「主のさばき」にゆだねる ― 2025年06月22日
ヨブのことばは終わった。 ヨブ記31章40節b
ヨブ記29章から続いていたヨブのことばは、上記に引用した個所で終わります。そして来週取り上げるヨブ記32章は次のように始まります。
この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと思っていたからである。 ヨブ記32章1節
確かにヨブは、これまで何度も確認してきたようにヨブ記1章で「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ記1章1節)、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記1章8節)」、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記2章3節)と紹介されてきました。
そしてヨブとヨブの友人三人との対話も、振り返るとヨブの「正しさ」を巡るやり取りでした。ヨブは自らのことを「正しい」と語り、ヨブの友人たちは、ヨブのことを「正しくない」と語っていました。例えば、テマン人エリファズは下記のように語りました。「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか」(ヨブ記4章17節)。それに対してヨブは、次のように主張しています。「思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ」(ヨブ記6章29節)。
そしてそのようなヨブとヨブの友人たちの対話を読みながら、私たちもヨブの主張が正しいのか、ヨブの友人たちの主張の方が正しいのかと、「正しさ」について思い巡らすことになります。しかし聖書は、下記のように語ります。
主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり ことごとく正しい 詩篇19篇9節
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 へブル人への手紙9章27節
罪人の私たちが「正しさ」を判断する時、そこに間違い、誤りが生じるからこそ、私たちは、「主のさばき」にゆだね、祈るしかありません。今週も「主の正しいさばき」が行われるように祈りつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記29章から続いていたヨブのことばは、上記に引用した個所で終わります。そして来週取り上げるヨブ記32章は次のように始まります。
この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと思っていたからである。 ヨブ記32章1節
確かにヨブは、これまで何度も確認してきたようにヨブ記1章で「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ記1章1節)、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記1章8節)」、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(ヨブ記2章3節)と紹介されてきました。
そしてヨブとヨブの友人三人との対話も、振り返るとヨブの「正しさ」を巡るやり取りでした。ヨブは自らのことを「正しい」と語り、ヨブの友人たちは、ヨブのことを「正しくない」と語っていました。例えば、テマン人エリファズは下記のように語りました。「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか」(ヨブ記4章17節)。それに対してヨブは、次のように主張しています。「思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ」(ヨブ記6章29節)。
そしてそのようなヨブとヨブの友人たちの対話を読みながら、私たちもヨブの主張が正しいのか、ヨブの友人たちの主張の方が正しいのかと、「正しさ」について思い巡らすことになります。しかし聖書は、下記のように語ります。
主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり ことごとく正しい 詩篇19篇9節
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 へブル人への手紙9章27節
罪人の私たちが「正しさ」を判断する時、そこに間違い、誤りが生じるからこそ、私たちは、「主のさばき」にゆだね、祈るしかありません。今週も「主の正しいさばき」が行われるように祈りつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
神さまと向き合い続ける ― 2025年06月15日
それなのに、今や私は彼らの嘲りの的となり、その笑いぐさとなっている。彼らは私を忌み嫌って遠く離れ、私の顔に向かって情け容赦なく唾を吐きかける。
ヨブ記30章9~10節
ヨブのことばは、ヨブ記30章でも続きます。そこにはヨブの素直で悲痛な叫びが記されています。ヨブ記29章に記されていたヨブのこれまでに続いて、今、まさに神さまの許しの中ではありますが、ヨブが受けている苦しみの日々から生じる痛み、悲しみがヨブ記30章には記されています。
冒頭に引用した個所は、ヨブの悲痛な叫びの一部です。このような今の状況に対して、ヨブ記29章では、まったく違うヨブの経験が記されていました。
私は町の門に出て行き、広場に自分の座る所を設けた。すると、若者たちは私を見て身を引き、年老いた者も起きてまっすぐに立った。首長たちは話すのを控え、手を口に当てた。君主たちの声もひそまり、その舌は上あごについた。
ヨブ記29章7~10節
「広場に自分の座る所」があり、「若者たち」も、「年老いた者」も、ヨブに敬意を表していたにも関わらず、今は、「嘲りの的」「笑いぐさ」「忌み嫌って」「唾を吐きかけられ」という状況です。しかしヨブは、神さまと向き合い続けます。このような状況を呪い、神を呪い、神さまの前から遠く離れていくこともできたでしょうが、ヨブは神さまに向かい、神さまに叫び、神さまに訴え続けます。
私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。 ヨブ記30章20~22節
私たちも、ヨブのように順風の時も、逆境の時も、神さまと向き合い続けたいものです。神さまと向き合うとは、神さまをいつも賛美することではなく、神さまの前に赤裸々な自分を見せ続けることでしょう。
今週も、「時が良くても、悪くても」(テモテへの手紙第二4章2節)神さまと向き合い歩み続けましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記30章9~10節
ヨブのことばは、ヨブ記30章でも続きます。そこにはヨブの素直で悲痛な叫びが記されています。ヨブ記29章に記されていたヨブのこれまでに続いて、今、まさに神さまの許しの中ではありますが、ヨブが受けている苦しみの日々から生じる痛み、悲しみがヨブ記30章には記されています。
冒頭に引用した個所は、ヨブの悲痛な叫びの一部です。このような今の状況に対して、ヨブ記29章では、まったく違うヨブの経験が記されていました。
私は町の門に出て行き、広場に自分の座る所を設けた。すると、若者たちは私を見て身を引き、年老いた者も起きてまっすぐに立った。首長たちは話すのを控え、手を口に当てた。君主たちの声もひそまり、その舌は上あごについた。
ヨブ記29章7~10節
「広場に自分の座る所」があり、「若者たち」も、「年老いた者」も、ヨブに敬意を表していたにも関わらず、今は、「嘲りの的」「笑いぐさ」「忌み嫌って」「唾を吐きかけられ」という状況です。しかしヨブは、神さまと向き合い続けます。このような状況を呪い、神を呪い、神さまの前から遠く離れていくこともできたでしょうが、ヨブは神さまに向かい、神さまに叫び、神さまに訴え続けます。
私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。 ヨブ記30章20~22節
私たちも、ヨブのように順風の時も、逆境の時も、神さまと向き合い続けたいものです。神さまと向き合うとは、神さまをいつも賛美することではなく、神さまの前に赤裸々な自分を見せ続けることでしょう。
今週も、「時が良くても、悪くても」(テモテへの手紙第二4章2節)神さまと向き合い歩み続けましょう。 (吉持日輪生)
神さまに信頼して歩み続ける ― 2025年06月08日
私は義をまとい、義は私をおおった。私の公正さは上着であり、かぶり物であった。
ヨブ記29章14節
ヨブ記29章は、ヨブの発言が続きますが、その内容はヨブの正しさ(義)が紹介されています。ヨブの正しさ(義)について、ヨブ記はヨブについて1章冒頭で「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(1節)と紹介し、さらに神さまのサタンに対することばとしても「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(8節)と表現されています。
そして今回29章では、ヨブの具体的な生きざまが数々紹介されていきます。圧巻なのは以下の個所です。
私は目の見えない人の目となり、足の萎えた人の足となった。私は貧しい人の父となり、見知らぬ人の訴訟を取り上げ、調べてあげた。また不正を働く者の牙を砕き、その歯の間から獲物を奪い返した。
ヨブ記29章15~17節
ヨブの「愛する姿」「隣人愛」を具体的に知ることができることばです。
私たちは、ヨブ記を読み進めながら教えられることは、神さまから見てどんなに「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」と評価されても、またどんなに愛の実践が具体的に隣人になされていても、ヨブのような困難や、苦しみ、悲しみ、批判や、誹謗中傷に直面するということです。因果応報では説明できない出来事、状況に直面することを教えられます。
聖書は別の個所でこのように教えています。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ローマ人への手紙11章36節
どんなにクリスチャンとして真面目に生きていても、悪から遠ざかっていても、また愛の実践を行っていても、神さまの許しの中で困難や、苦しみ、悲しみ、批判や、誹謗中傷に直面しますが、私たちの信仰は必ず「神に至る」という希望です。
今週もどのようなことが起こっても、神さまに信頼して希望をもって歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記29章14節
ヨブ記29章は、ヨブの発言が続きますが、その内容はヨブの正しさ(義)が紹介されています。ヨブの正しさ(義)について、ヨブ記はヨブについて1章冒頭で「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(1節)と紹介し、さらに神さまのサタンに対することばとしても「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」(8節)と表現されています。
そして今回29章では、ヨブの具体的な生きざまが数々紹介されていきます。圧巻なのは以下の個所です。
私は目の見えない人の目となり、足の萎えた人の足となった。私は貧しい人の父となり、見知らぬ人の訴訟を取り上げ、調べてあげた。また不正を働く者の牙を砕き、その歯の間から獲物を奪い返した。
ヨブ記29章15~17節
ヨブの「愛する姿」「隣人愛」を具体的に知ることができることばです。
私たちは、ヨブ記を読み進めながら教えられることは、神さまから見てどんなに「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」と評価されても、またどんなに愛の実践が具体的に隣人になされていても、ヨブのような困難や、苦しみ、悲しみ、批判や、誹謗中傷に直面するということです。因果応報では説明できない出来事、状況に直面することを教えられます。
聖書は別の個所でこのように教えています。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ローマ人への手紙11章36節
どんなにクリスチャンとして真面目に生きていても、悪から遠ざかっていても、また愛の実践を行っていても、神さまの許しの中で困難や、苦しみ、悲しみ、批判や、誹謗中傷に直面しますが、私たちの信仰は必ず「神に至る」という希望です。
今週もどのようなことが起こっても、神さまに信頼して希望をもって歩みましょう。 (吉持日輪生)
「知恵」はどこにあるのか ― 2025年06月01日
こうして、神は人間に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである」と。 ヨブ記28章28節
ヨブ記28章は、ヨブによる「知恵」についてのメッセージが記されています。ヨブ記28章の冒頭で取り上げているのが、「銀の鉱山のこと」「金の精錬のこと」(1節)、そして「鉄や銅の取り出し方」(2節)にも言及しています。さらに鉱石を探すための「縦坑を掘り進むこと」(4節)も記されています。さらに興味をそそるのが5節「地はそこから食物を産み出すが、その下は火のように沸き返っている」とあり、地熱、マグマへの言及と思われる内容もあります。
ヨブ記の執筆年代は、諸説ありますが、一番歴史が浅いものとして考えられる根拠の一つは、エゼキエル書です。エゼキエル書14章14節に「たとえ、そこにノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ──神である主のことば──」とあるため、紀元前6世紀頃に活躍したエゼキエルの時代より前には、ヨブ記が存在していたと考えられます。その時代でも、これだけの知識があったことに驚かされます。しかし、このようなヨブの時代の最新の知識を語りつつ、ヨブが伝えたかったことは、12節「しかし知恵はどこで見つかるのか。悟りがある場所はどこか」でした。
このように問いかけた後、ヨブは、知恵について「生ける者の地」(13節)、「深淵」「海」(14節)でも見つけることができず、「純金」「銀」(15節)、「オフィルの金」「縞めのう」「サファイア」(16節)、「玻璃(はり)」「純金の器」(17節)、「珊瑚」「水晶」「真珠」(18節)、「クシュのトパーズ」(19節)をもってしても得られないと語ります。
そして20節では「では、知恵はどこから来るのか」と問いかけます。その問いの答えが、冒頭で引用した28節につながります。ソロモンが記した箴言に、似たようなことばが記されています。「主を恐れることは知識の初め」(箴言1章7節前半)、「自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ」(箴言3章7節)、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである」(箴言9章10節)、「主を恐れることは知恵の訓戒」(箴言15章33節前半)。
ソロモンにも通じるヨブ記の知恵のことばを思い出しつつ、私たちも今週「主を恐れ、悪から遠ざかり」日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記28章は、ヨブによる「知恵」についてのメッセージが記されています。ヨブ記28章の冒頭で取り上げているのが、「銀の鉱山のこと」「金の精錬のこと」(1節)、そして「鉄や銅の取り出し方」(2節)にも言及しています。さらに鉱石を探すための「縦坑を掘り進むこと」(4節)も記されています。さらに興味をそそるのが5節「地はそこから食物を産み出すが、その下は火のように沸き返っている」とあり、地熱、マグマへの言及と思われる内容もあります。
ヨブ記の執筆年代は、諸説ありますが、一番歴史が浅いものとして考えられる根拠の一つは、エゼキエル書です。エゼキエル書14章14節に「たとえ、そこにノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ──神である主のことば──」とあるため、紀元前6世紀頃に活躍したエゼキエルの時代より前には、ヨブ記が存在していたと考えられます。その時代でも、これだけの知識があったことに驚かされます。しかし、このようなヨブの時代の最新の知識を語りつつ、ヨブが伝えたかったことは、12節「しかし知恵はどこで見つかるのか。悟りがある場所はどこか」でした。
このように問いかけた後、ヨブは、知恵について「生ける者の地」(13節)、「深淵」「海」(14節)でも見つけることができず、「純金」「銀」(15節)、「オフィルの金」「縞めのう」「サファイア」(16節)、「玻璃(はり)」「純金の器」(17節)、「珊瑚」「水晶」「真珠」(18節)、「クシュのトパーズ」(19節)をもってしても得られないと語ります。
そして20節では「では、知恵はどこから来るのか」と問いかけます。その問いの答えが、冒頭で引用した28節につながります。ソロモンが記した箴言に、似たようなことばが記されています。「主を恐れることは知識の初め」(箴言1章7節前半)、「自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ」(箴言3章7節)、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである」(箴言9章10節)、「主を恐れることは知恵の訓戒」(箴言15章33節前半)。
ソロモンにも通じるヨブ記の知恵のことばを思い出しつつ、私たちも今週「主を恐れ、悪から遠ざかり」日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
偏ることなく、感情的になることなく ― 2025年05月25日
私は、私の権利を取り去った神にかけて誓う。
私のたましいを苦しめた全能者にかけて。
私の息が私のうちにあり、 神の霊が私の鼻にあるかぎり、
私の唇は決して不正を言わず、 私の舌は決して欺くことを語らない。
ヨブ記27章2~4節
ヨブに対して語られ続けたヨブの友人たちの発言の感情的なピークは、ヨブ記22章でした。ヨブは、友人テマン人エリファズから「あなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がない」(ヨブ記22章5節)と語られます。一方、このような発言に対するヨブの反論と感情的なピークは、今回のヨブ記27章の冒頭で引用した個所のように思います。
ヨブの友人テマン人エリファズがヨブに対して「あなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がない」(ヨブ記22章5節)と語ることも偏っていますが、ヨブ自身が「私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない」と語るのも偏っています。
このようなヨブとヨブの友人たちとのやり取りから見えてくることは、人間は本当に偏りやすい生き物だということと、もう一つは隣人からの感情的なことばに、感情的に応えてしまう生き物だということです。このように偏りやすく、感情的になりやすい私たちに聖書は、次のように語ります。
私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。…
ローマ人への手紙3章9~10節(抜粋)
このように神さまの前では「すべての人が罪の下」にあり、その点において神さまの前ではみな平等なのです。しかし聖書は、神さまの前で皆が罪人として平等であることを語るだけではありません。下記のようにも教えています。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
ローマ人への手紙3章22節
神さまの前で差別なく区別なく「イエス・キリストを信じる全ての人に神の義が与えられる」のです。今週も、みことばに親しみ、偏ることなく、また感情的になることなく、イエス・キリストを信じつつ平安な日々を歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
私のたましいを苦しめた全能者にかけて。
私の息が私のうちにあり、 神の霊が私の鼻にあるかぎり、
私の唇は決して不正を言わず、 私の舌は決して欺くことを語らない。
ヨブ記27章2~4節
ヨブに対して語られ続けたヨブの友人たちの発言の感情的なピークは、ヨブ記22章でした。ヨブは、友人テマン人エリファズから「あなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がない」(ヨブ記22章5節)と語られます。一方、このような発言に対するヨブの反論と感情的なピークは、今回のヨブ記27章の冒頭で引用した個所のように思います。
ヨブの友人テマン人エリファズがヨブに対して「あなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がない」(ヨブ記22章5節)と語ることも偏っていますが、ヨブ自身が「私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない」と語るのも偏っています。
このようなヨブとヨブの友人たちとのやり取りから見えてくることは、人間は本当に偏りやすい生き物だということと、もう一つは隣人からの感情的なことばに、感情的に応えてしまう生き物だということです。このように偏りやすく、感情的になりやすい私たちに聖書は、次のように語ります。
私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。…
ローマ人への手紙3章9~10節(抜粋)
このように神さまの前では「すべての人が罪の下」にあり、その点において神さまの前ではみな平等なのです。しかし聖書は、神さまの前で皆が罪人として平等であることを語るだけではありません。下記のようにも教えています。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
ローマ人への手紙3章22節
神さまの前で差別なく区別なく「イエス・キリストを信じる全ての人に神の義が与えられる」のです。今週も、みことばに親しみ、偏ることなく、また感情的になることなく、イエス・キリストを信じつつ平安な日々を歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
神さまのささやき ― 2025年05月18日
見よ、これらは神のみわざの外側にすぎない。私たちは神についてささやきしか聞いていない。御力を示す雷を、だれが理解できるだろうか。
ヨブ記26章14節
ヨブ記26章は、ヨブの返答が記されていますが、ヨブ記25章のシュアハ人ビルダデの3回目の発言と同様、短い節数となっています。しかしヨブ記は26章~31章までヨブの発言が続きます。ヨブとヨブの友人三人とのやり取りは、ヨブ記3章のヨブの発言から始まり、テマン人エリファズがヨブ記4章、ヨブ記15章、ヨブ記22章と発言し、シュアハ人ビルダデは、ヨブ記8章、ヨブ記18章、ヨブ記25章と発言し、ナアマ人ツォファルは、ヨブ記11章、ヨブ記20章で発言しています。結局3人のヨブの友人たちのことばは、ヨブを説得することができず、ヨブの発言を止めることもできませんでした。その結果、ヨブの発言が26章から31章まで続くことになります。
ヨブ自身もこのように語っていました。
それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実でしかない。
ヨブ記21章34節
ヨブが神さまの許可のもとサタンから受けた苦しみは、人のことばでは癒されず、慰められませんでした。ヨブ記を読み進めつつ、私たちは人のことばの空しさを痛感させられます。そしてその一方で、神のことばの力強さ、確かさ、希望の豊かさを教えられます。
ヨブ記の次の詩篇にはこのようなことばが記されています。
主のおしえは完全で たましいを生き返らせ
主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ
主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。
詩篇19篇7~8節
冒頭で引用したヨブのことばの中に「私たちは神についてささやきしか聞いていない」とありますが、「神さまのささやき」であっても、それは人のことばとは比べものにならないくらいに力強く、慰め、励まし、癒しに満ちています。今週も「神さまのことば」である聖書に親しみつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記26章14節
ヨブ記26章は、ヨブの返答が記されていますが、ヨブ記25章のシュアハ人ビルダデの3回目の発言と同様、短い節数となっています。しかしヨブ記は26章~31章までヨブの発言が続きます。ヨブとヨブの友人三人とのやり取りは、ヨブ記3章のヨブの発言から始まり、テマン人エリファズがヨブ記4章、ヨブ記15章、ヨブ記22章と発言し、シュアハ人ビルダデは、ヨブ記8章、ヨブ記18章、ヨブ記25章と発言し、ナアマ人ツォファルは、ヨブ記11章、ヨブ記20章で発言しています。結局3人のヨブの友人たちのことばは、ヨブを説得することができず、ヨブの発言を止めることもできませんでした。その結果、ヨブの発言が26章から31章まで続くことになります。
ヨブ自身もこのように語っていました。
それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実でしかない。
ヨブ記21章34節
ヨブが神さまの許可のもとサタンから受けた苦しみは、人のことばでは癒されず、慰められませんでした。ヨブ記を読み進めつつ、私たちは人のことばの空しさを痛感させられます。そしてその一方で、神のことばの力強さ、確かさ、希望の豊かさを教えられます。
ヨブ記の次の詩篇にはこのようなことばが記されています。
主のおしえは完全で たましいを生き返らせ
主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ
主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。
詩篇19篇7~8節
冒頭で引用したヨブのことばの中に「私たちは神についてささやきしか聞いていない」とありますが、「神さまのささやき」であっても、それは人のことばとは比べものにならないくらいに力強く、慰め、励まし、癒しに満ちています。今週も「神さまのことば」である聖書に親しみつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
聖書の神観、人間観 ― 2025年05月11日
主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。
ヨブ記25章2節
まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。
ヨブ記25章6節
ヨブ記25章は、シュアハ人ビルダデの3回目の発言となります。その発言量は、冒頭で引用した25章2節~25章6節までと、とても短いものです。しかしその短いビルダデの発言から、彼の持っている「神観」「人間観」が見えてきます。
まずビルダデが持っていた神観ですが、冒頭で引用した25章2節の後半で「神はその高い所で平和をつくられる」とあるように、「神さまは、高いところにおられる」という神観です。またビルダデの人間観は、冒頭で引用している25章6節に表れていて「うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子」のところです。彼の人間観は、「うじ虫」「虫けら」と書いてあるように、全く人間を評価していません。
では聖書が教えている、聖書の神さまが教えている「神観」「人間観」とはどのようなものでしょうか。
彼らは思い出した。神が自分たちの岩であり いと高き神が自分たちを贖う方であることを。
詩篇78篇35節
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。
へブル人への手紙1章3節
このように神さまは高いところにおられるお方ですが、私たちと関わってくださり、私たちを贖い、罪からきよめ、とりなしていてくださいます。ビルダデは、部分的にはあっているのですが、高いところにおられる神さまが、低いところにいる人間と関わってくださること、また関わってくださるだけでなく、神さまにとって大切なひとり子を、私たちのためにこの世に送ってくださり、そのひとり子の十字架の贖いによって、罪をきよめ、神さまとの親しい交わり、永遠の交わりに加えてくださったところまでは理解できていませんでした。神さまが、私たちに「聖書」を与えてくださっていることを感謝しつつ、今週も、私たちのような者と親しくかかわってくださる神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記25章2節
まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。
ヨブ記25章6節
ヨブ記25章は、シュアハ人ビルダデの3回目の発言となります。その発言量は、冒頭で引用した25章2節~25章6節までと、とても短いものです。しかしその短いビルダデの発言から、彼の持っている「神観」「人間観」が見えてきます。
まずビルダデが持っていた神観ですが、冒頭で引用した25章2節の後半で「神はその高い所で平和をつくられる」とあるように、「神さまは、高いところにおられる」という神観です。またビルダデの人間観は、冒頭で引用している25章6節に表れていて「うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子」のところです。彼の人間観は、「うじ虫」「虫けら」と書いてあるように、全く人間を評価していません。
では聖書が教えている、聖書の神さまが教えている「神観」「人間観」とはどのようなものでしょうか。
彼らは思い出した。神が自分たちの岩であり いと高き神が自分たちを贖う方であることを。
詩篇78篇35節
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。
へブル人への手紙1章3節
このように神さまは高いところにおられるお方ですが、私たちと関わってくださり、私たちを贖い、罪からきよめ、とりなしていてくださいます。ビルダデは、部分的にはあっているのですが、高いところにおられる神さまが、低いところにいる人間と関わってくださること、また関わってくださるだけでなく、神さまにとって大切なひとり子を、私たちのためにこの世に送ってくださり、そのひとり子の十字架の贖いによって、罪をきよめ、神さまとの親しい交わり、永遠の交わりに加えてくださったところまでは理解できていませんでした。神さまが、私たちに「聖書」を与えてくださっていることを感謝しつつ、今週も、私たちのような者と親しくかかわってくださる神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
闇でなく光の中を歩む ― 2025年05月04日
これらの者は光に背く者。光の道を認めず、光の通り道にとどまろうとしない。
ヨブ記24章13節
ヨブ記24章も、23章に引き続きヨブの発言が続きます。ヨブ記24章を「ともに聴く聖書アプリ」を用いて繰り返し聞きながら、ヨブ記23章が「光」とすれば、ヨブ記24章は「闇」だと感じました。先週の「恵泉」で取り扱ったように、ヨブ記23章ではヨブの特徴である「直ぐな心」について取り上げ、「赤裸々な」「包み隠さない」心のことだと書きました。
それに対してヨブ記24章は、様々な悪が記されています。「地境を動かし」「群れを奪って」(2節)、「みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り」(3節)、「貧しい者たちを道から押しのけ、地の苦しむ者たちは、すっかりおおい隠される」(4節)、「着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中でも身をおおう物がない」(7節)、「ずぶれになり、避け所もなく、岩を抱く」(8節)、「みなしごは乳房から引き離され、貧しい者が持つ物は質に取られる」(9節)など、悲惨な状況、闇の出来事が記されています。
ヨブ記24章前半に記されているこのような悪を行う人たちについて、16節以降ではそれらの人たちのことを「彼」と表現しています。「彼は暗くなってから家々に侵入する」(16節)、「朝はことごとく、彼のような者には暗黒である。彼は暗黒の恐怖と親しいからだ」(17節)、「彼は、子を産まない不妊の女を食いものにし、やもめに良くしない」(21節)などと記されています。まさに冒頭で引用した通りです。「これらの者は光に背く者。光の道を認めず、光の通り道にとどまろうとしない」(13節)人たちです。このように光にとどまろうとしない、またとどまれない私たちのために神さまは、イエスさまを与えてくださいました。
そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。」
ヨハネの福音書12章35節
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一1章7節
今週も、光の中を共に歩み、共に進みましょう。(吉持日輪生)
ヨブ記24章13節
ヨブ記24章も、23章に引き続きヨブの発言が続きます。ヨブ記24章を「ともに聴く聖書アプリ」を用いて繰り返し聞きながら、ヨブ記23章が「光」とすれば、ヨブ記24章は「闇」だと感じました。先週の「恵泉」で取り扱ったように、ヨブ記23章ではヨブの特徴である「直ぐな心」について取り上げ、「赤裸々な」「包み隠さない」心のことだと書きました。
それに対してヨブ記24章は、様々な悪が記されています。「地境を動かし」「群れを奪って」(2節)、「みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り」(3節)、「貧しい者たちを道から押しのけ、地の苦しむ者たちは、すっかりおおい隠される」(4節)、「着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中でも身をおおう物がない」(7節)、「ずぶれになり、避け所もなく、岩を抱く」(8節)、「みなしごは乳房から引き離され、貧しい者が持つ物は質に取られる」(9節)など、悲惨な状況、闇の出来事が記されています。
ヨブ記24章前半に記されているこのような悪を行う人たちについて、16節以降ではそれらの人たちのことを「彼」と表現しています。「彼は暗くなってから家々に侵入する」(16節)、「朝はことごとく、彼のような者には暗黒である。彼は暗黒の恐怖と親しいからだ」(17節)、「彼は、子を産まない不妊の女を食いものにし、やもめに良くしない」(21節)などと記されています。まさに冒頭で引用した通りです。「これらの者は光に背く者。光の道を認めず、光の通り道にとどまろうとしない」(13節)人たちです。このように光にとどまろうとしない、またとどまれない私たちのために神さまは、イエスさまを与えてくださいました。
そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。」
ヨハネの福音書12章35節
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一1章7節
今週も、光の中を共に歩み、共に進みましょう。(吉持日輪生)
直ぐな心をもって歩もう ― 2025年04月27日
そこでは正直な人が神と論じ合うことができ、私は、とこしえにさばきを免れるだろう。 ヨブ記23章7節
今回は、冒頭引用個所の「正直な」ということばに注目したいと思います。この「正直な」と訳されているヘブル語は、ヨブ記にとってキーワードとなる大切なことばです。
例えば「この人(ヨブ)は誠実で直ぐな心を持ち」(ヨブ記1章1節)の「直ぐな心」、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記1章8節)、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記2章3節)は、神さまがサタンとのやり取りの中で、ヨブに対して使った表現です。それが「直ぐな心」ということばで、冒頭引用個所の「正直な」と同じヘブル語です。
そして私たちは、ヨブ記を読み進めながら、ヨブの「直ぐな心」に触れ続けることができ、さらにヨブの発言を通して、神さまが語られる「直ぐな心」を具体的に知ることができます。みなさんは、ここまでのヨブの「直ぐな心」からの発言に触れ、どのような印象を持たれているでしょうか。私は、ここまで読み進めながら、ヨブの発言にふさわしいことばを探すと「穏やかさ」「冷静さ」ではなく、「赤裸々な」「包み隠さず」ということばが頭に浮かびます。
つまり神さまが語る「直ぐな心」「正直さ」とは、自分の中にある思いを赤裸々に、包み隠さず投げかけることを意味しているのかもしれません。そのように考えると、詩篇に記されている「祈り」にも、またサムエル記第二12章のダビデ王の姿や、またゲツセマネでのイエスさまの祈りにも通じるものを感じます。
まさにヨブが、冒頭引用個所で語っている通り「正直な人が神と論じ合うことができ」るのです。
私たちも、神さまの前では取り繕うことなく、「赤裸々な」「包み隠さず」、自分の思いをぶつける時、神さまと論じ合うことができ、神さまもそういう私たちのことを「直ぐな心」と認めてくださるのでしょう。
今週も、神さまの前に「直ぐな心」をもって、日々歩みましょう。(吉持日輪生)
今回は、冒頭引用個所の「正直な」ということばに注目したいと思います。この「正直な」と訳されているヘブル語は、ヨブ記にとってキーワードとなる大切なことばです。
例えば「この人(ヨブ)は誠実で直ぐな心を持ち」(ヨブ記1章1節)の「直ぐな心」、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記1章8節)、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記2章3節)は、神さまがサタンとのやり取りの中で、ヨブに対して使った表現です。それが「直ぐな心」ということばで、冒頭引用個所の「正直な」と同じヘブル語です。
そして私たちは、ヨブ記を読み進めながら、ヨブの「直ぐな心」に触れ続けることができ、さらにヨブの発言を通して、神さまが語られる「直ぐな心」を具体的に知ることができます。みなさんは、ここまでのヨブの「直ぐな心」からの発言に触れ、どのような印象を持たれているでしょうか。私は、ここまで読み進めながら、ヨブの発言にふさわしいことばを探すと「穏やかさ」「冷静さ」ではなく、「赤裸々な」「包み隠さず」ということばが頭に浮かびます。
つまり神さまが語る「直ぐな心」「正直さ」とは、自分の中にある思いを赤裸々に、包み隠さず投げかけることを意味しているのかもしれません。そのように考えると、詩篇に記されている「祈り」にも、またサムエル記第二12章のダビデ王の姿や、またゲツセマネでのイエスさまの祈りにも通じるものを感じます。
まさにヨブが、冒頭引用個所で語っている通り「正直な人が神と論じ合うことができ」るのです。
私たちも、神さまの前では取り繕うことなく、「赤裸々な」「包み隠さず」、自分の思いをぶつける時、神さまと論じ合うことができ、神さまもそういう私たちのことを「直ぐな心」と認めてくださるのでしょう。
今週も、神さまの前に「直ぐな心」をもって、日々歩みましょう。(吉持日輪生)
神さまについて確かなことを語ろう ― 2025年04月20日
さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ。そうすれば幸いがあなたのところに来るだろう。神の口からみおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。もし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。自分の天幕から不正を遠ざけるなら。
ヨブ記22章21~23節
ヨブ記22章は、ヨブ記21章のヨブの少し混乱した発言を受けて、ヨブの友人テマン人エリファズが答えていますが、その内容もかなり感情的になっています。
人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。
ヨブ記22章2~3節
いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。あなたは理由もなく兄弟から質物を取り、着ている物をはぎ取って裸にし、疲れている人に水を飲ませず、飢えている人に食物を拒んだからだ。(中略)あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った。そのため罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。 ヨブ記22章5~10節(抜粋)
このテマン人エリファズの発言が正しければ、ヨブはかなりの悪人ですが、このようなヨブの友人の発言に対して、下記のようにヨブ記に記されています。
主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。
ヨブ記42章7節
テマン人エリファズと二人の友人たちに、主(神さま)は、「わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった」と責めておられます。「神さまについて確かなことを語っていない」エリファズですので、恐らくヨブ記22章のヨブに対する指摘も不正確な情報なのだろうと考えます。私たちには、テマン人エリファズの時代にはなかった神のことばとしての「聖書」がありますので、「聖書」を通して「神さまについて確かなことを語れる者」として歩みましょう。
(吉持日輪生)
ヨブ記22章21~23節
ヨブ記22章は、ヨブ記21章のヨブの少し混乱した発言を受けて、ヨブの友人テマン人エリファズが答えていますが、その内容もかなり感情的になっています。
人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。
ヨブ記22章2~3節
いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。あなたは理由もなく兄弟から質物を取り、着ている物をはぎ取って裸にし、疲れている人に水を飲ませず、飢えている人に食物を拒んだからだ。(中略)あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った。そのため罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。 ヨブ記22章5~10節(抜粋)
このテマン人エリファズの発言が正しければ、ヨブはかなりの悪人ですが、このようなヨブの友人の発言に対して、下記のようにヨブ記に記されています。
主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。
ヨブ記42章7節
テマン人エリファズと二人の友人たちに、主(神さま)は、「わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった」と責めておられます。「神さまについて確かなことを語っていない」エリファズですので、恐らくヨブ記22章のヨブに対する指摘も不正確な情報なのだろうと考えます。私たちには、テマン人エリファズの時代にはなかった神のことばとしての「聖書」がありますので、「聖書」を通して「神さまについて確かなことを語れる者」として歩みましょう。
(吉持日輪生)
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