私たちの「光と喜び、歓喜と栄誉」 ― 2024年11月10日
ユダヤ人にとって、それは光と喜び、歓喜と栄誉であった。
エステル記8章16節
冒頭に「光と喜び、歓喜と栄誉」とありますが、それは何ゆえの「光と喜び、歓喜と栄誉」なのでしょうか。
しかし、ハマンはモルデカイ一人を手にかけるだけでは満足しなかった。モルデカイの民族のことが、ハマンに知らされていたのである。それでハマンは、クセルクセスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を根絶やしにしようとした。 エステル記3章6節
このハマンの計画が、下記に引用した通り、帳消しにされただけでなく、ユダヤ人を根絶やしにしようとする存在を滅ぼすことが許されたゆえの「光と喜び、歓喜と栄誉」でした。
その中で王は、どの町にいるユダヤ人たちにも、自分のいのちを守るために集まって、自分たちを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、虐殺し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪うことを許した。
エステル記8章11節
しかし、私たち新約の時代以降に生きる者にとっての「光と喜び、歓喜と栄誉」は、エステル記に記されているようなものではありません。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コリント人への手紙第二5章17節
「目には目、歯には歯を」(出エジプト記21章24章前半)の考えから私たちを解放してくださるイエスさまの十字架と復活による贖いの業こそ、私たちの「光と喜び、歓喜と栄誉」です。
今週も、イエスさまの十字架と復活の恵みを噛みしめつつ、日々「新しく造られた者」として歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
エステル記8章16節
冒頭に「光と喜び、歓喜と栄誉」とありますが、それは何ゆえの「光と喜び、歓喜と栄誉」なのでしょうか。
しかし、ハマンはモルデカイ一人を手にかけるだけでは満足しなかった。モルデカイの民族のことが、ハマンに知らされていたのである。それでハマンは、クセルクセスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を根絶やしにしようとした。 エステル記3章6節
このハマンの計画が、下記に引用した通り、帳消しにされただけでなく、ユダヤ人を根絶やしにしようとする存在を滅ぼすことが許されたゆえの「光と喜び、歓喜と栄誉」でした。
その中で王は、どの町にいるユダヤ人たちにも、自分のいのちを守るために集まって、自分たちを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、虐殺し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪うことを許した。
エステル記8章11節
しかし、私たち新約の時代以降に生きる者にとっての「光と喜び、歓喜と栄誉」は、エステル記に記されているようなものではありません。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コリント人への手紙第二5章17節
「目には目、歯には歯を」(出エジプト記21章24章前半)の考えから私たちを解放してくださるイエスさまの十字架と復活による贖いの業こそ、私たちの「光と喜び、歓喜と栄誉」です。
今週も、イエスさまの十字架と復活の恵みを噛みしめつつ、日々「新しく造られた者」として歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
エステル記から学ぶこと ― 2024年11月10日
第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令と法令が実施された。ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった。
エステル記9章1節
冒頭の「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった」と読むと、少し戸惑いを覚えながらも、「神さまがそのようにされたのか」と受容できますが、その先を読み進めると、本当にこれでいいのかと思ってしまいます。
王は王妃エステルに言った。「ユダヤ人はスサの城で、五百人とハマンの息子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。ところで、あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたのさらなる望みは何か。 それをかなえてやろう。」
エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、明日も、スサにいるユダヤ人に、今日の法令どおりにすることをお許しください。そして、ハマンの息子十人を柱にかけてください。」
エステル記9章12~13節
「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった」だけでなく、さらにもう一日「ユダヤ人の敵」を攻撃することを求め、そしてそれが実施されていきます。
「神さまの愛」とか「神さまの赦し」など微塵も感じられない内容です。このようなエステル記から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。それはまさに人間の罪深さです。聖書の神さまを信じていても、また信じていなくても、私たちの中にはエステルと同様、「目には目」(出エジプト記21章24節前半)では終われない愚かさがあります。
「神」ということばも、神さまを表す「主」ということばも出てこないエステル記は、まさに神を認めない社会の罪深さに満ちています。私たちはエステル記を読みつつ、同じ罪深さが私の中にもあることを自覚し、だからこそ神さまを認め、神さまにその罪を赦していただく経験を重ね、私たちがまずお互いに愛し合い、赦し合う関係になることを求めていくことです。
今週も、お互いに愛し合い、赦し合う関係の中を歩みましょう。
(吉持日輪生)
エステル記9章1節
冒頭の「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった」と読むと、少し戸惑いを覚えながらも、「神さまがそのようにされたのか」と受容できますが、その先を読み進めると、本当にこれでいいのかと思ってしまいます。
王は王妃エステルに言った。「ユダヤ人はスサの城で、五百人とハマンの息子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。ところで、あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたのさらなる望みは何か。 それをかなえてやろう。」
エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、明日も、スサにいるユダヤ人に、今日の法令どおりにすることをお許しください。そして、ハマンの息子十人を柱にかけてください。」
エステル記9章12~13節
「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった」だけでなく、さらにもう一日「ユダヤ人の敵」を攻撃することを求め、そしてそれが実施されていきます。
「神さまの愛」とか「神さまの赦し」など微塵も感じられない内容です。このようなエステル記から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。それはまさに人間の罪深さです。聖書の神さまを信じていても、また信じていなくても、私たちの中にはエステルと同様、「目には目」(出エジプト記21章24節前半)では終われない愚かさがあります。
「神」ということばも、神さまを表す「主」ということばも出てこないエステル記は、まさに神を認めない社会の罪深さに満ちています。私たちはエステル記を読みつつ、同じ罪深さが私の中にもあることを自覚し、だからこそ神さまを認め、神さまにその罪を赦していただく経験を重ね、私たちがまずお互いに愛し合い、赦し合う関係になることを求めていくことです。
今週も、お互いに愛し合い、赦し合う関係の中を歩みましょう。
(吉持日輪生)
平和を語る者となる ― 2024年11月17日
実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。 エステル記10章3節
先週も触れましたが、エステル記は、「神」ということばも、神さまを表す「主」ということばも出てこない書物です。そして今回取り上げるエステル記10章の締めくくりも、神なき社会、神なき時代の中にあっても、大切なことが記されています。それは、モルデカイの姿を通して示されている「自分の全民族に平和を語る者」の存在です。
イエスさまは、イエス・キリストを信じる者に次のように語られています。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
マタイの福音書5章13~14節
このイエスさまのおことばから、教会ではクリスチャンの存在が、「地の塩」「世の光」となるようにと祈り、取り組んでいます。この「地の塩」「世の光」の中には、まさにエステル記に記されている「平和を語る者」としての役割も含まれているように思います。
イエスさまは、さらにこのようにも教えられました。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
マタイの福音書5章9節
私たちが、今、生きている社会、時代が、たとえ神を認める社会や時代でなかったとしても、その社会、時代に生かされている「地の塩」「世の光」として、平和を語り続け、平和をつくり続ける者として歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
先週も触れましたが、エステル記は、「神」ということばも、神さまを表す「主」ということばも出てこない書物です。そして今回取り上げるエステル記10章の締めくくりも、神なき社会、神なき時代の中にあっても、大切なことが記されています。それは、モルデカイの姿を通して示されている「自分の全民族に平和を語る者」の存在です。
イエスさまは、イエス・キリストを信じる者に次のように語られています。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
マタイの福音書5章13~14節
このイエスさまのおことばから、教会ではクリスチャンの存在が、「地の塩」「世の光」となるようにと祈り、取り組んでいます。この「地の塩」「世の光」の中には、まさにエステル記に記されている「平和を語る者」としての役割も含まれているように思います。
イエスさまは、さらにこのようにも教えられました。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
マタイの福音書5章9節
私たちが、今、生きている社会、時代が、たとえ神を認める社会や時代でなかったとしても、その社会、時代に生かされている「地の塩」「世の光」として、平和を語り続け、平和をつくり続ける者として歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
神をほめたたえる者として歩もう ― 2024年11月24日
ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。主はサタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
ヨブ記1章6~7節
今週からヨブ記ですが、先週まで取り扱ってきたエステル記との違いをとても感じる内容です。「神」も、「主」も、そして「悪魔」も、「サタン」も出てこないエステル記に対して、ヨブ記は冒頭引用個所の通り、いきなり「主」と「サタン」の会話から始まっています。そしてその内容は、「えっ?」と驚かされるものです。
主はサタンに言われた。「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。
ヨブ記1章12節
サタンは、主(神さま)の許可を受け、ヨブの財産をすべて失わせます。多くの若い者たちを失い(15、16、17節)、牛とろばを失い(14節)、羊を失い(16節)、らくだを失い(17節)、そして息子、娘たちを失います(19節)。
神さまを信じ、神さまの前に正しく歩んでいても、それでも神さまがサタンにヨブの財産を任せてしまったために起こった悲劇です。エステル記からの流れで読むと、神さまを認めていても、認めていなくても、悲劇は起こり、多くの命が失われていくことに目が向けられます。そのような中、ヨブは神さまに礼拝を献げ、このように語ります。
このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブ記1章20~21節
このヨブの姿から、私たちは人間の「創造の原点」に立ち返らされます。それは神に似せて創造された人として、神さまをほめたたえることです。なぜなら神さまが、私たちに与えてくださっているものは、計り知れないからです。
今週も、失ったものではなく、神さまが与えてくださっているものに目を留め、感謝し、賛美して歩みましょう。
(吉持日輪生)
ヨブ記1章6~7節
今週からヨブ記ですが、先週まで取り扱ってきたエステル記との違いをとても感じる内容です。「神」も、「主」も、そして「悪魔」も、「サタン」も出てこないエステル記に対して、ヨブ記は冒頭引用個所の通り、いきなり「主」と「サタン」の会話から始まっています。そしてその内容は、「えっ?」と驚かされるものです。
主はサタンに言われた。「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。
ヨブ記1章12節
サタンは、主(神さま)の許可を受け、ヨブの財産をすべて失わせます。多くの若い者たちを失い(15、16、17節)、牛とろばを失い(14節)、羊を失い(16節)、らくだを失い(17節)、そして息子、娘たちを失います(19節)。
神さまを信じ、神さまの前に正しく歩んでいても、それでも神さまがサタンにヨブの財産を任せてしまったために起こった悲劇です。エステル記からの流れで読むと、神さまを認めていても、認めていなくても、悲劇は起こり、多くの命が失われていくことに目が向けられます。そのような中、ヨブは神さまに礼拝を献げ、このように語ります。
このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブ記1章20~21節
このヨブの姿から、私たちは人間の「創造の原点」に立ち返らされます。それは神に似せて創造された人として、神さまをほめたたえることです。なぜなら神さまが、私たちに与えてくださっているものは、計り知れないからです。
今週も、失ったものではなく、神さまが与えてくださっているものに目を留め、感謝し、賛美して歩みましょう。
(吉持日輪生)
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