さばかない2025年03月02日

それは、彼が神に対して手向かい、全能者に対して尊大にふるまい、分厚い盾を取って、傲慢にも神に向かって突き進むからだ。 
                     ヨブ記15章25~26節

 ヨブ記15章は、ヨブの発言を受けて再びヨブの友人のテマン人エリファズが答えています。そのエリファズの発言のクライマックスは、冒頭に引用した25~26節のように思います。「全能者に対して尊大にふるまい」(25節)、「傲慢にも神に向かって突き進む」(26節)。エリファズは、ヨブの発言を聞きながら、神さまに対するヨブの「尊大さ」や、「傲慢さ」を指摘しています。
 しかし、これまでにも触れてきた通り、ヨブも、ヨブの友人エリファズも、ヨブ記1~2章の神さまとサタンとのやり取りを知りません。ですから当然ヨブにも、またヨブの友人エリファズにも、神さまの前における事実と彼らの認識との間には、大きな隔たりが存在しています。
 そして「傲慢」であるのは、ヨブだけではありません。エリファズも次のように傲慢な発言をしています。

見よ、神はその聖なる者たちさえ信頼なさらない。天も神の目には清くない。
                    ヨブ記15章15節

 エリファズは、傲慢にも「神は…」と神を主語にして、神について語っています。
 さて、このようにお互いを否定し合うヨブとヨブの友人エリファズの姿を見ているとイエスさまのおことばを思い出します。

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
                    マタイの福音書7章1~2節

 私たちも、「尊大さ」「傲慢さ」に陥らないためには、自分が持っている神さまについての理解、神さまに対する知識を絶対に正しいものとはせず、イエスさまが語られているように「さばかない」ことです。今週も、お互いにさばき合わず、お互いを赦し合い、受け入れ合い、助け合う神の家族として歩みましょう。(吉持日輪生)

神さまについての知識を得る2025年02月23日

木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し その若枝は絶えることがない。たとえ、その根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し、苗木のように枝を出す。しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。水は海から消え去り、川は干上がり、涸れる。そのように、人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない。                 
               ヨブ記14章7~12節

 ヨブ記14章も、ヨブの発言が続きます。今から3千年以上前に書かれたヨブ記を読んでいると、ヨブや、ヨブの友人たちの知識の豊かさに驚かされます。上記引用個所でも、「木」という植物の知識が豊富です。「たとえ切られても、また芽を出し」とか、「根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し」など、植物の知識が正確に語られています。
 同時に「人間の死」についても、正確に語られています。「人は死ぬと倒れたきり」「人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない」と、人間の死と、聖書が語る「よみがえり」について語っています。
 また神さまの前の人間の姿もしっかりと理解しています。

今、あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を留めないでください。私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。  
               ヨブ記14章16~17節

 神さまは、私たちの「一歩一歩」を数えることができるほどに知っておられること。また、どんなに小さな罪でも「私の罪に目を留め」られるお方であること。だからこそ、「私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください」と願う必要があることを、ヨブはしっかりと語っています。
 私たちの一般的な知識は、ヨブ記の時代の人たちより、またヨブよりも豊かかもしれませんが、神さまに対する知識は取るに足りないものです。だからこそ私たちは、「旧新約聖書」を通して正確な神さまについての知識をいただく必要があります。今週も、聖書を通して「神さまについての知識」を豊かにし、真実な神さまと共に歩みましょう。                        (吉持日輪生)

「神のことば」は力強い2025年02月16日

けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。
                             ヨブ記13章3節

 ヨブ記13章も、ヨブの発言が続きます。ヨブ記はこれまで見てきた通りヨブとヨブの三人の友人たちとのやりとりで進んでいきます。テマン人エリファズは「4章5章」「15章」「22章」で発言をしています。シュアハ人ビルダデは「8章」「18章」「25章」で発言しています。そして三人目のナアマ人ツォファルは「11章」「20章」で発言しています。このようにヨブ記は、ヨブとヨブの三人の友人たちとのやり取りが27章まで続きます。ヨブ記は全部で42章ありますので、その大半は友人たちとの対話です。
 このようなヨブ記の特徴を知る時、冒頭で引用した「神と論じ合うことを願う」とのヨブのことばは、三人の友人たちとの対話を一通りやり終えたヨブの素直な気持ちとして読むことができます。
 私たちも、様々な試練や、困難、悲しみの中に置かれた時、家族や、友人たちからの慰め、励ましのことばに助けられる面はありますが、やはり「神のことば」に勝るものはありません。家族や、友人がクリスチャンであっても、やはり「人のことば」は、束の間の慰め、励ましです。根本的なところからの慰め、励ましは、やはり「神のことば」からしか得られません。
 クリスチャンが、困難な中に置かれている友人や、知人への手紙や、メールの中で、みことばを送るのは、まさにそのような思いからです。「とりなしの祈り」も、神さまがその友人、知人に直接関わってくださり、直接語り掛けてくださることを祈るものです。
 私たちクリスチャンは、「人の慰め、励まし」「人のことば」の限界を知ると共に、私たちは「神のことば」の力強さを信じ、聖書に記されている「神のことば」を届け続けたいのです。「人のことば」の限界を知りつつ、友人、知人を励ますと共に、私たちが目指すところは、「全能なる神さまのことば」「聖書に記されている神のことば」を、大切な人たちに届けることです。
 今週も、「人のことば」としての励まし、慰めを隣人に届けると共に、隣人に、力ある「神のことば」を届け続けましょう。           (吉持日輪生)

ヨブの誠実さ、直ぐな心2025年02月09日

私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。
               ヨブ記12章3節

 ヨブ記12章は、ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファルの発言を受けて、ヨブが答えています。ナアマ人ツォファルは、ヨブに対して「あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い」(ヨブ記11章7~8節前半)と言われたことに対して、そんなことは私もわかっていると答えています。
 同時にヨブも神さまについての知識を語ります。

知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。
               ヨブ記12章13節

力と英知は神とともにあり、迷い出る者も、迷わす者も神のものだ。
               ヨブ記12章16節

 「知恵と力」「思慮と英知」「力と英知」が神さまとともにあることを語っています。さらに「迷い出る者」「迷わす者」も神さまのものと語っています。ここで「迷い出る者」とは、ヨブ自身のことを指しています。ヨブ記6章でヨブ自身このように語っていました。

私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。
               ヨブ記6章24節

 「迷い出る者」がヨブだとすると、「迷わす者」とはヨブの友人たちということになります。つまりヨブは、ここで「迷い出ているヨブ」も、「ヨブのことをさらに迷わせている友人」も神さまのものと語っているのです。ヨブ記冒頭のヨブの紹介を思い出します。

ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。
               ヨブ記1章1節

 ヨブの誠実さ、直ぐな心、そして神さまについての知識の豊かさの中で、ヨブが語った「迷い出る者も、迷わす者も神のものだ」のことばが心に残ります。私たちの教会における神の家族の交わりの中にも様々な違いを覚えることがありますが、私たちもヨブの誠実さ、直ぐな心にならい「あなたも、私も神のもの」と語り合える交わりに成長し、成熟していきましょう。           (吉持日輪生)

ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファル登場2025年02月02日

ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。 
                   ヨブ記11章2~3節前半

 ヨブ記11章では、ヨブの三人目の友人ナアマ人ツォファルの発言が記されています。そして「ナアマ」という名前は、創世記4章にも登場しています。

一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。トバル・カインの妹はナアマであった。 
                   創世記4章22節

 創世記4章を読むと、ナアマはカインの子孫で、「青銅と鉄のあらゆる道具を作る者」であったトバル・カインの妹として紹介されています。つまり女性の名前だということです。またナアマの意味は「楽しい」「喜ばしい」と聖書辞典に記されています。一方ツォファルの意味は「小鳥のようにさえずる」あるいは「喜んで跳びはねる」と説明されています。
 このような「ナアマ」「ツォファル」の意味からは、快活な印象を受けますが、名前の通りヨブに快活に語り掛けています。冒頭引用個所は、まさに快活な印象を受ける部分です。

神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。
                  ヨブ記11章6~9節

あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。
                  ヨブ記11章17節

 神さまが咎を忘れてくださること、神さまがはかり知ることができないほど豊かで大きいこと、そして神さまが私たちの一生を輝かせてくださることなど、様々な神さまについての知識を語っています。しかし、私たちはヨブ記1章2章を読んで知っているからこそ、このような神さまの知識を豊かに持っているナアマ人ツォファルでも知りえない神さまの姿があることを教えられます。
 私たちも神さまの知識を豊かにすると共に、知りえない、理解しえない神さまの姿があることを覚え、どんなに知識が豊かにされても神さまの前では謙遜に歩みましょう。                         (吉持日輪生)

ヨブの思いからわかること2025年01月26日

それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。
                        ヨブ記10章6~7節

 ヨブ記10章は、ヨブ記9章に続いて、ヨブの発言が記されています。そして10章も9章と同様、イエスさまのような「仲介者、仲裁者、通訳者」が存在しないことに触れています。上記個所は、「あなた(神さま)の手から救い出せる者がいない」(7節)のに、「私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか」(6節)と嘆いています。つまりヨブの主張は、イエスさまのような「咎から、また罪から私たちを助け出してくださる救い主」がおられるのであれば、「私の咎を探し、私の罪を探る」(6節)ことは理解できるけれども、そのような存在がいない中で、「私の咎を探し、私の罪を探る」のは困るということでしょう。そのようにこの個所を読むと「私に悪しきことがないこと」(7節)は、まさにイエスさまの十字架と復活による贖いのゆえに「私に悪しきことがないこと」につながります。
 私たちは、このようなヨブの思い、思考から、旧約聖書時代の人たちの信仰を垣間見ることができます。「仲介者、仲裁者、通訳者」がいない中で父なる神さまと向き合うことの厳しさ、辛さに触れることができます。そしてヨブはこのように叫んでいます。

もし、私が罪ある者となるなら、あなたは私を見張られます。こうして、私の咎を免じてはくださいません。もし、私が悪しき者とされるのなら、ああ、なんと悲しいことでしょう。私は正しい者とされても、頭を上げることはできません。自分の恥に飽き飽きし、自分の苦しみを見ていますから。  
                     ヨブ記10章14~15節

 今週も、私たちにはイエスさまという、身をもって私たちの咎、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったお方がおられること、イエスさまのゆえに「罪」「咎」を赦されていることに感謝しつつ、三位一体の神さまと共に歩みましょう。  (吉持日輪生)

ヨブの戸惑いからの気付き2025年01月19日

ヨブは答えた。そのとおりであることを、私は確かに知っている。しかし、人はどのようにして、神の前に正しくあり得るのか。
                    ヨブ記9章1~2節

 ヨブ記9章では、ヨブがヨブの友シュアハ人ビルダデの発言に答えています。ヨブは、シュアハ人ビルダデの発言に対して「そのとおりであることを、私は確かに知っている」(2節)と答えています。シュアハ人ビルダデの発言を肯定しつつも、ヨブ自身の中にある戸惑いを語っています。

まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。    ヨブ記9章14節

たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。    ヨブ記9章20節

自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを。私はきっと、悪しき者とされるでしょう。         ヨブ記9章28節~29節前半

 このようにヨブは、自らの中にある戸惑いを吐露しつつ、あることに気付かされます。

私たち二人(神さまとヨブ)の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。     ヨブ記9章33節

 短いヨブのことばですが、仲介者、仲裁者、通訳者なるイエスさまが与えられている私たちとの大きな違いを感じます。そして私たちも、もし仲介者、仲裁者、通訳者なるイエスさまがおられなかったら、このヨブのような戸惑いに直面するのでしょう。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。    テモテへの手紙第一2章5節

 今週も、仲介者、仲裁者、通訳者であるイエスさまに助けてもらいながら、神さまと共に歩みましょう。 
                    (吉持日輪生)

ヨブの友シュアハ人ビルダデの登場2025年01月12日

次に、シュアハ人ビルダデが答えた。 
                      ヨブ記8章1節

 ヨブの友として二人目のシュアハ人ビルダデが登場します。ヨブの友として登場した一人目のテマン人エリファズは、「テマン人」が「エサウ(ヤコブの兄)の長子」であることから、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の流れから外れていることがわかります。一方「シュアハ人」は、創世記25章1~2節に登場します。

アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。彼女はアブラハムに、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハを産んだ。
                      創世記25章1~2節

 このことからシュアハは、アブラハムの最初の妻サラとの間の子ではなく、妻サラが亡くなった後にアブラハムが結婚したケトラとの間の子であることがわかります。やはり「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主流派から少し外れているという点では、ヨブの一人目の友人と似ています。そしてシュアハ人ビルダデの主張は、「もし、あなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう」(6節)、「見よ。神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない」(20節)というものでした。
 ヨブ記4~5章で読んできたテマン人エリファズの主張と同様に、シュアハ人ビルダデの主張も、ヨブ自身の中に、今回の苦しみの原因があるというものでした。この主張自体は間違いではありませんが、これまでも触れてきた通り、ヨブ記1~2章を知っているヨブ記の読み手である私たちは、事実との違いを感じてしまいます。
 そしてそのような違いに触れる時、サムエル記第一2章に記されていた「ハンナの祈り」の一部を思い出します。

おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。
                      サムエル記第一2章3節

 今週も「おごり高ぶって、多くのことを語る」ことがないように、神さまの前に慎み深く歩みましょう。                   (吉持日輪生)

ヨブのように2025年01月05日

ですから、私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます。
                   ヨブ記7章11節

 ヨブの友であるテマン人エリファズの発言は、ヨブ記1章~2章を知らないからこそ、的外れな発言でした。しかし、ヨブも同じ状況でした。当然と言えば当然でしょう。財産を失い、子どもを失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患っているのですから。
 そしてヨブは、そのような状況の中、冒頭引用個所にある通り、「自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆」いています。
 私たちは、このようなヨブの姿から慰めを覚えます。なぜなら私たちも「試練の中にあって」「霊の苦しみの中にあって」、また「たましいの苦悩の中にあって」嘆くからです。ヨブのように「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかって」(ヨブ記1章1節)いても、「朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げ」(1章5節)ていても、また神さまから「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1章8節)と言われるような人でもです。
 いよいよ2024年も終わり、2025年が始まりました。年が変わっても、それぞれが置かれている状況、抱えている問題や課題、直面している試練や苦しみは変わらないことでしょう。私たちクリスチャンも、神さまから「問題や課題」「試練や苦しみ」の意味を教えていただくまでは、ヨブのように「自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆く」ことが許されているのです。
 私たちは、全ての源である神さまを信じる者として、大いに嘆き、大いに祈り、大いに神さまに礼拝を献げるのです。今年も週に1回、それぞれの生活している空間、状況から離れて、主の日の礼拝を共に献げ続けましょう。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。     
                  ローマ人への手紙11章36節  
                                 (吉持日輪生)

ヨブの苦悶2024年12月29日

ヨブは答えた。ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。
                         ヨブ記6章1~3節

 ヨブ記6章に記されているヨブのことばは、テマン人エリファズへの返答です。ヨブは、ヨブ記3章で自ら語ったことばが「激しかった」と反省の気持ちを表しつつも、その理由を明らかにしています。それは、「海の砂よりも重い」「苦悶」でした。財産を失い、子ども失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患う。しかもそのような苦しみを背負わなければならない理由、意味も分からない。そのような中での「苦悶」です。
 テマン人エリファズは、ヨブが苦しみを背負った理由、意味を次のように説明していました。

さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。                
                         ヨブ記4章7~8節

 つまりテマン人エリファズの主張は、ヨブの中に「不法」「害悪」があったから、その苦しみを刈り取っているというものでした。
 しかし私たちは、ヨブ記1章~2章を通して、ヨブが苦しみを背負うことになった理由を知っているため、テマン人エリファズの主張が間違っていることがわかります。ところが、ヨブはその苦しみの理由を知らないからこそ、ヨブの苦悶は続いているのです。
 私たちも、ヨブほどではないにしても、今、背負っている、また直面している「苦しみ」の意味が分からないために「苦悶」することがあります。その時の解決は、親に聞くことでもなく、また友人知人に聞くことでもなく、またこの世で地位の高い人や、社会的に力のある人に聞くのでもありません。そうではなく、すべてを知っておられ、すべての源である神さまに聞くことです。
 2024年に直面した苦しみの意味を神さまに問いかけつつ、新しく迎える2025年も神さまに一つ一つの意味を教えていただきながら、「地の塩」「世の光」としての歩みを重ねていきましょう。              (吉持日輪生)