主を待ち望みつつ歩もう ― 2026年03月15日
主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。
主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
詩篇27篇1節
詩篇27篇の作者は、力強く歌い始めます。反語的な表現を使い、「だれをも私は恐れない」「だれをも私は怖がらない」と始まります。
さらに4節以降では、詩篇作者の神さまに対する一つの願いが記されています。
一つのことを私は主に願った。
それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ
その宮で思いを巡らすために。 詩篇27篇4節
詩篇作者は、「いのちの日の限り 主の家に住むこと」「主の宮で思い巡らすこと」を願っています。このような詩篇作者ですが、私たちと同様、このような信仰者として力強い思い、願いは長続きしません。詩篇作者の中に不安が募ります。
どうか 御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを
怒って 押しのけないでください。
あなたは私の助けです。
見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神よ。 詩篇27篇9節
神さまへの信仰は、常に一定でもなければ、常に右肩上がりでもありません。そのことを詩篇作者は、素直に表現しています。そして最後このように締めくくります。
待ち望め 主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め 主を。 詩篇27篇14節
信仰が順調な時も、絶不調の時も、私たちは常に変わることなく「主を待ち望みつつ」歩みたいです。今週もそのように歩みましょう。 (吉持日輪生)
主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
詩篇27篇1節
詩篇27篇の作者は、力強く歌い始めます。反語的な表現を使い、「だれをも私は恐れない」「だれをも私は怖がらない」と始まります。
さらに4節以降では、詩篇作者の神さまに対する一つの願いが記されています。
一つのことを私は主に願った。
それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ
その宮で思いを巡らすために。 詩篇27篇4節
詩篇作者は、「いのちの日の限り 主の家に住むこと」「主の宮で思い巡らすこと」を願っています。このような詩篇作者ですが、私たちと同様、このような信仰者として力強い思い、願いは長続きしません。詩篇作者の中に不安が募ります。
どうか 御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを
怒って 押しのけないでください。
あなたは私の助けです。
見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神よ。 詩篇27篇9節
神さまへの信仰は、常に一定でもなければ、常に右肩上がりでもありません。そのことを詩篇作者は、素直に表現しています。そして最後このように締めくくります。
待ち望め 主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め 主を。 詩篇27篇14節
信仰が順調な時も、絶不調の時も、私たちは常に変わることなく「主を待ち望みつつ」歩みたいです。今週もそのように歩みましょう。 (吉持日輪生)
誠実に歩むために ― 2026年03月08日
主よ 私を弁護してください。
私は誠実に歩み
よろめくことなく 主に信頼しています。 詩篇26篇1節
しかし私は 誠実に歩みます。
私を贖い出してください。あわれんでください。 詩篇26篇11節
詩篇作者の姿勢が、上記2つの引用箇所に現れています。1節「誠実に歩み」、11節「誠実に歩みます」とあるように、詩篇作者は、誠実に歩むことを心がけています。
けれども詩篇作者が置かれている環境は、なかなか厳しいものでした。
私は不信実な人とともに座らず
偽善者とともに行きません。
悪を行う者の集まりを憎み
悪しき者とともに座りません。 詩篇26篇4~5節
どうか私のたましいを 罪人どもとともに
私のいのちを 人の血を流す者どもとともに
取り去らないでください。
彼らの手には悪事があり
その右の手は賄賂で満ちているのです。 詩篇26篇9~10節
誠実に歩もうとする詩篇作者の周りには「不信実な人」「偽善者」(4節)、「悪を行う者」「悪しき者」(5節)、「罪人」「人の血を流す者」(9節)、「手に悪事があり、賄賂で満ちて(いる者)」(10節)とあります。
そのような状況、環境の中で、詩篇作者が誠実に歩むために行っていたことも記されています。
手を洗い 自らの潔白を示します。
主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。
感謝の声を響き渡らせて 語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。
主よ 私は愛します。
あなたの住まいのある所
あなたの栄光のとどまる所を。 詩篇26篇6~8節
詩篇作者は、「誠実に歩む」ために、「祭壇の周り」「感謝の声を響き渡らせ」「神さまの奇しいみわざを語り告げ」「主を愛し」「主の住まいのある所 栄光のとどまる所」を歩こうとしています。私たちも詩篇作者のように生きることで「誠実に歩む者」として今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
私は誠実に歩み
よろめくことなく 主に信頼しています。 詩篇26篇1節
しかし私は 誠実に歩みます。
私を贖い出してください。あわれんでください。 詩篇26篇11節
詩篇作者の姿勢が、上記2つの引用箇所に現れています。1節「誠実に歩み」、11節「誠実に歩みます」とあるように、詩篇作者は、誠実に歩むことを心がけています。
けれども詩篇作者が置かれている環境は、なかなか厳しいものでした。
私は不信実な人とともに座らず
偽善者とともに行きません。
悪を行う者の集まりを憎み
悪しき者とともに座りません。 詩篇26篇4~5節
どうか私のたましいを 罪人どもとともに
私のいのちを 人の血を流す者どもとともに
取り去らないでください。
彼らの手には悪事があり
その右の手は賄賂で満ちているのです。 詩篇26篇9~10節
誠実に歩もうとする詩篇作者の周りには「不信実な人」「偽善者」(4節)、「悪を行う者」「悪しき者」(5節)、「罪人」「人の血を流す者」(9節)、「手に悪事があり、賄賂で満ちて(いる者)」(10節)とあります。
そのような状況、環境の中で、詩篇作者が誠実に歩むために行っていたことも記されています。
手を洗い 自らの潔白を示します。
主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。
感謝の声を響き渡らせて 語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。
主よ 私は愛します。
あなたの住まいのある所
あなたの栄光のとどまる所を。 詩篇26篇6~8節
詩篇作者は、「誠実に歩む」ために、「祭壇の周り」「感謝の声を響き渡らせ」「神さまの奇しいみわざを語り告げ」「主を愛し」「主の住まいのある所 栄光のとどまる所」を歩こうとしています。私たちも詩篇作者のように生きることで「誠実に歩む者」として今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
道を教えてくださる神さま ― 2026年03月01日
主よ あなたの道を私に知らせ
あなたの進む道を私に教えてください。
あなたの真理に私を導き 教えてください。
あなたこそ 私の救いの神
私は あなたを一日中待ち望みます。
詩篇25篇4~5節
上記の聖書個所を読み、福音書に記されているイエスさまとお弟子さんとの会話を思い出しました。
トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ヨハネの福音書14章5~6節
いつの時代も、人は「道」を知りたいと思うのでしょう。詩篇作者も、そしてイエスさまのお弟子さんのトマスもです。そして神さまに「道」を求める時、私たちに「道」を教えてくださる神さまです。
主は いつくしみ深く正しくあられます。
それゆえ 罪人に道をお教えになります。
詩篇25篇8節
詩篇作者も、自分の過去の罪を自覚しつつ、罪人であった「私」に「道を教えてくださった」ことを思い返しているのでしょう。聖書が指し示す神さまは、罪人を突き放し、罪人を見放し、罪人を見捨てるお方ではありません。神さまの真実さ、神さまのいつくしみ深さゆえに、私たちに歩むべき「道」を丁寧に、あきらめることなく、時間をかけて教えてくださいます。
いよいよ私も、4月から新しい教会、新しい地での歩みが始まろうとしています。考え出すと不安ばかりが出てきますが、だからこそ「道を教えてくださる」神さまにただただ祈り、すがりながら歩むしかないと思わされています。
今週も「道を教えていただきつつ」日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
あなたの進む道を私に教えてください。
あなたの真理に私を導き 教えてください。
あなたこそ 私の救いの神
私は あなたを一日中待ち望みます。
詩篇25篇4~5節
上記の聖書個所を読み、福音書に記されているイエスさまとお弟子さんとの会話を思い出しました。
トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ヨハネの福音書14章5~6節
いつの時代も、人は「道」を知りたいと思うのでしょう。詩篇作者も、そしてイエスさまのお弟子さんのトマスもです。そして神さまに「道」を求める時、私たちに「道」を教えてくださる神さまです。
主は いつくしみ深く正しくあられます。
それゆえ 罪人に道をお教えになります。
詩篇25篇8節
詩篇作者も、自分の過去の罪を自覚しつつ、罪人であった「私」に「道を教えてくださった」ことを思い返しているのでしょう。聖書が指し示す神さまは、罪人を突き放し、罪人を見放し、罪人を見捨てるお方ではありません。神さまの真実さ、神さまのいつくしみ深さゆえに、私たちに歩むべき「道」を丁寧に、あきらめることなく、時間をかけて教えてくださいます。
いよいよ私も、4月から新しい教会、新しい地での歩みが始まろうとしています。考え出すと不安ばかりが出てきますが、だからこそ「道を教えてくださる」神さまにただただ祈り、すがりながら歩むしかないと思わされています。
今週も「道を教えていただきつつ」日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
栄光の王 それはだれか ― 2026年02月22日
門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王とは だれか。
強く 力ある主。
戦いに力ある主。
門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王 それはだれか。
万軍の主 この方こそ栄光の王。 セラ 詩篇24篇7~10節
詩篇24篇は、上記にあるようにとても力強いことばで終わります。ここで繰り返し登場することばは「栄光の王」です。「栄光の王が入って来られる」(7、9節)、「栄光の王とは だれか」(8節)、「栄光の王 それはだれか」(10節)、「万軍の主 この方こそ栄光の王」(10節)。このような個所を読みながらつながるのが、イエスさまのエルサレム入城です。
4つの福音書にそれぞれ記されていますが(マタイの福音書21章、マルコの福音書11章、 ルカの福音書19章、ヨハネの福音書12章)、そのイエスさまの姿は、ろばの子に乗り、エルサレムに入られています。この詩篇での「栄光の王」は、偉大だからこそ「門よ おまえたちの頭を上げよ」と門を最大限に大きくしなければ入れない程に大きい「栄光の王」として記されています。しかし実際の「栄光の王」であるイエスさまは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。ここにも下記のことばが重なります。
キリスト(栄光の王)は、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
ピリピ人への手紙2章6~9節
「栄光の王」は、十字架の死にまでへりくだられた王です。私たちもそのような「栄光の主」にならい、へりくだって歩みましょう。
(吉持日輪生)
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王とは だれか。
強く 力ある主。
戦いに力ある主。
門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。
栄光の王が入って来られる。
栄光の王 それはだれか。
万軍の主 この方こそ栄光の王。 セラ 詩篇24篇7~10節
詩篇24篇は、上記にあるようにとても力強いことばで終わります。ここで繰り返し登場することばは「栄光の王」です。「栄光の王が入って来られる」(7、9節)、「栄光の王とは だれか」(8節)、「栄光の王 それはだれか」(10節)、「万軍の主 この方こそ栄光の王」(10節)。このような個所を読みながらつながるのが、イエスさまのエルサレム入城です。
4つの福音書にそれぞれ記されていますが(マタイの福音書21章、マルコの福音書11章、 ルカの福音書19章、ヨハネの福音書12章)、そのイエスさまの姿は、ろばの子に乗り、エルサレムに入られています。この詩篇での「栄光の王」は、偉大だからこそ「門よ おまえたちの頭を上げよ」と門を最大限に大きくしなければ入れない程に大きい「栄光の王」として記されています。しかし実際の「栄光の王」であるイエスさまは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。ここにも下記のことばが重なります。
キリスト(栄光の王)は、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
ピリピ人への手紙2章6~9節
「栄光の王」は、十字架の死にまでへりくだられた王です。私たちもそのような「栄光の主」にならい、へりくだって歩みましょう。
(吉持日輪生)
主(神さま)は私の羊飼い ― 2026年02月15日
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
詩篇23篇1~2節
聖書は、「神さま」と「人間」の関係を、「羊飼い」と「羊」の関係として語ります。私たちにはあまりなじみのない「羊飼い」ですが、聖書を読んでいると様々なところで「羊飼い」の姿が見えてきます。イエスさまも新約聖書で「羊飼い」の姿に触れています。
あなたがたはどう思いますか。もしある人(羊飼い)に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
マタイの福音書18章12節
わたしは良い牧者(羊飼い)です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
ヨハネの福音書10章11、14節
そして復活されたイエスさまは、弟子ペテロにこのように語られています。
イエスは彼(ペテロ)に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
イエスは彼(ペテロ)に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは彼(ペテロ)に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
ヨハネの福音書21章15~17節(抜粋)
イエスさまは、3回もペテロに「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と羊飼いとしての役割を求めておられます。
三位一体の神さま(父なる神、子なるイエスさま、聖霊なる神さま)は、私たちを羊のように飼い、牧し続けてくださるお方です。ですから私たちも隣人に対して、羊飼いのように「飼い」「牧する」関わり方を祈り求め、実践していきたいと思います。羊を「飼い」「牧する」とは、決して美しく、きれいな働きばかりではありません。下のお世話も、またいざこざを治めることも必要になります。けれども神さまの御手に導かれながら誰かの「羊飼い」として歩むキリスト者でありたいと思います。今週も誰かの羊飼いとして歩みましょう。 (吉持日輪生)
主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
詩篇23篇1~2節
聖書は、「神さま」と「人間」の関係を、「羊飼い」と「羊」の関係として語ります。私たちにはあまりなじみのない「羊飼い」ですが、聖書を読んでいると様々なところで「羊飼い」の姿が見えてきます。イエスさまも新約聖書で「羊飼い」の姿に触れています。
あなたがたはどう思いますか。もしある人(羊飼い)に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
マタイの福音書18章12節
わたしは良い牧者(羊飼い)です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
ヨハネの福音書10章11、14節
そして復活されたイエスさまは、弟子ペテロにこのように語られています。
イエスは彼(ペテロ)に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
イエスは彼(ペテロ)に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは彼(ペテロ)に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
ヨハネの福音書21章15~17節(抜粋)
イエスさまは、3回もペテロに「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と羊飼いとしての役割を求めておられます。
三位一体の神さま(父なる神、子なるイエスさま、聖霊なる神さま)は、私たちを羊のように飼い、牧し続けてくださるお方です。ですから私たちも隣人に対して、羊飼いのように「飼い」「牧する」関わり方を祈り求め、実践していきたいと思います。羊を「飼い」「牧する」とは、決して美しく、きれいな働きばかりではありません。下のお世話も、またいざこざを治めることも必要になります。けれども神さまの御手に導かれながら誰かの「羊飼い」として歩むキリスト者でありたいと思います。今週も誰かの羊飼いとして歩みましょう。 (吉持日輪生)
イエスさまの十字架と強く結びつく詩篇22篇 ― 2026年02月08日
わが神 わが神
どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず 遠く離れておられるのですか。
私のうめきのことばにもかかわらず。 詩篇 22篇1節
冒頭で引用した詩篇22篇1節は、イエスさまが十字架上でこのことばを最後の力を振り絞って語った個所として有名です。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイの福音書 27章46節
このイエスさまの十字架上での状況、十字架に磔にされ、あと数時間で命を落とすという状況を考える時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、まさにぴったり重なります。そして事実、私たちを救うために、イエスさまは神さまに見捨てられたのですが、それで終わりではありませんでした。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
ピリピ人への手紙 2章6~9節
そしてイエスさまが十字架上で語った詩篇22篇は次のようなことばで終わります。
子孫たちは主に仕え 主のことが 世代を越えて語り告げられます。
彼らは来て 生まれてくる民に 主の義を告げ知らせます。
主が義を行われたからです。
詩篇 22篇30~31節
主(神さま)が行われた義(正しさ)が、これまでも語り告げられてきたように、これからも語り告げられていくのです。 (吉持日輪生)
どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず 遠く離れておられるのですか。
私のうめきのことばにもかかわらず。 詩篇 22篇1節
冒頭で引用した詩篇22篇1節は、イエスさまが十字架上でこのことばを最後の力を振り絞って語った個所として有名です。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイの福音書 27章46節
このイエスさまの十字架上での状況、十字架に磔にされ、あと数時間で命を落とすという状況を考える時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、まさにぴったり重なります。そして事実、私たちを救うために、イエスさまは神さまに見捨てられたのですが、それで終わりではありませんでした。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
ピリピ人への手紙 2章6~9節
そしてイエスさまが十字架上で語った詩篇22篇は次のようなことばで終わります。
子孫たちは主に仕え 主のことが 世代を越えて語り告げられます。
彼らは来て 生まれてくる民に 主の義を告げ知らせます。
主が義を行われたからです。
詩篇 22篇30~31節
主(神さま)が行われた義(正しさ)が、これまでも語り告げられてきたように、これからも語り告げられていくのです。 (吉持日輪生)
大いなる御力をほめ歌おう ― 2026年02月01日
主よ あなたの御力を 王は喜びます。
あなたの御救いを どんなに楽しむことでしょう。
詩篇21篇1節
詩篇21篇の表題に「指揮者のために。ダビデの賛歌。」とありますので、ここに登場する「王」について、具体的には「ダビデ王」と考えて良いのでしょう。それと同時に以下の新約聖書の記述から、私たちは「王」にイエス・キリストのことを重ねて読みたくなります。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。
ルカの福音書1章32~33節
特に以下のところでは、イエスさまに思いが向けられます。
あなたは 幸いに至る祝福をもって彼を迎え
頭に純金の冠を置かれます。
いのちを 彼はあなたに願い
あなたは彼にそれをお与えになります。
いつまでも とこしえまでも限りなく。 詩篇21篇3~4節
私たちは、旧約聖書に記されているダビデ王の生涯を読み、親しむ時、そしてイエスさまの生涯を読み、知る時、詩篇21篇の最後のことばに共感し、私たちの思いも主(父なる神さま)に向けられていきます。
主よ あなたの御力のゆえに
あなたがあがめられますように。
大いなる御力を 私たちは歌い ほめ歌います。
詩篇21篇13節
今週も、父なる神さまの御力、大いなる御力をほめ歌いつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
あなたの御救いを どんなに楽しむことでしょう。
詩篇21篇1節
詩篇21篇の表題に「指揮者のために。ダビデの賛歌。」とありますので、ここに登場する「王」について、具体的には「ダビデ王」と考えて良いのでしょう。それと同時に以下の新約聖書の記述から、私たちは「王」にイエス・キリストのことを重ねて読みたくなります。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。
ルカの福音書1章32~33節
特に以下のところでは、イエスさまに思いが向けられます。
あなたは 幸いに至る祝福をもって彼を迎え
頭に純金の冠を置かれます。
いのちを 彼はあなたに願い
あなたは彼にそれをお与えになります。
いつまでも とこしえまでも限りなく。 詩篇21篇3~4節
私たちは、旧約聖書に記されているダビデ王の生涯を読み、親しむ時、そしてイエスさまの生涯を読み、知る時、詩篇21篇の最後のことばに共感し、私たちの思いも主(父なる神さま)に向けられていきます。
主よ あなたの御力のゆえに
あなたがあがめられますように。
大いなる御力を 私たちは歌い ほめ歌います。
詩篇21篇13節
今週も、父なる神さまの御力、大いなる御力をほめ歌いつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
「今 私は知る」時が必ず来る ― 2026年01月25日
苦難の日に
主があなたにお答えになりますように。
ヤコブの神の御名が
あなたを高く上げますように。 詩篇20篇1節
詩篇20篇の冒頭は、上記で記している通り「苦難の日に」のことばで始まります。先週(1月18日)の礼拝で、吉持尽主師より「苦難の中の祈り」という説教を聞きましたが、まさに詩篇20篇は、「苦難の日に」どのような祈りを献げたら良いのか、隣人の苦難を覚え、どのようなとりなしの祈りをしたら良いのかを教えてくれます。
1節~5節には、次のような祈りが記されています。
「あなた(私)にお答えになりますように」 (1節)、
「あなた(私)を高く上げますように」 (1節)、
「あなた(私)に助けを送り、
あなた(私)を支えられますように」 (2節)、
「あなた(私)のささげ物をすべて心に留め、
受け入れてくださいますように」 (3節)、
「あなた(私)の心の望みを
かなえてくださいますように」 (4節)、
「あなた(私)のすべての計画を
遂げさせてくださいますように」 (4節)、
「あなた(私)の願いのすべてを
遂げさせてくださいますように」 (5節)
と、このような祈りが記されています。
そして、詩篇作者はこのような祈りを献げつつ、一つの事実にたどり着きます。
今 私は知る。
主が 主に油注がれた者を救ってくださることを。
右の御手の救いの御力をもって
聖なる天から その者に答えてくださることを。 詩篇20篇6節
私たちも、時間がかかるかもしれませんが、苦難の中で主に祈る時、主に祈り続ける時、この詩篇作者と同様、「今 私は知る」と祈る日が来ます。
今週も、そのような主(神さま)に祈りつつ、期待しつつ歩みましょう。
(吉持日輪生)
主があなたにお答えになりますように。
ヤコブの神の御名が
あなたを高く上げますように。 詩篇20篇1節
詩篇20篇の冒頭は、上記で記している通り「苦難の日に」のことばで始まります。先週(1月18日)の礼拝で、吉持尽主師より「苦難の中の祈り」という説教を聞きましたが、まさに詩篇20篇は、「苦難の日に」どのような祈りを献げたら良いのか、隣人の苦難を覚え、どのようなとりなしの祈りをしたら良いのかを教えてくれます。
1節~5節には、次のような祈りが記されています。
「あなた(私)にお答えになりますように」 (1節)、
「あなた(私)を高く上げますように」 (1節)、
「あなた(私)に助けを送り、
あなた(私)を支えられますように」 (2節)、
「あなた(私)のささげ物をすべて心に留め、
受け入れてくださいますように」 (3節)、
「あなた(私)の心の望みを
かなえてくださいますように」 (4節)、
「あなた(私)のすべての計画を
遂げさせてくださいますように」 (4節)、
「あなた(私)の願いのすべてを
遂げさせてくださいますように」 (5節)
と、このような祈りが記されています。
そして、詩篇作者はこのような祈りを献げつつ、一つの事実にたどり着きます。
今 私は知る。
主が 主に油注がれた者を救ってくださることを。
右の御手の救いの御力をもって
聖なる天から その者に答えてくださることを。 詩篇20篇6節
私たちも、時間がかかるかもしれませんが、苦難の中で主に祈る時、主に祈り続ける時、この詩篇作者と同様、「今 私は知る」と祈る日が来ます。
今週も、そのような主(神さま)に祈りつつ、期待しつつ歩みましょう。
(吉持日輪生)
天を見上げ、手元の「聖書」に目を注ぎ ― 2026年01月18日
天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え 夜は夜へ知識を示す。
話しもせず 語りもせず その声も聞こえない。
しかし その光芒は全地に そのことばは世界の果てまで届いた。
詩篇19篇1~4節a
詩篇18篇では、「神の道の完全さ」が歌われていましたが、詩篇19篇では、上記で引用している通り、その「神さまの栄光」が、神さまの被造物を通して明らかにされていることが力強く歌われています。
それだけではありません。詩篇19篇は、「主のおしえ」「主の証し」「主の戒め」「主の仰せ」「主からの恐れ」「主のさばき」のすばらしさ、尊さも歌われています。
主のおしえは完全で たましいを生き返らせ
主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ
主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。
主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。
主のさばきはまことであり ことごとく正しい。
それらは 金よりも 多くの純金よりも慕わしく
蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。 詩篇19篇7~10節
私たちには、すばらしい「神さまの栄光」だけでなく、そのような神さまからの「おしえ」「証し」「戒め」「仰せ」「恐れ」「さばき」が、「聖書」を通して与えられていることを感謝しましょう。
今週も、天を見上げて「神さまの栄光」を確認し、手元の「聖書」に目を注いで、神さまの「おしえ」「証し」「戒め」「仰せ」「恐れ」「さばき」をしっかりと受け止めて日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
昼は昼へ話を伝え 夜は夜へ知識を示す。
話しもせず 語りもせず その声も聞こえない。
しかし その光芒は全地に そのことばは世界の果てまで届いた。
詩篇19篇1~4節a
詩篇18篇では、「神の道の完全さ」が歌われていましたが、詩篇19篇では、上記で引用している通り、その「神さまの栄光」が、神さまの被造物を通して明らかにされていることが力強く歌われています。
それだけではありません。詩篇19篇は、「主のおしえ」「主の証し」「主の戒め」「主の仰せ」「主からの恐れ」「主のさばき」のすばらしさ、尊さも歌われています。
主のおしえは完全で たましいを生き返らせ
主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ
主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。
主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。
主のさばきはまことであり ことごとく正しい。
それらは 金よりも 多くの純金よりも慕わしく
蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。 詩篇19篇7~10節
私たちには、すばらしい「神さまの栄光」だけでなく、そのような神さまからの「おしえ」「証し」「戒め」「仰せ」「恐れ」「さばき」が、「聖書」を通して与えられていることを感謝しましょう。
今週も、天を見上げて「神さまの栄光」を確認し、手元の「聖書」に目を注いで、神さまの「おしえ」「証し」「戒め」「仰せ」「恐れ」「さばき」をしっかりと受け止めて日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
「神 その道は完全」と言える人生 ― 2026年01月17日
神 その道は完全。
主のことばは純粋。
主は すべて主に身を避ける者の盾。
詩篇 18篇30節
詩篇18篇は、50節まである長い詩です。その最初の題目には、次のように書かれています。
指揮者のために。主のしもべダビデによる。主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。
ここに記されている通り、ダビデは、その生涯において様々な敵からの攻撃に遭い、サウル王からの攻撃にも遭いました。そのような日々を重ねながら「すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日」に、この詩篇18篇を歌ったようです。ほぼ同じ内容が、サムエル記第二22章にも記されていますが、そこでの題目の部分はこのように書かれています。
主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。
サムエル記第二 22章1節
詩篇18篇とサムエル記第二22章で強調している内容は、「すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日」です。「救い出された日」に歩んできた日々を振り返った時、ダビデが理解したこと、知ったことは、冒頭で引用した30節のことばでした。
神 その道は完全。
主のことばは純粋。
主は すべて主に身を避ける者の盾。
詩篇 18篇30節
神さまが、私たち一人ひとりに用意してくださる人生という道も、ダビデが歌っている通り「その道は完全」です。今週もそのように関わり、導いてくださる神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
主のことばは純粋。
主は すべて主に身を避ける者の盾。
詩篇 18篇30節
詩篇18篇は、50節まである長い詩です。その最初の題目には、次のように書かれています。
指揮者のために。主のしもべダビデによる。主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。
ここに記されている通り、ダビデは、その生涯において様々な敵からの攻撃に遭い、サウル王からの攻撃にも遭いました。そのような日々を重ねながら「すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日」に、この詩篇18篇を歌ったようです。ほぼ同じ内容が、サムエル記第二22章にも記されていますが、そこでの題目の部分はこのように書かれています。
主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。
サムエル記第二 22章1節
詩篇18篇とサムエル記第二22章で強調している内容は、「すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日」です。「救い出された日」に歩んできた日々を振り返った時、ダビデが理解したこと、知ったことは、冒頭で引用した30節のことばでした。
神 その道は完全。
主のことばは純粋。
主は すべて主に身を避ける者の盾。
詩篇 18篇30節
神さまが、私たち一人ひとりに用意してくださる人生という道も、ダビデが歌っている通り「その道は完全」です。今週もそのように関わり、導いてくださる神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
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