に記されていることだけを、神のことばとして語ることが大事です。そして下記の通り、「膝をかがめ」「イエス・キリストは主です」と告白することが大事です。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
ピリピ人への手紙2章10~11節
今週も膝をかがめ、「イエス・キリストは主です」と告白しつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
「知識もなしに」語らない ― 2025年07月20日
ヨブは空しい口を開き、知識もなしに、自分の言い分を並べ立てている。
ヨブ記35章16節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記35章も続きます。そして冒頭で引用したことばも、当然エリフのことばです。ここでエリフが使っている「知識もなしに」ということばですが、エリフは34章でもヨブに対して使っていました。
「ヨブは知識もなしに語る。彼のことばは聡明さに欠けている」と。
ヨブ記34章35節
そしてこのエリフがヨブに対して使う「知識もなしに」という表現は、ヨブ記38章では、主(神さま)がヨブに語ることばの最初に登場します。
主は嵐の中からヨブに答えられた。知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。 ヨブ記38章1~2節
このエリフがヨブに語る「知識もなしに」と、主(神さま)がヨブに語る「知識もなしに」の間には、ことばは同じでも、読み手が感じる印象には大きな違いが生じます。主(神さま)が、ヨブだけでなく、誰に対しても「知識もなしに」と語られることに対しては、当然のこととして聞くことができますが、エリフが「知識もなしに」と語ると、「エリフはどないやねん」と言い返したくなります。
ヨブ記42章に主(神さま)が、ヨブの友人に語っている箇所がありますが、そこにエリフの名前は登場しません。
主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。…」
ヨブ記42章7節
エリフは、神さまについて確かなことを語ったので名前が登場しないのか、エリフは箸にも棒にもかからなかったので名前が登場しないのか、それは私にはわかりませんが、「知識もなしに」高慢になって語ることのないように、今週もお互いに気をつけましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記35章16節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記35章も続きます。そして冒頭で引用したことばも、当然エリフのことばです。ここでエリフが使っている「知識もなしに」ということばですが、エリフは34章でもヨブに対して使っていました。
「ヨブは知識もなしに語る。彼のことばは聡明さに欠けている」と。
ヨブ記34章35節
そしてこのエリフがヨブに対して使う「知識もなしに」という表現は、ヨブ記38章では、主(神さま)がヨブに語ることばの最初に登場します。
主は嵐の中からヨブに答えられた。知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。 ヨブ記38章1~2節
このエリフがヨブに語る「知識もなしに」と、主(神さま)がヨブに語る「知識もなしに」の間には、ことばは同じでも、読み手が感じる印象には大きな違いが生じます。主(神さま)が、ヨブだけでなく、誰に対しても「知識もなしに」と語られることに対しては、当然のこととして聞くことができますが、エリフが「知識もなしに」と語ると、「エリフはどないやねん」と言い返したくなります。
ヨブ記42章に主(神さま)が、ヨブの友人に語っている箇所がありますが、そこにエリフの名前は登場しません。
主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。…」
ヨブ記42章7節
エリフは、神さまについて確かなことを語ったので名前が登場しないのか、エリフは箸にも棒にもかからなかったので名前が登場しないのか、それは私にはわかりませんが、「知識もなしに」高慢になって語ることのないように、今週もお互いに気をつけましょう。 (吉持日輪生)
私たちの神理解の限界と希望 ― 2025年07月13日
だから、あなたがた良識のある人々よ、私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない。神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる。神は決して悪を行わない。全能者はさばきを曲げない。
ヨブ記34章10~12節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記34章も続きます。ヨブ記32章から始まったエリフの「怒りに燃えた」発言は、ヨブに対してだけでなく、ヨブの友人三人にも向けられています。しかしエリフの発言を32章、33章、34章と読み進めて感じることは、エリフの怒りに燃えた発言は、これまでのヨブの友人三人の発言とあまり大差がないことです。
冒頭で引用した通り「全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない」という神理解と、「神は、人の行いに応じて報われる」という因果応報的な理解。この理解に立つ時、正しい神さまが、ヨブの罪を認め、ヨブの罪の報いとして災いを与えられたとなります。一方ヨブの方は、自覚的に正しく歩んできたという自負があるからこそ、友人から、ヨブ自身の中に罪があるから災いを受けたのだと責められると納得がいかないという状況でした。エリフもこの思考から脱却できていません。
これが、私たち人間の神理解の限界でしょう。私たちは、神さまのことを表面的にしか、一面的にしか理解できないのです。しかし、三位一体の神さまは、多面的であり、多層的な存在です。けれども、このような私たちに、神さまは一つの希望も備えていてくださいます。それは、聖書が語る神さまを信じる一人ひとりがその表面的、一面的神理解を互いに認め合うことです。お互いの神理解をさばき合うのでもなく、批判し合うのでもなく、否定し合うのでもありません。互いに認め合い、受け入れ合い、愛し合うのです。そこに豊かな神理解が生まれていきます。
けれどもそのような取り組みを通しても、私たちの神理解には限界があります。聖書が語る神さまの豊かさは、私たちの神理解をはるかに超えていますが、それでも様々なキリスト者の存在を通して、私たちは神さまを多面的に、多層的に理解することができるのです。
この希望をもって、今週も、お互いの神理解を認め合い、語り合い、私たちの神理解をさらにより多面的に、多層的にしていきましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記34章10~12節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記34章も続きます。ヨブ記32章から始まったエリフの「怒りに燃えた」発言は、ヨブに対してだけでなく、ヨブの友人三人にも向けられています。しかしエリフの発言を32章、33章、34章と読み進めて感じることは、エリフの怒りに燃えた発言は、これまでのヨブの友人三人の発言とあまり大差がないことです。
冒頭で引用した通り「全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない」という神理解と、「神は、人の行いに応じて報われる」という因果応報的な理解。この理解に立つ時、正しい神さまが、ヨブの罪を認め、ヨブの罪の報いとして災いを与えられたとなります。一方ヨブの方は、自覚的に正しく歩んできたという自負があるからこそ、友人から、ヨブ自身の中に罪があるから災いを受けたのだと責められると納得がいかないという状況でした。エリフもこの思考から脱却できていません。
これが、私たち人間の神理解の限界でしょう。私たちは、神さまのことを表面的にしか、一面的にしか理解できないのです。しかし、三位一体の神さまは、多面的であり、多層的な存在です。けれども、このような私たちに、神さまは一つの希望も備えていてくださいます。それは、聖書が語る神さまを信じる一人ひとりがその表面的、一面的神理解を互いに認め合うことです。お互いの神理解をさばき合うのでもなく、批判し合うのでもなく、否定し合うのでもありません。互いに認め合い、受け入れ合い、愛し合うのです。そこに豊かな神理解が生まれていきます。
けれどもそのような取り組みを通しても、私たちの神理解には限界があります。聖書が語る神さまの豊かさは、私たちの神理解をはるかに超えていますが、それでも様々なキリスト者の存在を通して、私たちは神さまを多面的に、多層的に理解することができるのです。
この希望をもって、今週も、お互いの神理解を認め合い、語り合い、私たちの神理解をさらにより多面的に、多層的にしていきましょう。 (吉持日輪生)
私たちの恵みを噛みしめよう ― 2025年07月06日
もし彼のそばに、一人の御使いが、千人に一人の仲介者がいて、その方が彼に代わって彼が誠実であることを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、滅びの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を見出した」と。
ヨブ記33章23~24節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばが、ヨブ記33章も続きます。彼の「怒りに燃えた」ことばの中には、これまでのヨブの友人達と同様、様々な間違いがありますが、興味深いことは、冒頭で引用した「仲介者」の存在への思いです。これまでもヨブ記に様々な表現で登場してきた内容です。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。(ヨブの発言)
ヨブ記9章33節
今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。(中略)その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。(ヨブの発言)
ヨブ記16章19~21節抜粋
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。(ヨブの発言)
ヨブ記19章25節
そして今回は、冒頭でも引用している通り、エリフの発言の中で「仲介者」ということばが登場しています。イエス・キリストが誕生する何百年も前のイスラエル人の中に、イエスさまのような存在が希求されていたことが伝わってきます。そしてヨブの中に、またヨブ記執筆者の中に、イエスさまのような存在のイメージがしっかりできていたことを感じます。
イエスさまご自身がこのように語っています。
まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
マタイの福音書13章17節
私たちは「聖書」を通して、また聖霊なる神さまの助けによって、イエスさまをはっきりと知ることができることを、大きな恵みとして感謝しつつ今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記33章23~24節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばが、ヨブ記33章も続きます。彼の「怒りに燃えた」ことばの中には、これまでのヨブの友人達と同様、様々な間違いがありますが、興味深いことは、冒頭で引用した「仲介者」の存在への思いです。これまでもヨブ記に様々な表現で登場してきた内容です。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。(ヨブの発言)
ヨブ記9章33節
今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。(中略)その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。(ヨブの発言)
ヨブ記16章19~21節抜粋
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。(ヨブの発言)
ヨブ記19章25節
そして今回は、冒頭でも引用している通り、エリフの発言の中で「仲介者」ということばが登場しています。イエス・キリストが誕生する何百年も前のイスラエル人の中に、イエスさまのような存在が希求されていたことが伝わってきます。そしてヨブの中に、またヨブ記執筆者の中に、イエスさまのような存在のイメージがしっかりできていたことを感じます。
イエスさまご自身がこのように語っています。
まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
マタイの福音書13章17節
私たちは「聖書」を通して、また聖霊なる神さまの助けによって、イエスさまをはっきりと知ることができることを、大きな恵みとして感謝しつつ今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
エリフの怒り ― 2025年06月29日
すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼は、ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたので、ヨブに向かって怒りを燃やしたのである。彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを不義に定めながら、言い返せなかったからである。
ヨブ記32章2~3節
これまで読み進めてきたヨブとヨブの友人たちとのやり取りにおいても、お互いに感情的になるところはありましたが、ヨブ記32章から登場するラム族ブズ人、バラクエルの子エリフは、感情的どころか「怒りに燃えて」と記されています。冒頭で引用した個所には、エリフの怒りについて、3回「怒りを燃やした」という表現が登場しています。
これまでも、ヨブとヨブの友人テマン人エリファズとのやり取りで、エリファズが感情的になることで、それに呼応してヨブも感情的になっている時がありましたが、「怒り」に関しても同様、「怒り」には「怒り」が返ってくることになります。しかし、ヨブ記32章以降を読み進めると、ヨブの「怒り」の発言は登場しません。その理由は、下記のエリフの状況から想像することができます。
私にはことばがあふれていて、内なる霊が私を圧迫しているからだ。今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のよう。新しい皮袋のように、張り裂けようとしている。
ヨブ記32章18~19節
エリフのことばは、32章から始まりその後も、ほとばしるように33章、34章、35章、36章、37章と続きます。そして、結局エリフの発言に続いて語り始めたのは、主(神さま)でした。
主は嵐の中からヨブに答えられた。
ヨブ記38章1節
怒りに燃えて語ったエリフに対して、ヨブはそれに圧倒され、何も答えられなかったのかもしれません。または主(神さま)が、怒りの連鎖を断ち切るために、ヨブが答える前に介入されたのかもしれません。このようなエリフの発言からは、「怒りに燃える」エネルギーのすごさ、すさまじさ、巨大さを感じます。そしてその人間の燃えたぎった「怒り」を止めることができるのは、神さまだけであることも教えられます。
今、世界に漂っている様々な「怒り」の連鎖に、神さまが介入してくださり、「怒り」の連鎖が断ち切られるように祈りましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記32章2~3節
これまで読み進めてきたヨブとヨブの友人たちとのやり取りにおいても、お互いに感情的になるところはありましたが、ヨブ記32章から登場するラム族ブズ人、バラクエルの子エリフは、感情的どころか「怒りに燃えて」と記されています。冒頭で引用した個所には、エリフの怒りについて、3回「怒りを燃やした」という表現が登場しています。
これまでも、ヨブとヨブの友人テマン人エリファズとのやり取りで、エリファズが感情的になることで、それに呼応してヨブも感情的になっている時がありましたが、「怒り」に関しても同様、「怒り」には「怒り」が返ってくることになります。しかし、ヨブ記32章以降を読み進めると、ヨブの「怒り」の発言は登場しません。その理由は、下記のエリフの状況から想像することができます。
私にはことばがあふれていて、内なる霊が私を圧迫しているからだ。今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のよう。新しい皮袋のように、張り裂けようとしている。
ヨブ記32章18~19節
エリフのことばは、32章から始まりその後も、ほとばしるように33章、34章、35章、36章、37章と続きます。そして、結局エリフの発言に続いて語り始めたのは、主(神さま)でした。
主は嵐の中からヨブに答えられた。
ヨブ記38章1節
怒りに燃えて語ったエリフに対して、ヨブはそれに圧倒され、何も答えられなかったのかもしれません。または主(神さま)が、怒りの連鎖を断ち切るために、ヨブが答える前に介入されたのかもしれません。このようなエリフの発言からは、「怒りに燃える」エネルギーのすごさ、すさまじさ、巨大さを感じます。そしてその人間の燃えたぎった「怒り」を止めることができるのは、神さまだけであることも教えられます。
今、世界に漂っている様々な「怒り」の連鎖に、神さまが介入してくださり、「怒り」の連鎖が断ち切られるように祈りましょう。 (吉持日輪生)
「主のさばき」にゆだねる ― 2025年06月22日
ヨブのことばは終わった。 ヨブ記31章40節b
ヨブ記29章から続いていたヨブのことばは、上記に引用した個所で終わります。そして来週取り上げるヨブ記32章は次のように始まります。
この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと思っていたからである。 ヨブ記32章1節
確かにヨブは、これまで何度も確認してきたようにヨブ記1章で「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ記1章1節)、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記1章8節)」、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記2章3節)と紹介されてきました。
そしてヨブとヨブの友人三人との対話も、振り返るとヨブの「正しさ」を巡るやり取りでした。ヨブは自らのことを「正しい」と語り、ヨブの友人たちは、ヨブのことを「正しくない」と語っていました。例えば、テマン人エリファズは下記のように語りました。「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか」(ヨブ記4章17節)。それに対してヨブは、次のように主張しています。「思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ」(ヨブ記6章29節)。
そしてそのようなヨブとヨブの友人たちの対話を読みながら、私たちもヨブの主張が正しいのか、ヨブの友人たちの主張の方が正しいのかと、「正しさ」について思い巡らすことになります。しかし聖書は、下記のように語ります。
主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり ことごとく正しい 詩篇19篇9節
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 へブル人への手紙9章27節
罪人の私たちが「正しさ」を判断する時、そこに間違い、誤りが生じるからこそ、私たちは、「主のさばき」にゆだね、祈るしかありません。今週も「主の正しいさばき」が行われるように祈りつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記29章から続いていたヨブのことばは、上記に引用した個所で終わります。そして来週取り上げるヨブ記32章は次のように始まります。
この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと思っていたからである。 ヨブ記32章1節
確かにヨブは、これまで何度も確認してきたようにヨブ記1章で「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ記1章1節)、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記1章8節)」、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記2章3節)と紹介されてきました。
そしてヨブとヨブの友人三人との対話も、振り返るとヨブの「正しさ」を巡るやり取りでした。ヨブは自らのことを「正しい」と語り、ヨブの友人たちは、ヨブのことを「正しくない」と語っていました。例えば、テマン人エリファズは下記のように語りました。「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか」(ヨブ記4章17節)。それに対してヨブは、次のように主張しています。「思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ」(ヨブ記6章29節)。
そしてそのようなヨブとヨブの友人たちの対話を読みながら、私たちもヨブの主張が正しいのか、ヨブの友人たちの主張の方が正しいのかと、「正しさ」について思い巡らすことになります。しかし聖書は、下記のように語ります。
主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり ことごとく正しい 詩篇19篇9節
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 へブル人への手紙9章27節
罪人の私たちが「正しさ」を判断する時、そこに間違い、誤りが生じるからこそ、私たちは、「主のさばき」にゆだね、祈るしかありません。今週も「主の正しいさばき」が行われるように祈りつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
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