幸いも、災いも神さまから2024年12月01日

しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。
                             ヨブ記2章10節

 ヨブ記2章でも冒頭で主(神さま)とサタンのやり取りが記されています。主(神さま)は、全ての財産を失ってしまったヨブのことをこのように評価しています。

主はサタンに言われた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を呑み尽くそうとしたが。」    ヨブ記2章3節

 それに対してサタンは、このように語っています。
 
サタンは主に答えた。「皮の代わりは、皮をもってします。自分のいのちの代わりには、人は財産すべてを与えるものです。しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
                            ヨブ記2章4~5節

 またしても神さまは、サタンにそそのかされるような形で、サタンにヨブの身体に試練をあたえることを許可します。そのためヨブは、足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打たれます。しかしそのような状況の中、ヨブは冒頭で引用した通り、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と語り、「唇によって罪に陥ることはなかった」と書かれています。
 ヨブ記は、このようにヨブの知らないところで、神さまの許可のもと、サタンによって全ての財産を失い、自らの身体にも悪性の腫物を背負うことになりますが、唇による罪に陥りませんでした。
 私またちもヨブにならい、どのような試練の中にあっても「唇による罪に陥らない」ようにしましょう。              (吉持日輪生)

人は心騒ぎ、心乱れる2024年12月08日

安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心は乱れている。  
                         ヨブ記3章26節

 ヨブは、ヨブ記1章で全ての子ども、全ての財産を失った時、下記の通り主をほめたたえています。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」          
                         ヨブ記1章21節

 またヨブは、ヨブ記2章で足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打たれた時も、下記の通り「唇によって罪に陥ること」はありませんでした。

しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。
                         ヨブ記2章10節

 しかしヨブは、ヨブ記3章に入ると、神さまを直接呪うことはしませんが、自分が生まれたことを、また生きていることを呪っています。

そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。
ヨブは言った。
私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。
                         ヨブ記3章1~3節

 そしてヨブ自身、ヨブ記3章の最後で「心は乱れている」と自らの精神状況を告白しています。神さまから「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(ヨブ記1章8節、2章3節)と言われたヨブが、「自分の生まれた日を呪う」ほど心乱れ、生まれた日を呪うという状況になっています。
 だからこそイエスさまは、このように語られます。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
                         ヨハネの福音書14章1節

 今週も、神を信じ、イエスさまを信じて歩みましょう。
                        (吉持日輪生)

テマン人エリファズの登場2024年12月15日

すると、テマン人エリファズが話し始めた。  
                      ヨブ記4章1節

 上記引用個所に登場する「テマン人エリファズ」ですが、このエリファズの名前は、ヨブ記だけに登場するものではありません。同一人物かは別にして下記の通りです。

エサウの子の名は次のとおり。エサウの妻アダの子エリファズ、(中略)エリファズの子はテマン、(中略)エサウの子で首長は次のとおり。エサウの長子エリファズの子では、首長テマン…                  
                      創世記36章10~15節(抜粋)

 このような創世記36章の記述から「エリファズ」は、エサウの長子であり、さらにエリファズの子にテマンが登場します。つまりエリファズは、アブラハムのひ孫、イサクの孫となります。出エジプト記を読んでいると「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(3章6節、15節、4章5節)という表現が登場しますが、ヤコブの兄エサウは、この流れから外れています。つまり「テマン人エリファズ」という名称は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の流れから外れた人物のことばという印象を読み手に知らせています。
 しかしテマン人エリファズの発言は、とてもバランスがとれています。ヨブのことを「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけてきた。あなたのことばは、つまずいた者を起こし、くずおれる膝をしっかりさせてきた」(3~4節)と評価しています。けれども同時に「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ」(7~8節)と主張し、ヨブが受けた災いが、ヨブの中に原因があり、その刈り取りをしたと考えています。
 ヨブ記の楽しみは、まさにこの点にあります。読者は、ヨブ記1章、2章で、ヨブが受けた災いの原因が神さまにあることを知りつつ、テマン人エリファズの主張を読むことができます。テマン人エリファズの主張は、確かに納得させられる要素がありますが、しかし神さまの前の事実とは違います。この神さまの前での事実と、私たち人間の理解とには常に大きなギャップがあることを、私たちはヨブ記を読み進めながら確認していくのです。
 聖書を通して示されているように、神さまは、ひとり子イエスさまを与えるほどにあなたのことを愛しておられます。この事実を、自分の考えや他の人の意見などよりも大切にすること、優先すること。これがキリスト教の信仰です。今週もこの信仰に立って歩みましょう。                          
                       (吉持日輪生)

テマン人エリファズの神理解(※「神理解」とは神をどのように理解しているか、ということ)2024年12月22日

神は低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。
神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない。
                        ヨブ記5章11~12節

 旧約聖書における主流派(アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神)の流れから外れていることを想像させる「テマン人エリファズ」の神理解が、冒頭で引用した個所に明確に記されています。他にも以下のような内容が記されています。

神は貧しい者を剣から、剣の刃から、強い者の手から救われる。
こうして弱い者は望みを抱き、不正は口をつぐむ。
                        ヨブ記5章15~16節

 ここに記されているようなテマン人エリファズの神理解は、私たちが持っている神理解と大きく違うものではありません。とても理解しやすい、受けとめやすい内容です。けれども私たちも含めヨブ記の読み手は、既にヨブ記1~2章を読み、神さまとサタンとのやり取りを知っているからこそ、テマン人エリファズの理解が間違っていることもわかります。
 聖書が語る天地万物を造られた神さまは、あまりにも大きく豊かなお方だからこそ、どんなに聖書を読み、どんなに神さまと祈りの交わりを深めても、私たちの能力で完全に理解できる存在ではありません。
 そういう意味で、私たちは常に、神さまのほんの一部分しか理解できていないことをわきまえておく必要があります。新約聖書ではこのように教えられています。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。       
                       コリント人への手紙第一13章4節

 神さまからの愛を注いでいただき、今週も「自慢せず」「高慢になりません」と慎みをもってクリスマスを迎え、クリスマスを喜びましょう。(吉持日輪生)

ヨブの苦悶2024年12月29日

ヨブは答えた。ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。
                         ヨブ記6章1~3節

 ヨブ記6章に記されているヨブのことばは、テマン人エリファズへの返答です。ヨブは、ヨブ記3章で自ら語ったことばが「激しかった」と反省の気持ちを表しつつも、その理由を明らかにしています。それは、「海の砂よりも重い」「苦悶」でした。財産を失い、子ども失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患う。しかもそのような苦しみを背負わなければならない理由、意味も分からない。そのような中での「苦悶」です。
 テマン人エリファズは、ヨブが苦しみを背負った理由、意味を次のように説明していました。

さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。                
                         ヨブ記4章7~8節

 つまりテマン人エリファズの主張は、ヨブの中に「不法」「害悪」があったから、その苦しみを刈り取っているというものでした。
 しかし私たちは、ヨブ記1章~2章を通して、ヨブが苦しみを背負うことになった理由を知っているため、テマン人エリファズの主張が間違っていることがわかります。ところが、ヨブはその苦しみの理由を知らないからこそ、ヨブの苦悶は続いているのです。
 私たちも、ヨブほどではないにしても、今、背負っている、また直面している「苦しみ」の意味が分からないために「苦悶」することがあります。その時の解決は、親に聞くことでもなく、また友人知人に聞くことでもなく、またこの世で地位の高い人や、社会的に力のある人に聞くのでもありません。そうではなく、すべてを知っておられ、すべての源である神さまに聞くことです。
 2024年に直面した苦しみの意味を神さまに問いかけつつ、新しく迎える2025年も神さまに一つ一つの意味を教えていただきながら、「地の塩」「世の光」としての歩みを重ねていきましょう。              (吉持日輪生)