植え、引き抜き、また再び植えてくださる神さま2022年05月29日

主はイスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖に与えられたこの良い地の面からイスラエルを引き抜き、あの大河の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシェラ像を造って主の怒りを引き起こしたからです。
                      列王記第一 14章15節

 上記聖書箇所の「彼らの先祖に与えられたこの良い地」について、聖書は次のように書いています。

わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、(中略)彼らを導き上るためである。 
                     出エジプト記 3章8節

 神さまは、イスラエルの民をエジプトから脱出させるだけでなく、「広く良い地」「乳と蜜の流れる地」に導かれました。しかし、ヤロブアムの時代になり、神さまの教えから大きく離れていく中、「先祖に与えられたこの良い地の面からイスラエルを引き抜き、あの大河の向こうに散らされる」と語られています。
 聖書の神さまは、下記の聖書箇所にある通り、植える方であり、また引き抜くお方です。旧約聖書を読んでいると植える神さまは、引き抜く神さまであるけれども、また再び植えてくださる神さまであることが記されています。

かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──主のことば──。                エレミヤ書 31章28節

 私たちも、たとえ神さまに引き抜かれることがあっても、再び神さまによって恵みの「流れのほとりに植えられた(移植された)木」(詩篇1篇3節)となれるように、悔い改めと罪の赦しをいただいて、今週も歩もう。

その人は 
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び 
その葉は枯れず 
そのなすことはすべて栄える。      詩篇 1篇3節
                             (吉持日輪生)

身をもって伝える預言者たち2022年05月22日

彼は、ユダから来た神の人に呼びかけて言った。「主はこう言われる。『あなたは主のことばに背き、あなたの神、主が命じた命令を守らず、引き返して、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸は、あなたの先祖の墓には入らない。』」      
列王記第一 13章21~22節

 列王記第一13章には、上記に記されている「ユダから来た神の人」と、「一人の年老いた預言者」(11節)が登場します。「ユダから来た神の人」は、「パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない」(9節抜粋)という主からのことばに忠実に、パンも水も口に入れることなく、来た道と別の道で帰り始めていました。そこに「一人の年老いた預言者」が来て、次のように語ります。

彼(一人の年老いた預言者)はその人(ユダから来た神の人)に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主のことばを受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」こうして彼はその人をだました。                    列王記第一13章18節

 だまされた「ユダから来た神の人」は、「一人の年老いた預言者」と同じ預言者でしたが、その後、獅子に殺されてしまいます。なんとも後味の悪い、理解に苦しむ内容となっています。
 この章を理解する上で参考になる個所は、下記のことばです。

この民を導く者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる者となる。
                            イザヤ書9章16節

 民を導く王が、「迷わす者」となる時、王に導かれる者(民)が「惑わされる」という状況を、そしてそれが「死」「滅び」につながることを預言者たちが身をもって示したのでしょう。そしてこの「身をもって」伝えた預言者たちの姿が記されている列王記第一13章には、イエスさま誕生ストーリーの中で聞くフレーズが何度も登場しています。「一人の男の子がダビデの家に生まれる」(2節)、「もと来た道を通って帰ってはならない」(9節、10節、17節)。身をもってメッセージを伝えた預言者たちの姿の先に、身をもって救いの道を用意してくださったイエスさまを覚えます。
 私たちも身をもって、その恵みに応えていきましょう。(吉持日輪生)

主に信頼することを失う時2022年05月15日

王(レハブアム)は民に厳しく答え、長老たちが彼に与えた助言を退け、若者たちの助言どおりに彼らに答えた。「私の父がおまえたちのくびきを重くしたのなら、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのなら、私はサソリでおまえたちを懲らしめる。」
                     列王記第一 12章13~14節

 この章からイスラエル王国が、北王国と南王国に分かれていきます。この時代は、登場人物の整理が必要なので、なるべくその情報も紹介しながら、読み進めたいと思います。
*レハブアム:ソロモン王の子で、ソロモン王の後継王、イスラエル南王国の王となる
 ヤロブアム:イスラエル北王国の最初の王、民を偶像崇拝にと進ませた王

 さて上記聖書箇所は、ソロモン王の後継者となったレハブアム王が、ソロモン王時代からの長老たちの助言よりも、自分とともに育った若者たちの助言に従った個所です。結果的にこの判断が、イスラエルの国を北と南に分裂させることになりました。けれども、このイスラエル王国が南北に分裂することは、列王記第一11章に記されていました。

ヤロブアムに言った。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。
                          列王記第一11章31節

 しかし、このように神さまによってイスラエルの10部族を託されたヤロブアムでしたが、12章後半を読み進めると、イスラエルの民を偶像崇拝にと強く向かわせてしまうことになります。そのような間違った道に民を進める原点は、神さまへの信頼を失った、自分の知恵による保身からでした。

この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王(南王国)レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。       列王記第一12章27節

 全能なる神さまへの信頼を失い、自分の身を自分の知恵で守ろうとする時、人の歩みは混沌としていきます。今週も神さまに信頼して歩みましょう。(吉持日輪生)

主と心を一つにしよう2022年05月08日

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。
                       列王記第一 11章4節

 列王記第一11章には、栄華を極めたソロモン王の晩年のことが記されています。上記聖書箇所に「ソロモンが年をとったとき」とある通りです。晩年のソロモン王について聖書は、はっきりとこのように書いています。「彼(ソロモン王)の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった」と。
 ちょうど数週間前に取り上げた「列王記第一8章」には、神殿を建て上げ、「契約の箱」などを神殿の中に運び入れたソロモン王が、イスラエルの民に熱く語る姿と言葉が記されていました。その中で、ソロモン王は自らこのように語っています。

あなたがたは、今日のように、私たちの神、主と心を一つにし、主の掟に歩み、主の命令を守らなければならないのです。         列王記第一8章61節

 つまりソロモン王は、「私たちの神、主と心を一つにし」と自ら語りながら、晩年「彼の神、主と一つにはなっていなかった」ということです。その理由は、冒頭聖書箇所にも記されている通り「妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けた」からでした。そしてさらに驚かされるのは、その妻と側女の数です。

彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。                       列王記第一11章3節

 このようなソロモン王に対して、神さまは何もされなかったのではありません。

主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからである。主が二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、彼が主の命令を守らなかったのである。
 列王記第一11章9~10節

 私たちも、罪を犯します。そのような中、神さまは、様々な方法、様々な形で語り掛けてくださいます。その時、ソロモンのように心をかたくなにしないで、「主と心を一つにし」、素直に、子どものように、神さまの語り掛けに応え、罪から離れましょう。                (吉持日輪生)

神さまの目と心2022年04月24日

主は彼に言われた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある。           列王記第一 9章3節

 「わたし(神さま)の目と心は、いつもそこに(宮)にある」。このことばは、ソロモン王の時代だけに有効なものだったのでしょうか。そうではありません。2022年の今も変わることなく、「神さまの目と心」は、エルサレムの神殿に向けられています。私たちは、そのことを次のことから知ることができます。一つは、「エルサレム」という町が今も存在していること。もう一つは、そこに神殿があり、今も「祈りの場所」(「嘆きの壁」のこと)で、聖書の神さまへの祈りが献げられ続けていることです。
 しかし、新しい契約、つまり神さまと私たちとの、主イエス・キリストによる契約の中にあって、このことばの適応は、さらに広げられました。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。           コリント人への手紙第一 3章16節

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。                 コリント人への手紙第一 6章19節

 私たちのからだは「神の宮」であり、「聖霊の宮」です。だからこそ神さまは、私たち一人ひとりに「神さまの目と心」を注いでいてくださるのです。70億人以上いる一人ひとりに「目と心」を向けることができるのは、神さまが全能だからです。そして一人ひとりに「目と心」を向けられる神さまは、宇宙にも「目と心」を向けられ、統制をとっておられます。それができるのも、神さまが全能だからです。
 今週も、全能なる神さまの目と心が私に向けられていることを覚えつつ、日々そのような神さまに祈りを献げつつ、知恵をいただいて歩みましょう。(吉持日輪生)

約3千年前の「祈り」2022年04月17日

あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち「わたしの名をそこに置く」とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。
                       列王記第一 8章28~29節

 ソロモン王は、紀元前10世紀頃に活躍した人物ですが、その時代のイスラエル人たちの祈りの姿勢がここに記されています。
 「この宮の中にある、あなたの祭壇の前」(31節)での祈り、「この宮」(33節)での祈り、「この場所(宮)に向かって」(35節)の祈り、「この宮に向かって両手を伸べ広げて」(38節)の祈り、また「あなたの民イスラエルの者でない異国人」(41節)の祈り、「捕らわれて行った地」(47節)での祈りなどが記されています。それと同時に「あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください」(30節)と「祈り」を聞かれるのは、天においてであることも記されています。
 これらの「祈り」、つまり今から約3千年前の「祈り」の姿勢を読む時、私だけでなく、ほとんどのクリスチャンは、何も違和感を覚えないことでしょう。それ程に、聖書の神さまへの「祈り」は、神さまに造られた人間に本質的に与えられている姿勢なのです。
 私たちも、「教会」での祈りだけでなく、「神さまの御住まいの天」に向かっての祈りを、どこにいても献げます。「祈り」は、いつでもどこでも献げることができるものであり、また同時にその献げられた「祈り」を神さまは、天において聞いてくださいます。
 けれども旧約聖書時代に神殿(宮)での祈りを大切にしていたように、また新約聖書時代に「会堂」での祈りを大切にしていたように、私たちも「会堂」での祈りを大切にしていきたいと思います。コロナ禍の中、様々なことがオンラインで参加できる時代になりましたが、それでも可能な限り「会堂」に身を置き、礼拝を献げ、祈りを献げるのは、私たちの救い主イエスさまが、受肉してこの世に来てくださったことが原点です。イエスさまが、この世にいらしてくださったことへの私たちにできる応答の一つとして、これからも「会堂」に身を置いての礼拝、祈りを大切にしていきましょう。                     (吉持日輪生)

ソロモン王の「欲」2022年04月10日

また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。                          列王記第一 7章1節

 この冒頭の聖書箇所だけを読むと、「13年かけて宮殿を作ったんやぁ…」と思うだけですが、6章最後の節、つまり上記聖書箇所の前の節を下記に引用します。

第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。          列王記第一 6章38節

 章は変わるけれども、この2つの連続した節を読んでわかることは、ソロモン王は7年かけて神殿を建て、13年かけて自分の住む宮殿を建てたということです。
 この年数の違いは、当然費用のかけ方の違いにつながります。そしてさらに読み進めると「レバノンの森の宮殿」(7章2節)、「妻としたファラオの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた」(7章8節)とあるように、次々に建物を建てています。その後、さらに記されていく内容は、建物が完成すると、様々な丁寧な装飾と数々の備品を作っています。まさに栄華を極めたソロモン王の様子を知ることができます。
 しかし、このソロモン王の歩みから読み取ることができることは、ソロモン王の欲の広がり、深まりです。「主の家」(神殿)を建築したいという「欲」は、次に自分の住む宮殿、さらには妻の家、さらに柱の装飾、さらに数々の備品と続いていきます。ソロモン王の「欲」は、留まることなく沸き起こり続けます。そして、その後のソロモン王の歩みを想う時、下記の新約聖書の言葉が頭に浮かびます。

そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
                           ヤコブの手紙 1章15節

 このソロモン王の姿を、自らの姿と重ね、イエスさまの十字架を覚えて歩みましょう。

私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
                     テトスへの手紙 3章3~4節
                             (吉持日輪生)

時を大切にされる神さま2022年04月03日

イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建築に取りかかった。           列王記第一 6章1節

 皆さんは、旧約聖書を読んでいて、数字を大切にしていると感じたことはないでしょうか。旧約聖書は、今から数千年前の書物ですが、年数にしても、民の数にしてもとても正確に記しています。
 冒頭に引用した聖書箇所も同様で「イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目」と明確に年数を記しています。私たちが慣れ親しんできた「日本の昔話」のような「昔々、あるところに…」といった漠然としたものではありません。そこにも聖書の神さまのご性質が現わされています。聖書の神さまは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝道者の書3章1節)と記されているように、神さまは「時」を創造し、「時」を支配されるお方です。ですから神さまを見上げる時、神さまと共に歩む時、人は「時」を大切にし、「時」の流れを記したくなるのでしょう。
 さて、私たちは今、どのような「時」を歩んでいるでしょうか。イエスさまがこの世に誕生されて2022年目。宗教改革の起点と考えられる1517年から505年目。茨木聖書教会がこの地に誕生して57年目。そしてこの会堂が神さまの前に献堂されて29年目です。
 新年度の歩みが始まりました。「時」を創造し、「時」を支配される神さまと共に、この1年の「時」を大切にしながら、共にキリストのからだなる教会を建て上げていきましょう。(吉持日輪生)

神さまに聞くことの大切さ2022年03月27日

主は約束どおり、ソロモンに知恵を授けられた。ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、二人は契約を結んだ。            列王記第一5章12節

 上記聖書箇所にある通り、神さまは「ソロモンに知恵を授けられ」ました。それだけでなく、「豊かさ」も与えられました。そのためソロモンが建築する神殿は、下記にある通り「高価な」ものが使われました。
王は、切り石を神殿の礎に据えるために、大きな石、高価な石を切り出すように命じた。                        列王記第一 5章17節

 このようなソロモンの繁栄について、イエスさまも山上の説教の中で「栄華を極めたソロモン」(マタイの福音書6章29節)と言及しています。
 さて「知恵」があり、「豊かさ」もある「栄華を極めたソロモン」でしたが、彼にも欠点がありました。それは「神さまのことば」に聞く姿勢です。ソロモンは、神殿建設に際して、「知恵」と「豊かさ」を用いていますが、神さまに聞くことをしていません。もし神さまのことばに聞こうとしていたならば、「切り石を神殿の礎に据える」ことや、「高価な石を切り出す」必要はなかったのかもしれません。なぜならば神さまは、十戒をイスラエルに示した際に、このように語っていたからです。
もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。
                         出エジプト記20章25節

 この出エジプト記の言及は、「神殿」ではなく、「幕屋」ですし、またこの個所は「神殿」ではなく、「祭壇」への言及ですので、すべて当てはめることは難しいかもしれませんが、このような「神さまのことば」、このような「神さまの教え」に聞くことで、ただただ豪華で、立派な神殿建設ではない、方向性も見えてきたかもしれません。
 神さまからの「知恵」があっても、また神さまからの「豊かさ」があっても、「神さまのことば」に聞く姿勢がないと、この後のソロモンのように間違った方向に進んでしまう危険があるのでしょう。今週も「神さまのことば」にしっかり耳を傾けて歩みましょう。(吉持日輪生)

海辺の砂のように2022年03月20日

ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた。              列王記第一 4章20節

 上記聖書箇所に記されている「海辺の砂のように」という表現は、列王記第一4章に2回、上記20節と29節に登場します。

神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。                 列王記第一 4章29節

 しかし、この「海辺の砂のように」という表現で、より多くの方々の印象に残っているのは、アブラハムが、神さまから命じられ、ひとり息子イサクを献げようとする個所です。神さまは、そこまでするアブラハムの信仰を見、祝福され、次のように語られました。

確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
       創世記 22章17節

 この3個所の「海辺の砂のように」の使い方を見ると、「数」の祝福だけでなく、「広さ」の祝福としても用いられていることがわかります。
 私たちも信仰によって、神さまがアブラハムに語られた「海辺の砂のように」という「数」的な祝福をいただくだけでなく、ソロモンが祈りを通して「海辺の砂のように広い心」を与えられたように、信仰と祈りをもって、「数」的にも、「広さ」的にもあふれるばかりの恵みをいただいて、今週も歩みましょう。(吉持日輪生)