20151206 息子や孫に語って聞かせるため2015年12月06日

モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。   出エジプト記10章3節
家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」       出エジプト記10章7節

出エジプト記10章の冒頭に「わたし(神さま)は彼(パロ)と家臣たちを強情にした」と書かれていますが、その状況が長く続いていることは、「いつまで」ということばに良く現れています。上記聖書箇所の一つ目では「いつまでわたし(神さま)の前に身を低くすることを拒むのか」とあり、上記二つ目の箇所では「家臣」たちが「いつまでこの者(モーセ)は私たちを陥れるのですか」とあります。しかしこの状況の背後には「神さまのご計画」があり、出エジプト記10章2節にこう書かれています。「わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」と。
この箇所を読みながら思わされることは、神さまのこのご計画は「息子や孫に語って聞かせるため」でしたが、現実は時間的にも、空間的にもエジプトからかけ離れた、この日本で、この茨木で、まさに今も語られ続けていることの素晴らしさです。そして、当然これからも語られ続けていくことでしょう。
ですから私たちも、「いつまで」と言いたくなる程に、辛い試練の中を通らされていても、同じ希望、同じ期待を持つことができます。ここから始まる神さまの大いなる御業を、私の「息子や孫に語って聞かせるため」に、神さまは「いつまで」も試みの中に置かれているのかもしれません。今週は、「いつまで」とつぶやかずに、神さまに期待し、試練の中、試みの中をしっかりと歩ませていただきましょう。                   (吉持日輪生牧師)

20151213 混乱の中、平安をいただくために2015年12月13日

主はエジプトが民に好意を持つようにされた。   出エジプト記11章3節

出エジプト記10章1節で「わたしは彼とその家臣たちを強情にした」とあり、今回の11章では同じ神さまが、上記の通り「好意を持つようにされた」とあります。「主なる神さま」の働きの豊かさ、幅の広さを感じさせられます。それだけではありませんモーセに対しても、エジプトに災いをもたらしている張本人であるにもかかわらず「モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた」(出エジプト記11章3節)と記されています。なんとも不思議な状況です。ここまでのエジプトを取り巻く環境は、エジプト人の住む所には災いが下り、イスラエル人の所には下らないという状況です。このような状況が続く中、エジプト人がイスラエル人に好意を持ち、その災いのキーパーソンであるモーセを、パロの家臣までもが「非常に尊敬」するというのは、やはり異様です。しかしこの異様な状況は、恐らくこれまで続いてきた9つの災いに拠るところが大きいと感じます。環境の混乱が、人々の感情を乱し、人々の思考を錯乱させていったのでしょう。
私たちクリスチャンも、どんなに気をつけても、またどんなに細心の注意を払っていても、変化のただ中に置かれてしまうことがあります。それが人生です。けれども私たちクリスチャンには、常に変わらない、常に同じ「時間」と「空間」があります。それが礼拝の「時間」であり、神の家族の交わりという「空間」です。聖書に「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14章27節)、また「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16章33節)とある通り、私たちは、神さまに礼拝をお献げすることで、平安の内に2015年を終え、平安を持って2016年を迎えることができるのです。今日も礼拝を通して平安をいただきましょう。  (吉持日輪生牧師)

20151220 見守り、気をつけ、注意する2015年12月20日

あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、    出エジプト記12章6節

出エジプト記12章は「過越の祭」の原点となる出来事が記されています。「過越の祭」とは、二本の門柱とかもいに羊の血が塗られた家には、神さまからの裁きが過ぎ越して行った、そのことを記念するお祭りです。
このお祭りの細かい内容は、3節に「この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい」とあり、そしてその用意した羊は、上記6節へとつながります。つまり「10日~14日」は、選んだ羊を見守り、そしてほふるのです。さらにそれが終わると今度は18節「最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない」と書かれています。つまり「パン種(イースト菌)」を入れないように気をつける期間となります。イエスさまもマタイ16章6節で「イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」と「パン種」を注意し、気をつけるものとして表現しています。また「過越の祭」の特徴である「二本の門柱とかもいに塗る羊の血」も、血の色は赤ですから、ここにも「注意」というイメージが重なります。
つまり「過越の祭」の背景には、「見守り」「気をつけ」「注意する」そういったテーマを読み取ることができます。2015年もあと10日間で終わろうとしています。もう一度神さまの前にこの一年を振り返り、イエスさまを「見守り」、悪いパン種に「気をつけ」「注意する」時を持ちつつ、新年に備えましょう。   (吉持日輪生牧師)

20151227 初子は、わたしのもの2015年12月27日

イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。 出エジプト記13章2節

上記聖書箇所に出てくる「初子(ういご)」とは、人間や、動物の最初の男の子(オス)のことを指します。神さまは、「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい」(出エジプト記13章12節)と語られました。また畑にできた最初の収穫も「初穂」と呼び、やはり神さまに聖別して、献げることを記しています。「あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない」(出エジプト記23章19節)、「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る」(レビ記23章10節)。このように聖書は、「初子」「初穂」は「わたし(神さま)のもの」と記しています。
この考え方は、現代のキリスト教会にも影響を与えていて「一年最初の日である元旦の一部を神さまのために聖別してお献げするための元旦礼拝」、「週の最初の日である日曜日の一部を神さまに聖別してお献げする主日礼拝」なども、「初子は神さまのもの」という考えが背景にあります。また「神さまのものを聖別してお献げする」という姿勢も、給料をいただくとまず最初に神さまへの献金を分けるとか、また私の信仰教育の中では、新しい服を着始めるのも礼拝からというルールもありました。このように「初子」を聖別して、神さまのものとして神さまにお返しする姿勢は、旧約聖書の時代から受け継がれてきた大切な信仰姿勢です。
いよいよ今週、新しい年を迎えます。それぞれの信仰生活の中で、「初子は、わたし(神さま)のもの」という祈りの中で、新しい年の最初の時間をどのように過ごしたら良いのかを考えつつ歩ませていただきましょう。神さまからの祝福をお祈りしています。                (吉持日輪生牧師)