闇でなく光の中を歩む2025年05月04日

これらの者は光に背く者。光の道を認めず、光の通り道にとどまろうとしない。
                            ヨブ記24章13節

 ヨブ記24章も、23章に引き続きヨブの発言が続きます。ヨブ記24章を「ともに聴く聖書アプリ」を用いて繰り返し聞きながら、ヨブ記23章が「光」とすれば、ヨブ記24章は「闇」だと感じました。先週の「恵泉」で取り扱ったように、ヨブ記23章ではヨブの特徴である「直ぐな心」について取り上げ、「赤裸々な」「包み隠さない」心のことだと書きました。
 それに対してヨブ記24章は、様々な悪が記されています。「地境を動かし」「群れを奪って」(2節)、「みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り」(3節)、「貧しい者たちを道から押しのけ、地の苦しむ者たちは、すっかりおおい隠される」(4節)、「着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中でも身をおおう物がない」(7節)、「ずぶれになり、避け所もなく、岩を抱く」(8節)、「みなしごは乳房から引き離され、貧しい者が持つ物は質に取られる」(9節)など、悲惨な状況、闇の出来事が記されています。
 ヨブ記24章前半に記されているこのような悪を行う人たちについて、16節以降ではそれらの人たちのことを「彼」と表現しています。「彼は暗くなってから家々に侵入する」(16節)、「朝はことごとく、彼のような者には暗黒である。彼は暗黒の恐怖と親しいからだ」(17節)、「彼は、子を産まない不妊の女を食いものにし、やもめに良くしない」(21節)などと記されています。まさに冒頭で引用した通りです。「これらの者は光に背く者。光の道を認めず、光の通り道にとどまろうとしない」(13節)人たちです。このように光にとどまろうとしない、またとどまれない私たちのために神さまは、イエスさまを与えてくださいました。

そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。」  
                    ヨハネの福音書12章35節

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
                    ヨハネの手紙第一1章7節

 今週も、光の中を共に歩み、共に進みましょう。(吉持日輪生)

聖書の神観、人間観2025年05月11日

主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。 
                         ヨブ記25章2節

まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。
                         ヨブ記25章6節

 ヨブ記25章は、シュアハ人ビルダデの3回目の発言となります。その発言量は、冒頭で引用した25章2節~25章6節までと、とても短いものです。しかしその短いビルダデの発言から、彼の持っている「神観」「人間観」が見えてきます。
 まずビルダデが持っていた神観ですが、冒頭で引用した25章2節の後半で「神はその高い所で平和をつくられる」とあるように、「神さまは、高いところにおられる」という神観です。またビルダデの人間観は、冒頭で引用している25章6節に表れていて「うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子」のところです。彼の人間観は、「うじ虫」「虫けら」と書いてあるように、全く人間を評価していません。
 では聖書が教えている、聖書の神さまが教えている「神観」「人間観」とはどのようなものでしょうか。

彼らは思い出した。神が自分たちの岩であり いと高き神が自分たちを贖う方であることを。             
                         詩篇78篇35節

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。         
                         へブル人への手紙1章3節

 このように神さまは高いところにおられるお方ですが、私たちと関わってくださり、私たちを贖い、罪からきよめ、とりなしていてくださいます。ビルダデは、部分的にはあっているのですが、高いところにおられる神さまが、低いところにいる人間と関わってくださること、また関わってくださるだけでなく、神さまにとって大切なひとり子を、私たちのためにこの世に送ってくださり、そのひとり子の十字架の贖いによって、罪をきよめ、神さまとの親しい交わり、永遠の交わりに加えてくださったところまでは理解できていませんでした。神さまが、私たちに「聖書」を与えてくださっていることを感謝しつつ、今週も、私たちのような者と親しくかかわってくださる神さまと共に歩みましょう。         (吉持日輪生)

神さまのささやき2025年05月18日

見よ、これらは神のみわざの外側にすぎない。私たちは神についてささやきしか聞いていない。御力を示す雷を、だれが理解できるだろうか。 
                 ヨブ記26章14節

 ヨブ記26章は、ヨブの返答が記されていますが、ヨブ記25章のシュアハ人ビルダデの3回目の発言と同様、短い節数となっています。しかしヨブ記は26章~31章までヨブの発言が続きます。ヨブとヨブの友人三人とのやり取りは、ヨブ記3章のヨブの発言から始まり、テマン人エリファズがヨブ記4章、ヨブ記15章、ヨブ記22章と発言し、シュアハ人ビルダデは、ヨブ記8章、ヨブ記18章、ヨブ記25章と発言し、ナアマ人ツォファルは、ヨブ記11章、ヨブ記20章で発言しています。結局3人のヨブの友人たちのことばは、ヨブを説得することができず、ヨブの発言を止めることもできませんでした。その結果、ヨブの発言が26章から31章まで続くことになります。
 ヨブ自身もこのように語っていました。

それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実でしかない。        
                 ヨブ記21章34節

 ヨブが神さまの許可のもとサタンから受けた苦しみは、人のことばでは癒されず、慰められませんでした。ヨブ記を読み進めつつ、私たちは人のことばの空しさを痛感させられます。そしてその一方で、神のことばの力強さ、確かさ、希望の豊かさを教えられます。
 ヨブ記の次の詩篇にはこのようなことばが記されています。

主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 
主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ 
主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。                               
                 詩篇19篇7~8節

 冒頭で引用したヨブのことばの中に「私たちは神についてささやきしか聞いていない」とありますが、「神さまのささやき」であっても、それは人のことばとは比べものにならないくらいに力強く、慰め、励まし、癒しに満ちています。今週も「神さまのことば」である聖書に親しみつつ歩みましょう。      (吉持日輪生)

偏ることなく、感情的になることなく2025年05月25日

私は、私の権利を取り去った神にかけて誓う。
私のたましいを苦しめた全能者にかけて。
私の息が私のうちにあり、 神の霊が私の鼻にあるかぎり、
私の唇は決して不正を言わず、 私の舌は決して欺くことを語らない。
                   ヨブ記27章2~4節

 ヨブに対して語られ続けたヨブの友人たちの発言の感情的なピークは、ヨブ記22章でした。ヨブは、友人テマン人エリファズから「あなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がない」(ヨブ記22章5節)と語られます。一方、このような発言に対するヨブの反論と感情的なピークは、今回のヨブ記27章の冒頭で引用した個所のように思います。
 ヨブの友人テマン人エリファズがヨブに対して「あなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がない」(ヨブ記22章5節)と語ることも偏っていますが、ヨブ自身が「私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない」と語るのも偏っています。
 このようなヨブとヨブの友人たちとのやり取りから見えてくることは、人間は本当に偏りやすい生き物だということと、もう一つは隣人からの感情的なことばに、感情的に応えてしまう生き物だということです。このように偏りやすく、感情的になりやすい私たちに聖書は、次のように語ります。

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。…
                   ローマ人への手紙3章9~10節(抜粋)

 このように神さまの前では「すべての人が罪の下」にあり、その点において神さまの前ではみな平等なのです。しかし聖書は、神さまの前で皆が罪人として平等であることを語るだけではありません。下記のようにも教えています。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
                   ローマ人への手紙3章22節

 神さまの前で差別なく区別なく「イエス・キリストを信じる全ての人に神の義が与えられる」のです。今週も、みことばに親しみ、偏ることなく、また感情的になることなく、イエス・キリストを信じつつ平安な日々を歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)