様々な「ささげ物」2024年02月11日

そこで、彼らは中に入り、ヒゼキヤ王のところに行って言った。「私たちは主の宮をすべてきよめました。全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、並べ供えるパンの机とそのすべての備品をきよめました。       
                      歴代誌第二29章18節

 「主の宮」の修理が完了した後、ヒゼキヤ王は様々ないけにえを献げています。その「ささげ物」の名前に注目しましょう。
 まず最初に登場するのが「罪のきよめのささげ物」(21節)。その後は「全焼のささげ物」(24節)、「感謝のささげ物」(31節)、「聖なるささげ物」(33節)、「交わりのいけにえ」(35節)となっています。それぞれの「ささげ物」についての詳細はここでは触れませんが、その「ささげ物」の名称から救い主イエスさまの姿を想起することができます。
 まず「罪のきよめのささげ物」ですが、イエスさまは、私たちの罪をきよめるために十字架に架かって死なれ、よみがってくださいました。「全焼のささげ物」は、イエスさまご自身が、ご自分の身体も、ご自身の命も全て私たちのために与え尽くしてくださったことを想起させてくれます。そして「感謝のささげ物」は、イエスさまの十字架により私たちが、ただただ神さまの恵み、神さまのあわれみによって救われていることを思い起こさせてくれます。「聖なるささげ物」からは、イエスさまの「聖さ」を思い出します。そして最後の「交わりのいけにえ」は、イエスさまの十字架による神さまと私たちの関係の回復、交わりの回復を思い出させてくれます。
 旧約聖書の時代の人たちは、イエスさまを見ることはできませんでしたし、イエスさまの教えを聞くこともできませんでした。しかし、神さまに礼拝をお献げする時の様々な「ささげ物」を通して、救い主イエスさまの姿に触れ続けていたのでしょう。

まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。   
                     マタイの福音書13章17節 

 私たちも礼拝を献げながら、またみことばに日々触れながら、私たちの救い主イエスさまのことを思い出しつつ、イエスさまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)

罪は盲目2024年02月04日

アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、主の目にかなうことを行わず、イスラエルの王たちの道に歩み、そのうえ、バアルの神々のために鋳物の像を造った。
                歴代誌第二28章1~2節

 上記聖書箇所にある通り、南王国(ユダ)のアハズ王は、主の目にかなうことを行わず、北王国(イスラエル)の王たちと同じ道を歩んだことが記されています。これまでの図式は、北王国(イスラエル)は、主の目にかなうことを行わず、南王国(ユダ)はなんとか主の目にかなうことを貫いてきたという流れでした。しかしこのアハズ王の時代は北王国(イスラエル)も、南王国(ユダ)も主の目にかなうことを行わない状況になっていました。

 そのような状態の影響が、下記にも記されています。

そこには主の預言者で、その名をオデデという者がいた。この人はサマリア(北王国イスラエルの中心)に入って来た軍隊の前に進み出て言った。「見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダ(南王国)に対して憤られたため、主はあなたがた(北王国)の手に彼ら(南王国)を渡された。ところが、あなたがた(北王国)は天に届くほどの激しい怒りをもって彼ら(南王国)を殺した。今、あなたがた(北王国)はユダとエルサレムの人々を従わせて、自分たちの男女の奴隷にしようとしている。ただ、あなたがた(北王国)自身も、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。
                    歴代誌第二28章9~10節

 このように北王国(イスラエル)も、南王国(ユダ)も神さまの激しい怒りの対象になっています。しかしその罪の影響は、自分がどれだけ主に対して罪過があるのかもわからなくしています。「愛は盲目」ということばがありますが、「罪」も自分の罪深さを見えなくさせてしまうのです。
 だからこそ今週も、イエスさまに私たちの霊的な目を見えるようにしていただき、見るべきものをしっかりと見て、主と共に歩みましょう。  
                           (吉持日輪生)

私たちがすべきこと、担わされていること2024年01月28日

彼(ヨタム王)は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。ただし、主の神殿に入ることはしなかった。民は依然として滅びに向かっていた。                      歴代誌第二 27章2節

 上記聖書箇所最後の「民は依然として滅びに向かっていた」が、とても心を騒がせます。しかしこのような状況の中で、ヨタム王がしたことは、次のようなものでした。

彼(ヨタム王)は主の宮の上の門を建てた。また、オフェルの城壁の上に多くのものを建てた。彼はユダの山地に町々を建て、森林地帯には城塞とやぐらを築いた。                      歴代誌第二 27章3~4節

 「民が依然として滅びに向かっている」にもかかわらず、ヨタム王は「主の宮の上の門を建て」「オフェルの城壁の上に多くのものを建て」「ユダの山地に町々を建て」「森林地帯には城塞とやぐらを築いた」とあります。「依然として滅びに向かっている」状況とのギャップを感じます。
 ヨタム王は、このような状況の中にあって、王としてもっと霊的なこと、信仰的なことに取り組むべきだったのではないでしょうか。しかしヨタム王、父ウジヤ王が神殿でツァラアトになったこと(歴代誌第二26章16~19節)が影響しているのか、冒頭引用箇所にある通り「主の神殿に入ることはしなかった」とあります。神さまに信頼し、神さまに聞くことはせず、「建物」「城塞」「やぐら」を建てることで、民を守ろうとしたのでしょうが、このヨタム王の行動は、まさに的外れでした。
 しかし、このような状況は過去だけのことではありません。私たちが置かれている状況も同じです。イエス・キリストの救いを受け入れなければ、「依然として滅びに向かっている」私たちであるにもかかわらず、私たちのまわりの政治家が考えることは、経済を豊かにすること、軍事力を上げることばかりです。
 だからこそ神さまは、私たちキリスト者を「イエス・キリストが身をもって成し遂げてくださった救い」を届けるために、「地の塩」「世の光」としてこの世に存在させておられるのです。
 今週も、私たちが「依然として滅びに向かっている」ことを自覚し、聖書が語る「福音」を一人ひとりのところに、伝わるように、わかるようにお届けしていきましょう。                       (吉持日輪生)

神を認めることを教える2024年01月21日

神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた。 
                    歴代誌第二 26章5節

 上記聖書箇所に「神を認めることを教えたゼカリヤ」と記されているところの「ゼカリヤ」ですが、誰でしょうか。旧約聖書の一つに「ゼカリヤ書」がありますが、その「ゼカリヤ」なのでしょうか。私の手元にある聖書辞典を開けると、なんと旧約聖書には31人もの「ゼカリヤ」が登場するようです。つまり旧約聖書には、様々な「ゼカリヤ」が登場しているということです。このように当時よく使われていた「ゼカリヤ」ですが、その名前の意味を調べると、「主は覚えてくださる」という意味のようです。子どもに「ゼカリヤ(主は覚えてくださる)」と名づけ、自分の子どものことを、またその時代のことを「主は覚えてくださる」と信じたのでしょう。
 さてウジヤ王の時代に「神を認めることを教えたゼカリヤ」ですが、聖書には何も詳細については記されていません。ですからこのゼカリヤが、ウジヤ王にどのようにして「神を認めること」を教えたのかなどを知ることができません。しかし、かすかに想像することができる手がかりが一つあります。それは「認める」と訳されているヘブル語です。この同じヘブル語は、実は創世記1章に7回使われています。その使われ方は、「(良しと)見られた」(4、10、12、18、21、25、31節)と訳されています。つまり「神を認めることを教えた」とは、「神を見ることを教えた」と言い換えることもできるのです。
 ここで注目し、確認しなければならないことは、ゼカリヤはウジヤ王に「神を信じるように教えた」のではなかったということです。ゼカリヤは、ウジヤ王に「神さまを見ることを教え」「神さまを認めることを教え」たのです。そしてウジヤ王は、「神を求めた」と聖書は記しています。
 これは、私たちの伝道にも参考になります。私たちクリスチャンにできることは、家族、友人、知人に、神さまを見ることできるように指し示し、神さまを認めることができるように証しし、神さまを求めることができるように導くことです。今週も、神さまを指し示し、証しし、神さまの元に共に導いていきましょう。
                               (吉持日輪生)

「全き心」とは2024年01月14日

彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。
                           歴代誌第二25章2節

 歴代誌第二25章では、ヨアシュ王の子アマツヤのことが紹介されています。今回は、登場人物であるアマツヤ王ではなく、冒頭引用箇所で使われている「全き心」ということばに注目したいと思います。

① 「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。
                  列王記第二20章3節

② わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
                         歴代誌第一28章9節

③ 民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。
                         歴代誌第一29章9節

 ①では「全き心」が「真実」と一緒に使われ、②では「喜び」と共に使われ、③では「自ら進んで」と共に使われています。「全き心」とは、「真実な心」であり、「喜びのある心」であり、「自主的な心」と重なるものなのでしょう。また「全き」と訳されているヘブル語の意味を調べると「完全な、安らかな、安全な」と紹介されています。つまり「全き心」とは、「完全な心」「安らかな心」「安全な心」とも言えます。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。              
                         ヨハネの福音書14章27節

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。 
                         ヨハネの福音書16章33節

 イエスさまが与えてくださる「平安」の心、「全き心」をもって今週も歩みましょう。   (吉持日輪生)

神さまの御怒りは恵み2024年01月07日

① ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行った。
                         歴代誌第二24章2節
② その後のことであった。ヨアシュは主の宮を新しくすることを志し、
                         歴代誌第二24章4節
③ そこで王は、かしらであるエホヤダを呼んで、彼に言った。「なぜあなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの会衆があかしの天幕のために定めた税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。」それは、悪女アタルヤとその子らが、神の宮に押し入り、主の宮の聖なるものをすべてバアルの神々のために用いていたからである。      歴代誌第二24章6~7節

 ①の聖書箇所にある通り、祭司エホヤダが生きている間、ヨアシュ王は主の目にかなうことを行いました。「主の目にかなうこと」の一つが②に引用している「主の宮を新しくする」計画でした。しかし、その計画を進めていく中で、祭司エホヤダの課題が見えてきます。それが③です。なんと「悪女アタルヤとその子らが、神の宮に押し入り、主の宮の聖なるものをすべてバアルの神々のために用いていた」にもかかわらず、祭司エホヤダはそれを止めることも、また神の宮から追い出すこともできていなかったのです。
 しかし、そのような弱さのある祭司エホヤダでしたが、彼の死後、ヨアシュ王は、神さまの望まれる道から大きく逸れて行きます。

エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。
                       歴代誌第二24章17~18節

 罪を犯してしまったアダムとエバの子孫としての「人」の罪深さを覚えると共に、そのような私たちに「御怒り」を現わしてくださる神さまの恵みを感じます。なぜなら神さまの「御怒り」に直面し、私たちは悔い改めに導かれるからです。今週も、神さまの「御怒り」に速やかに悔い改めをもって応えましょう。   (吉持日輪生)

祭司エホヤダの役割2023年12月31日

彼らは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、さとしの書を渡して、彼を王と宣言した。そしてエホヤダとその子たちが彼に油を注いで、「王様万歳」と叫んだ。
                          歴代誌第二23章11節

 冒頭引用箇所に「王の子」の名前が記されていませんが、先週取り扱った歴代誌第二22章に次のように記されています。

しかし、王の娘エホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。祭司エホヤダの妻でアハズヤの妹である、ヨラム王の娘エホシェバが、ヨアシュをアタルヤから隠したので、アタルヤは彼を殺せなかった。
                         歴代誌第二22章11節

 ここに「アハズヤ(王)の子ヨアシュ」と紹介されている通り、冒頭引用箇所の「王の子」とは「ヨアシュ」のことです。隠して育てられていたヨアシュに油を注いだのが祭司エホヤダでした。この祭司エホヤダは、歴代誌第二22章11節にある通り、アハズヤ王の妹を妻としていたようです。
 祭司エホヤダは、アハズヤ王の死後、政権を担っていたアハズヤ王の母アタルヤの政治を覆したのですが、そこには次のような理由がありました。

全会衆は神の宮で王と契約を結んだ。エホヤダは彼らに言った。「見よ。主がダビデの子孫について約束されたとおり、王の子が王となる。…」
                          歴代誌第二23章3節

 つまり祭司エホヤダは、王の子ではないアハズヤ王の母アタルヤが民を治めていることに対して、神さまが約束されている状況に戻す役割を、祭司として担ったのです。
 今、キリストのからだなる「教会」にも同じような祭司的な役割が担わされています。教会に連なる私たちは、神さまに似せて造られた一人ひとりが、神さまの創造の目的にかなった歩みができるように、修正し導いていく働き、役割が与えられています。
 今週も、また新しい年2024年も、そのような役割をしっかり担う教会として歩むことができるように神さまに共に祈り求めましょう。     (吉持日輪生)

誰から助言をいただくか?2023年12月24日

エルサレムの住民は、彼の末子アハズヤを彼の代わりに王とした。アラビア人とともに陣営に攻めて来た略奪隊が、年長の子らをすべて殺してしまったからである。こうしてユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。アハズヤは四十二歳で王となり、エルサレムで一年間、王であった。彼の母の名はアタルヤといい、オムリの孫娘であった。                   
                     歴代誌第二22章1~2節

 ユダ(南王国)の王ヨラムの子アハズヤのことが、ここでは取り上げられています。ただ前回の歴代誌第二21章と同様に、ここでも女性の役割の大切さを教えられます。
 冒頭引用箇所の最後に「彼(アハズヤ)の母の名はアタルヤといい、オムリの孫娘であった」と記されています。つまりアハズヤ王の母アタルヤこそ、前回取り上げた歴代誌第二21章6節に記されていた「アハブの娘が彼(ヨラム、アハズヤの父)の妻だった」と重なります。さらに「アハブの娘」が「アタルヤ」となると、旧約聖書に登場する悪女として有名な「イゼベル」は「アハブの妻」ですから、「アタルヤはイゼベルの娘」ということです。つまりアハズヤの祖母はイゼベルで、そして母がアタルヤで、その影響を受けたのがアハズヤでした。そのアハズヤについて聖書はこのように記しています。

彼(アハズヤ)もまた、アハブの家の道に歩んだ。彼の母(アタルヤ)が助言者となり、悪を行わせたのである。彼はアハブの家に倣って主の目に悪であることを行った。父の死後、アハブの家の者が助言者となり、彼を滅びに至らせたのである。    
                         歴代誌第二22章3~4節

 イゼベルの娘であるアタルヤの助言、そしてアハブの家の者の助言により、アハズヤは滅びに至らされたのです。
 このことから私たちも誰から助言をいただくかの大切さを教えられます。クリスマスに覚えるイエスさまは、イザヤ書9章6節で「不思議な助言者」と紹介されています。クリスマスの日に、改めて「不思議な助言者」であるイエスさまから助言をいただきながら歩むことの大切さを覚え、「不思議な助言者」イエスさまから助言をいただくことを始めましょう。
 クリスマスおめでとうございます。              (吉持日輪生)

妻の役割の大きさ2023年12月17日

①ヨシャファテは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。その子ヨラムが代わって王となった。 
                歴代誌第二21章1節
②彼(ヨラム)は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼は惜しまれることなく世を去った。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった。
                歴代誌第二21章20節

 冒頭①は、ヨシャファテ王の記述、②はヨシャファテ王の息子ヨラム王への記述です。①のヨシャファテ王は、「先祖とともにダビデの町に葬られた」と書かれているのに対して、②のヨシャファテ王の息子ヨラム王に対して聖書は「彼は惜しまれることなく世を去った。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった」と記しています。
 この違い、「先祖とともにダビデの町に葬られた」ヨシャファテ王と「惜しまれることもなく世を去り、王たちの墓にも納められなかった」ヨラム王との違いは何が原因だったのでしょうか。
 聖書はさりげなくこのように記しています。

彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻だったからである。彼は主の目に悪であることを行った。
                歴代誌第二21章6節

 ここに記されているイスラエル(北王国)の王アハブについては、このように記されています。

オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。
                列王記第一16章30節

 ヨラム王の歩みが、父ヨシャファテ王とは違う方向に進んでしまったのは、このアハブ王の娘と結婚したことが原因であったと聖書は記しています。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。
               ペテロの手紙第一3章1節

 「妻の無言のふるまい」の影響の大きさを教えられます。クリスチャンとして歩んでおられる妻たちのために祈りましょう。(吉持日輪生)

素直な信仰に素直に応えてくださる神さま2023年12月10日

ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。
                    歴代誌第二 20章3節

 今回取り上げる歴代誌第二20章も、「ヨシャファテ王の素直さ」に満ちています。
 冒頭引用箇所で「ヨシャファテは恐れた」とありますが、その理由は、攻めて来た「モアブ人とアンモン人」を前にしての素直な恐れでした。素直に恐れたヨシャファテ王は、「心に決めて主を求め」たとある通り、素直に「主を求め」、素直に「ユダの全土に断食を呼びかけ」ています。このようなヨシャファテ王の「素直さ」は、民にも広がり、4節にこのように記されています。

ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。実にユダのすべての町から人々が来て、主を求めたのである。
                       歴代誌第二 20章4節

 その後、ヨシャファテ王は、神さまへの祈りを献げ始めますが、その祈りの最後は次のようにしめくくられています。

私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。       
                       歴代誌第二 20章12節

 大軍を前に途方に暮れているヨシャファテ王は、「ただ、あなた(神さま)に目を注ぐのみです」と素直に祈っています。
 そして神さまは、ヨシャファテ王と民の素直な信仰による行動に応えてくださいます。

彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。
                        歴代誌第二 20章22節

 私たちも困難に直面した時は、素直に神さまに祈り、素直に信頼し、素直に賛美を献げていくことで、神さまによる勝利を見させていただきましょう。  (吉持日輪生)