キリストにある者の損得 ― 2026年08月16日

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
           ピリピ人への手紙 3章7節

 イエスさまに出会う以前のパウロは、自分の家柄やパリサイ派という宗教的立場を人生における得だと思ってきました。しかし、イエスさまが彼の人生に来てくださったとき、すべてがひっくり返りました。なぜキリストを知っていることに、他のすべてを損と思うような圧倒的な価値があるのでしょうか。
 聖書における「知る」という言葉は、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりの中で相手を知り、お互いの関係の中に生きることを意味します。イエスさまはパウロの全ての罪を赦し、愛とあわれみにあふれた個人的関係に導いてくださいました。キリストを知ることによって、自分の社会的地位や人気、富や成功によって左右されない価値を得ることができます。それゆえにパウロは8節で、かつて得と思っていて、自分が失ったものは「ちりあくた」(ゴミのようなもの)だと言いました。これは、彼がキリスト以外のものを自分のアイデンティティー(存在する意味)の拠り所とすることを放棄したという宣言です。もしキリスト以外のものを人生の意味や拠り所とするならば、それは「ちりあくた」をつかむようなものです。得ではなく損をしている。逆に、キリストを知ることのすばらしさを体験し、キリストを中心として生きるならば、信仰による義(正しいとされる)が与えられ、たとえすべてを失ったとしても、私たちの魂は、キリストによって守られ、キリストと共に永遠に生きるものされます。
 さらにパウロは10節、11節でキリストの復活の力を知りたい、復活に達したいと告白しています。キリストのために苦しみや苦難があったとしても、永遠に生きる希望を持ち、復活のキリストを知り、味わうという希望について語ります。
 ところで、パウロがキリストのゆえに失った「ちりあくた」はどうなったでしょうか。彼はキリストのゆえにすべてを失いましたが、キリストにあってすべてにおいて豊かな者とされました。ユダヤ人としての家系、パリサイ人としての経験、学んだことのすべてがキリストのために用いられました。それは彼が、キリストを得て、キリストにある者と神さまから認められたからです。

 私たちもパウロに倣い、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを日々体験し、キリストにある者としての損得に生きる人生を歩ませていただきましょう。
                                (笠川路人)