201510182015年10月18日

主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。…」     出エジプト記3章7節

「わたしは彼らの痛みを知っている」。とても励まされることばであり、慰められることばです。聖書の神さまは、私たちの祈り、叫びを聞いて下さるだけでなく、また私たちのしいたげられている様子を見られるだけでなく、私たちの痛みを知っていてくださるお方です。
そしてこの神さまのご性質は、新約聖書のイエスさまへと受け継がれていきます。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ書53章4節)。「そして自分(イエスさま)から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(第1ペテロ2章24節)。
神さまは、具体的に痛みを知っていてくださるお方だからこそ、見ているだけ、聞いているだけではなく、イスラエルを救うために具体的にモーセを遣わされ、また私たちのためにイエスさまをお遣わしになりました。そしてイエスさまは、私たちの救いのために具体的に十字架に架かられ、苦しまれたのです。
さて、そのような神さまを「私の神」として礼拝を献げる私たちは、聖書の神さまの姿勢に倣い、隣人が悩んでいる姿を見ているだけでなく、隣人の叫びを聞くだけでもなく、私たちも隣人の痛みを理解し、その痛みの一部を担う者として歩みたいものです。そこにこそ私たちが地の塩、世の光として存在していく意味があるのです。今週も、神さまの姿になり具体的に「痛みを知る」者、担う者として歩ませていただきましょう。           (吉持日輪生牧師)