20160117 マナから聖餐式のパンへ2016年01月17日

イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。   出エジプト記16章15節

このパンの名前は、上記聖書箇所にある「これは何だろう」という意味のヘブル語から「マナ」と呼ばれるようになります。そしてこの「マナ」については、同じく出エジプト記16章13~14節で「朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった」と記されています。つまり「マナ」は、ここに記されている通り、神さまがイスラエルの民の朝食として与えてくださったものであり、民は「マナ」を食しつつ、朝毎に「私は何者なんだろう」と自問したことでしょう。
さて時代は進み新約聖書の福音書において、イエスさまはこのように言われています。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6章51節)とあります。さらにイエスさまは、最後の晩餐の中で「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです』」(マタイ26章26節)ともあり、この「マナ」は、最終的に聖餐式のパンへとつながっていくように感じます。
そうであるならば私たちは聖餐式のパンを「私はいったい何者なんだろう」と自問しつつ食べるべきなのかもしれません。この問いの答えは「神さまの愛するひとり子イエスさまを与えられるほどに愛されている者」です。
先週、礼拝の中で与った聖餐式のパンを思い出しつつ、「私はいったい何者なのか」の問いに対して「神さまのひとり子イエスさまが身代わりになって下さるほどに、神さまの前では高価で、尊い者」であることを確認し、その神さまに育まれながら今週も歩ませていただきましょう。     (吉持日輪生牧師)

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