神さまはあわれみ深い ― 2025年04月06日
これが悪しき人間が神から受ける分、神によって定められた、彼の受け継ぐものである。
ヨブ記20章29節
ヨブ記20章は、ナアマ人ツォファルの発言が記されています。彼は、ヨブ記11章でも発言していました。ヨブ記11章は、ヨブ記20章ほど激しくはありませんが、ヨブに対する主張の方向性は同じです。
もし、手に不法があればそれを遠ざけ、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、そのとき、あなたは欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない。
ヨブ記11章14~15節
ナアマ人ツォファルの主張は、ヨブの中に「不法」があり、「不正」があるから、財産を失い、子どもを失い、そして自らも病にかかっているんだというものでした。その主張は、ヨブ記20章ではさらにストレートに語られています。
悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だ。たとえ、その者の高ぶりが天にまで上り、その頭が濃い雲にまで達しても、彼は自分の糞のようにすっかり滅び去る。かつて彼を見た者は「彼はどこにいるか」と言う。
ヨブ記20章5~7節
ナアマ人ツォファルは、ヨブが「悪しき者」「神を敬わない者」だから「自分の糞のようにすっかり滅び去る」と語っています。彼の主張は、「悪があるから罰せられる」という因果応報の考えです。確かに私たちが生きている現代社会の中にあっても、様々な「因果応報」に触れます。勉強しなければ合格できないし、不摂生をすれば健康を害します。けれども聖書は、「神さまのあわれみ」を教えています。願っているところに合格できなくても、別のところの合格を備えてくださり、健康を害して入院しても、様々な医療行為を通して回復へと導いてくださいます。「神さまのあわれみ」は確かにあります。
しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。
詩篇86篇15節
今週も「あわれみ深い神さま」と共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記20章29節
ヨブ記20章は、ナアマ人ツォファルの発言が記されています。彼は、ヨブ記11章でも発言していました。ヨブ記11章は、ヨブ記20章ほど激しくはありませんが、ヨブに対する主張の方向性は同じです。
もし、手に不法があればそれを遠ざけ、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、そのとき、あなたは欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない。
ヨブ記11章14~15節
ナアマ人ツォファルの主張は、ヨブの中に「不法」があり、「不正」があるから、財産を失い、子どもを失い、そして自らも病にかかっているんだというものでした。その主張は、ヨブ記20章ではさらにストレートに語られています。
悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だ。たとえ、その者の高ぶりが天にまで上り、その頭が濃い雲にまで達しても、彼は自分の糞のようにすっかり滅び去る。かつて彼を見た者は「彼はどこにいるか」と言う。
ヨブ記20章5~7節
ナアマ人ツォファルは、ヨブが「悪しき者」「神を敬わない者」だから「自分の糞のようにすっかり滅び去る」と語っています。彼の主張は、「悪があるから罰せられる」という因果応報の考えです。確かに私たちが生きている現代社会の中にあっても、様々な「因果応報」に触れます。勉強しなければ合格できないし、不摂生をすれば健康を害します。けれども聖書は、「神さまのあわれみ」を教えています。願っているところに合格できなくても、別のところの合格を備えてくださり、健康を害して入院しても、様々な医療行為を通して回復へと導いてくださいます。「神さまのあわれみ」は確かにあります。
しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。
詩篇86篇15節
今週も「あわれみ深い神さま」と共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
「おごらず」「高ぶらず」「足を踏み入れず」 ― 2025年04月13日
なぜ悪しき者が生きながらえて年をとっても、なお力を増し加えるのか。その子孫は彼らとともにあって、彼らの前に堅く立ち、その末裔は彼らの目の前に堅く立つ。彼らの家は平和で恐れもなく、神のむちが彼らの上に下されることもない。
ヨブ記21章7~9節
ヨブ記21章は、ヨブの発言が記されています。ヨブは、ヨブ記20章でナアマ人ツォファルから「悪しき人間」と決めつけられましたが、それに対する発言、反論が冒頭の引用個所です。
ヨブは、自らが「悪しき人間」でも、「悪しき者」でもないことを、自分自身が「力を増し加えるどころか、衰えていること」や、ヨブには「神のむちが下されているのに」、悪しき者には「神のむちが下されないこと」などに触れ、自らが「悪しき人間」でないことを伝えています。
しかし、ヨブ記21章は全体的に混乱しています。ヨブ自身も、なぜこのような苦しみ、試練に合うのか、ヨブの友人たちもその意味が理解できず、ヨブとヨブの友人たちの主張もかみ合いません。それはこれまでも触れてきた通り、ヨブ記1~2章の出来事を知る由のないヨブにも、ヨブの友人たちにも、分からないのが当然です。
そしてヨブ記21章はこのような言葉で終わります。
それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実でしかない。
ヨブ記21章34節
ヨブは、「あなたがた(ヨブの友人たち)の応答は、不信実でしかない」と語っています。私たちも、自らの限界を知る必要があります。
主よ 私の心はおごらず
私の目は高ぶりません。
及びもつかない大きなことや奇しいことに
私は足を踏み入れません。 詩篇131篇1節
詩篇作者のように「おごらず」「高ぶらず」「足を踏み入れず」、この姿勢を私たちも大切にしつつ、今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記21章7~9節
ヨブ記21章は、ヨブの発言が記されています。ヨブは、ヨブ記20章でナアマ人ツォファルから「悪しき人間」と決めつけられましたが、それに対する発言、反論が冒頭の引用個所です。
ヨブは、自らが「悪しき人間」でも、「悪しき者」でもないことを、自分自身が「力を増し加えるどころか、衰えていること」や、ヨブには「神のむちが下されているのに」、悪しき者には「神のむちが下されないこと」などに触れ、自らが「悪しき人間」でないことを伝えています。
しかし、ヨブ記21章は全体的に混乱しています。ヨブ自身も、なぜこのような苦しみ、試練に合うのか、ヨブの友人たちもその意味が理解できず、ヨブとヨブの友人たちの主張もかみ合いません。それはこれまでも触れてきた通り、ヨブ記1~2章の出来事を知る由のないヨブにも、ヨブの友人たちにも、分からないのが当然です。
そしてヨブ記21章はこのような言葉で終わります。
それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実でしかない。
ヨブ記21章34節
ヨブは、「あなたがた(ヨブの友人たち)の応答は、不信実でしかない」と語っています。私たちも、自らの限界を知る必要があります。
主よ 私の心はおごらず
私の目は高ぶりません。
及びもつかない大きなことや奇しいことに
私は足を踏み入れません。 詩篇131篇1節
詩篇作者のように「おごらず」「高ぶらず」「足を踏み入れず」、この姿勢を私たちも大切にしつつ、今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
神さまについて確かなことを語ろう ― 2025年04月20日
さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ。そうすれば幸いがあなたのところに来るだろう。神の口からみおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。もし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。自分の天幕から不正を遠ざけるなら。
ヨブ記22章21~23節
ヨブ記22章は、ヨブ記21章のヨブの少し混乱した発言を受けて、ヨブの友人テマン人エリファズが答えていますが、その内容もかなり感情的になっています。
人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。
ヨブ記22章2~3節
いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。あなたは理由もなく兄弟から質物を取り、着ている物をはぎ取って裸にし、疲れている人に水を飲ませず、飢えている人に食物を拒んだからだ。(中略)あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った。そのため罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。 ヨブ記22章5~10節(抜粋)
このテマン人エリファズの発言が正しければ、ヨブはかなりの悪人ですが、このようなヨブの友人の発言に対して、下記のようにヨブ記に記されています。
主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。
ヨブ記42章7節
テマン人エリファズと二人の友人たちに、主(神さま)は、「わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった」と責めておられます。「神さまについて確かなことを語っていない」エリファズですので、恐らくヨブ記22章のヨブに対する指摘も不正確な情報なのだろうと考えます。私たちには、テマン人エリファズの時代にはなかった神のことばとしての「聖書」がありますので、「聖書」を通して「神さまについて確かなことを語れる者」として歩みましょう。
(吉持日輪生)
ヨブ記22章21~23節
ヨブ記22章は、ヨブ記21章のヨブの少し混乱した発言を受けて、ヨブの友人テマン人エリファズが答えていますが、その内容もかなり感情的になっています。
人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。
ヨブ記22章2~3節
いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。あなたは理由もなく兄弟から質物を取り、着ている物をはぎ取って裸にし、疲れている人に水を飲ませず、飢えている人に食物を拒んだからだ。(中略)あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った。そのため罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。 ヨブ記22章5~10節(抜粋)
このテマン人エリファズの発言が正しければ、ヨブはかなりの悪人ですが、このようなヨブの友人の発言に対して、下記のようにヨブ記に記されています。
主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。
ヨブ記42章7節
テマン人エリファズと二人の友人たちに、主(神さま)は、「わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった」と責めておられます。「神さまについて確かなことを語っていない」エリファズですので、恐らくヨブ記22章のヨブに対する指摘も不正確な情報なのだろうと考えます。私たちには、テマン人エリファズの時代にはなかった神のことばとしての「聖書」がありますので、「聖書」を通して「神さまについて確かなことを語れる者」として歩みましょう。
(吉持日輪生)
直ぐな心をもって歩もう ― 2025年04月27日
そこでは正直な人が神と論じ合うことができ、私は、とこしえにさばきを免れるだろう。 ヨブ記23章7節
今回は、冒頭引用個所の「正直な」ということばに注目したいと思います。この「正直な」と訳されているヘブル語は、ヨブ記にとってキーワードとなる大切なことばです。
例えば「この人(ヨブ)は誠実で直ぐな心を持ち」(ヨブ記1章1節)の「直ぐな心」、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記1章8節)、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記2章3節)は、神さまがサタンとのやり取りの中で、ヨブに対して使った表現です。それが「直ぐな心」ということばで、冒頭引用個所の「正直な」と同じヘブル語です。
そして私たちは、ヨブ記を読み進めながら、ヨブの「直ぐな心」に触れ続けることができ、さらにヨブの発言を通して、神さまが語られる「直ぐな心」を具体的に知ることができます。みなさんは、ここまでのヨブの「直ぐな心」からの発言に触れ、どのような印象を持たれているでしょうか。私は、ここまで読み進めながら、ヨブの発言にふさわしいことばを探すと「穏やかさ」「冷静さ」ではなく、「赤裸々な」「包み隠さず」ということばが頭に浮かびます。
つまり神さまが語る「直ぐな心」「正直さ」とは、自分の中にある思いを赤裸々に、包み隠さず投げかけることを意味しているのかもしれません。そのように考えると、詩篇に記されている「祈り」にも、またサムエル記第二12章のダビデ王の姿や、またゲツセマネでのイエスさまの祈りにも通じるものを感じます。
まさにヨブが、冒頭引用個所で語っている通り「正直な人が神と論じ合うことができ」るのです。
私たちも、神さまの前では取り繕うことなく、「赤裸々な」「包み隠さず」、自分の思いをぶつける時、神さまと論じ合うことができ、神さまもそういう私たちのことを「直ぐな心」と認めてくださるのでしょう。
今週も、神さまの前に「直ぐな心」をもって、日々歩みましょう。(吉持日輪生)
今回は、冒頭引用個所の「正直な」ということばに注目したいと思います。この「正直な」と訳されているヘブル語は、ヨブ記にとってキーワードとなる大切なことばです。
例えば「この人(ヨブ)は誠実で直ぐな心を持ち」(ヨブ記1章1節)の「直ぐな心」、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記1章8節)、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記2章3節)は、神さまがサタンとのやり取りの中で、ヨブに対して使った表現です。それが「直ぐな心」ということばで、冒頭引用個所の「正直な」と同じヘブル語です。
そして私たちは、ヨブ記を読み進めながら、ヨブの「直ぐな心」に触れ続けることができ、さらにヨブの発言を通して、神さまが語られる「直ぐな心」を具体的に知ることができます。みなさんは、ここまでのヨブの「直ぐな心」からの発言に触れ、どのような印象を持たれているでしょうか。私は、ここまで読み進めながら、ヨブの発言にふさわしいことばを探すと「穏やかさ」「冷静さ」ではなく、「赤裸々な」「包み隠さず」ということばが頭に浮かびます。
つまり神さまが語る「直ぐな心」「正直さ」とは、自分の中にある思いを赤裸々に、包み隠さず投げかけることを意味しているのかもしれません。そのように考えると、詩篇に記されている「祈り」にも、またサムエル記第二12章のダビデ王の姿や、またゲツセマネでのイエスさまの祈りにも通じるものを感じます。
まさにヨブが、冒頭引用個所で語っている通り「正直な人が神と論じ合うことができ」るのです。
私たちも、神さまの前では取り繕うことなく、「赤裸々な」「包み隠さず」、自分の思いをぶつける時、神さまと論じ合うことができ、神さまもそういう私たちのことを「直ぐな心」と認めてくださるのでしょう。
今週も、神さまの前に「直ぐな心」をもって、日々歩みましょう。(吉持日輪生)
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