いつも主にあって喜びなさい ― 2026年08月30日
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ人への手紙 4章4節
パウロは4節において、「喜びなさい」と繰り返し命じています。どうすれば「いつも主にあって喜ぶ」ことができるでしょうか。ピリピ人への手紙4章4~7節から3つのポイントで学びます。
1.いつも主にあって喜ぶ(4節)
喜びとは、状況や環境に依存するものではなく、クリスチャンとしての生き方、土台そのものを表すものです。喜びとは、「神の愛を経験した時の魂の超越であり、生き方を変革していくもの」とも言われます。神さまに愛されている喜び。罪が赦されている喜び。そして永遠のいのちの希望に生きる喜び。これらの喜びはその時々の状況で現れたり消えたりする一時的ものではありません。救われた者の心の中には、聖霊なる神さまが住んでくださり、いつも神さまの愛が注がれています。いつも主にあるこの喜びを覚え、この喜びに生きる者とさせていただきましょう。
2.寛容な心を知らせる(5節)
もし、クリスチャンが試練や苦しみに直面しながらも、いつも主にあって喜ぶならば、周囲の人々は私たちの「寛容さ」を知ることになります。この「寛容さ」という言葉は、他者に対する「穏やかで寛容な忍耐」とも表現できます。寛容な心に生きるものは、時にキリストのようにへりくだり、しもべの姿となります。しかし、5節後半に「主は近いのです。」と書かれているとおり、苦難の中にあるときこそ、信じる者の心の中に住んでくださるキリストをより身近に覚え、キリストの再臨を待ち望むことができるのです。
3.願い事を神に知っていただく(6~7節)
クリスチャンは、あらゆる場合に感謝と祈りをもって人生のすべてを神さまに委ねることができます。「感謝」とは、私たちは神さまに造られた存在であり、すべては神さまから賜物として与えられ、神さまは善良で寛大なお方であることを認めることです。ですから、感謝とは後から来るものではなく、先に表されるべきものです。私たちの祈りと願いの答えは、すべての理解を超える神の平安が与えられることです。その平安は、まるで守備隊のように私たちの心と思いを「思い煩い」に陥らないように守ってくれます。ですから祈りとは平安を心の内に頂く行為です。
私たちがキリストを中心に、キリストとの関係に生きるとき、これらの約束が人生に実現することを体験できるのです。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 4章4節
パウロは4節において、「喜びなさい」と繰り返し命じています。どうすれば「いつも主にあって喜ぶ」ことができるでしょうか。ピリピ人への手紙4章4~7節から3つのポイントで学びます。
1.いつも主にあって喜ぶ(4節)
喜びとは、状況や環境に依存するものではなく、クリスチャンとしての生き方、土台そのものを表すものです。喜びとは、「神の愛を経験した時の魂の超越であり、生き方を変革していくもの」とも言われます。神さまに愛されている喜び。罪が赦されている喜び。そして永遠のいのちの希望に生きる喜び。これらの喜びはその時々の状況で現れたり消えたりする一時的ものではありません。救われた者の心の中には、聖霊なる神さまが住んでくださり、いつも神さまの愛が注がれています。いつも主にあるこの喜びを覚え、この喜びに生きる者とさせていただきましょう。
2.寛容な心を知らせる(5節)
もし、クリスチャンが試練や苦しみに直面しながらも、いつも主にあって喜ぶならば、周囲の人々は私たちの「寛容さ」を知ることになります。この「寛容さ」という言葉は、他者に対する「穏やかで寛容な忍耐」とも表現できます。寛容な心に生きるものは、時にキリストのようにへりくだり、しもべの姿となります。しかし、5節後半に「主は近いのです。」と書かれているとおり、苦難の中にあるときこそ、信じる者の心の中に住んでくださるキリストをより身近に覚え、キリストの再臨を待ち望むことができるのです。
3.願い事を神に知っていただく(6~7節)
クリスチャンは、あらゆる場合に感謝と祈りをもって人生のすべてを神さまに委ねることができます。「感謝」とは、私たちは神さまに造られた存在であり、すべては神さまから賜物として与えられ、神さまは善良で寛大なお方であることを認めることです。ですから、感謝とは後から来るものではなく、先に表されるべきものです。私たちの祈りと願いの答えは、すべての理解を超える神の平安が与えられることです。その平安は、まるで守備隊のように私たちの心と思いを「思い煩い」に陥らないように守ってくれます。ですから祈りとは平安を心の内に頂く行為です。
私たちがキリストを中心に、キリストとの関係に生きるとき、これらの約束が人生に実現することを体験できるのです。
(笠川路人)
最近のコメント