20160103きょうも行われる主の救いを見て2016年01月03日

主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。 出エジプト記14章8節

「イスラエル人は臆することなく出て行った」。なんとも力強いことばです。私たちも「茨木聖書教会の人たちは臆することなく2016年を歩み始めた」と言われたいものです。さてイスラエルの民は、神さまを信じていたからこそ「臆することなく」行動できたのでしょうか。それとも一時的な精神状態だけだったのでしょうか。
その答えは、この先を数節読み進めていくと分かります。10節「イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ」とある通り、「臆することなく」という精神状態は一時的なものでした。イスラエルの民は、パロの戦車、馬、騎兵、軍勢が近づいて来る状況を見た時、彼らの精神状態は急変したのです。つまり、イスラエルの民が「臆することなく出て行けた」のも状況によるものだったからこそ、不安にさせる状況に直面すると、すぐに叫びだしているのでしょう。どうでしょうか、数千年前のイスラエル人の姿は、私たちが抱えている現実と大きくかけ離れているでしょうか。そうではなく、その逆で驚くほど、びっくりするほど、現代の私たちと同じではないでしょうか。「状況に左右される精神状態」これが、昔も今も変わらないとするならば、その逆も、つまり急変した精神状況を平常心に回復させる方法も、昔も今も変わらないのでしょう。
聖書の神さまは、叫び出しているイスラエルの民に、このように語られます。13節「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」。生きておられる神さまは、「きょう」「救い」をもたらしてくださるお方です。だからこそ私たちは、心の目を研ぎ澄まし、きょう行われる神さまの救いをしっかり見続けながら、私たちの心から恐れを取り除き、平安になれるのです。
2016年が始まりました。きょう、生きておられる神さまだからこそ、きょう、行われる「神さまの救い」をしっかり見続け、平安の中を歩ませていただきましょう。                  (吉持日輪生牧師)

20160110 賛美が三日でつぶやきに2016年01月10日

モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。         出エジプト記15章22節

出エジプト記15章には、「モーセとイスラエル人」による賛美が1~18節に記され、その後モーセの姉で女預言者ミリヤムの賛美が21節に記されています。そういう意味で出エジプト記15章は賛美に満ち溢れた章と言えます。しかし22節以降を読むと、昔も今も変わらない人間の姿に触れることになります。そこに記されているのは、イスラエル人のつぶやきです。そして興味深いところは、豊かな賛美がつぶやきに変わるまでに必要な時間が3日間だったことです。22節「彼らはシュルの荒野へ出て行き、3日間、荒野を歩いた」とあり、その後つぶやいたことが記されています。今の私たちで言うならば、日曜日に賛美を献げ、それから3日後の水曜日には、神さまの前につぶやいているという状況です。そう考えると確かに、度々起こることと感じます。さてモーセはつぶやく民にどのように対応しているでしょうか。25節「モーセは主に叫んだ。すると、主は一本の木を示された」とあり、その木を苦い水に入れると甘くなったと記されています。
なんとも新約聖書的な響きを感じることばです。なぜなら今日の私たちも、つぶやく時、神さまが私たちに指し示してくださるものも「一本の木」、イエスさまの「十字架」だからです。イエスさまが共にいてくださることがわかる時、私たちのつぶやきは、また賛美へと変えられていきます。
今週も、賛美がつぶやきに変わってしまった時は、イエスさまの十字架を見上げ、神さまを賛美する者へと引き戻していただきましょう。神さまからの守りと祝福がありますようにお祈りしています。       (吉持日輪生牧師)

20160117 マナから聖餐式のパンへ2016年01月17日

イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。   出エジプト記16章15節

このパンの名前は、上記聖書箇所にある「これは何だろう」という意味のヘブル語から「マナ」と呼ばれるようになります。そしてこの「マナ」については、同じく出エジプト記16章13~14節で「朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった」と記されています。つまり「マナ」は、ここに記されている通り、神さまがイスラエルの民の朝食として与えてくださったものであり、民は「マナ」を食しつつ、朝毎に「私は何者なんだろう」と自問したことでしょう。
さて時代は進み新約聖書の福音書において、イエスさまはこのように言われています。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6章51節)とあります。さらにイエスさまは、最後の晩餐の中で「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです』」(マタイ26章26節)ともあり、この「マナ」は、最終的に聖餐式のパンへとつながっていくように感じます。
そうであるならば私たちは聖餐式のパンを「私はいったい何者なんだろう」と自問しつつ食べるべきなのかもしれません。この問いの答えは「神さまの愛するひとり子イエスさまを与えられるほどに愛されている者」です。
先週、礼拝の中で与った聖餐式のパンを思い出しつつ、「私はいったい何者なのか」の問いに対して「神さまのひとり子イエスさまが身代わりになって下さるほどに、神さまの前では高価で、尊い者」であることを確認し、その神さまに育まれながら今週も歩ませていただきましょう。     (吉持日輪生牧師)

20160124 祈りには支えが必要2016年01月24日

しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。           出エジプト記17章12節

モーセは祈るために手を上げ、そして「モーセの手が重く」なっていました。11節に次のように書かれています。「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」(出エジプト記17章11節)。祈りの手が上がっている間は、イスラエルが優勢となり、祈りの手が降ろされているとアマレクが優勢になったのです。祈りの大切さを教えられます。しかしモーセは、自分だけの力で手を上げ続けることは困難でした。そこで神さまは、アロンとフルを用意され、モーセの手を支えさせたのです。その場面が冒頭の聖書箇所です。
さて私たちも祈り続けるためには、やはり支えが必要です。私たちの教会では、日曜日と月曜日の朝以外、毎朝6時から1階ロビーで「早天祈り会」が開催されています。集まるのは牧会スタッフ(牧師、伝道師、協力宣教師、教会スタッフ)と信徒の方々ですが、信徒の方々の参加は、あるひとりの方が主に出席して下さっているというのが現状です。けれどもその方の存在には、モーセの手を支えたアロンとフルの役割があります。その方が来て下さることが私たち牧会スタッフにとって大きな励ましであり、その励ましに支えられ、祈りを献げ続ける恵みの中を歩ませていただけています。
これからも牧会スタッフの祈りの手がしっかり支えられ、毎朝教会で祈りが献げられ続けるように、また祈りの中でこの地の宣教がますます力強く前進するように、そのためにもアロンとフルの役割を担う方々が増やされるようにと願います。ぜひ教会近隣にお住まいの方は、毎朝祈り会に出席することは困難でも、時々参加してくださり、私たちの祈りの手を支えて下さい。そして韓国のように、いつの日か日本でも、朝早くから教会に大勢の方々が集い、祈りが献げられ、宣教が前進していく風景が見られるように共に祈り求めていきましょう。(吉持日輪生牧師)

20160131 モーセがイテロに語るように2016年01月31日

さて、モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞いた。     出エジプト記18章1節

上記聖書箇所に「祭司イテロ」とありますが、この「祭司」は、聖書が記している天地万物をお造りになった神さまに仕えるための祭司ではありません。恐らく当時のミデヤンの地にあった土着宗教の祭司と考えることが妥当でしょう。
創世記25章1~2節を読むと「ミデヤン」は、アブラハムとケトラという女性の間に生まれていて、アブラハムの子孫ですので、アブラハムの信仰、影響があったと考えることもできます。
しかしどちらにしろ、異教の神さまに仕えていた祭司イテロと聖書の神様に仕えるモーセとが共存共生していたことはとても興味深いところです。しかも祭司イテロは、5節にある通り「モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行き」、モーセから直接、出エジプトの大いなる出来事の話を聞こうとしています。そしてモーセも8節にある通り「モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語り」ました。
そしてそのモーセの話しを聞いた後、イテロは喜んだと書かれています(9節)。
この他宗教の祭司であるイテロとモーセとの関係には、とても励まされます。私たちも、ここに記されているモーセのように、ごく自然に神さまのなされた大いなる出来事をお話ししているでしょうか。この出エジプト記18章のイテロとモーセの関係には、何か相手を自分と同じ信仰へ導かなければという力みや、こだわりは感じられません。私たちも、罪の奴隷から解放された救いの証しを、ごく自然に、淡々と「モーセがイテロに語ったように」語る者として、今週も歩ませていただきましょう。      (吉持日輪生牧師)