20151101 パロのかたくなさの意味2015年11月01日

その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」                 出エジプト記5章1節

4章で神さまに従う思いへと導かれたモーセとアロンは、いよいよ5章でエジプトの王、パロの元へ行きます。上記は、まさにその箇所です。
さてモーセとアロンはパロに、神さまのことばとして「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭をさせよ」(1節)と語りかけますが、パロは何と答えているでしょうか。5章2節「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない」と、とても厳しい返事をしています。神さまから3章10節で「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と言われ、4章で神さまから励まされ、ようやく覚悟を決めてパロのもとへ出ていったにもかかわらず、パロは聞く耳を持ってくれませんでした。
なぜ神さまは、モーセを遣わしておきながら、すんなりエジプトからの脱出を導いてくださらないのでしょうか。その理由の一つと考えられるのが、2節のパロの応答の中にあります。それは「私は主を知らない」です。このことば通りパロは「主」を知りませんでした。そうであるならば当然神さまは、パロに神さまのことを知ってもらいたいと考えられたことでしょう。それゆえ神さまはパロと暫く関わろうと決められたのです。事実、神さまは次のようにも語られています。「しかし、わたしは彼(パロ)の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう」(4章21節)。
あなたの回りにおられる福音に対して心をかたくなにされている方も、神さまを知るための大事な時間を歩まれているのです。そうであるならば、その人にこそ、私たちは、祈りつつ、知恵をいただきつつ、そして聖霊なる神さまの助けを大いにいただきつつ神さまのことを繰り返し、繰り返し伝えていく必要があるのです。今週もその人に神さまのことを伝えていきましょう。(吉持日輪生牧師)

20151108 全能の神(エル・シャダイ)さまを知るために2015年11月08日

神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。      出エジプト記6章2~3節

モーセとアロンがパロに語った「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ」(出エジプト記5章1節)はきっぱり断られ、モーセとアロンのとった行動ゆえに労役がさらにきつくされた民からは批判され、とモーセとアロンの置かれている状況はとても厳しいものでした。そのような中にあるモーセとアロンに神さまは語りかけられます、「わたしは主である」と。しかも「わたしは主である」との語りかけは1回だけではありません。上記の出エジプト記6章2節以外に「それゆえイスラエル人に言え。わたしは主である」(6節)、さらに「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを・・・」(29節)と繰り返し語られています。
さらに今回の「わたしは主である」には、もう一つの神さまの特徴が重ねられていました。それが3節の「全能の神(エル・シャダイ)」です。神さまは、この出エジプトのプロセスを通して「すべてをなすことのできる神」であることを示したかったのです。そのためにモーセとアロンを窮地に追いやられているのです。モーセは自分の置かれている状況を次のように分析しています。「しかしモーセは主の前に訴えて言った。『ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。』」(出エジプト記6章12節)。モーセはよく分かっていました。自分が口べたであることも、またイスラエル人でさえ自分の言うことを聞いてくれないのに、パロが聞いてくれるわけがないことも。しかし全能の神(エル・シャダイ)さまは、この後、口べたなモーセを用い、確かにイスラエルの民の出エジプトを完成、完了なさいました。
もしかするとあなたが今、窮地に追いやられているのも、あなた自身が全能の神さまを知るためなのかもしれません。今週も全能の神(エル・シャダイ)さまに信頼して歩ませていただきましょう。          (吉持日輪生牧師)

20151115 いつまでも従順でありたい2015年11月15日

そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。       出エジプト記7章6〜7節

この7章の興味深いところは、ここで初めてモーセとアロンの年齢が紹介されていることです。エジプトを脱出するモーセの生涯については使徒の働き7章において、40歳でミデヤンの地に逃れ、「40年たった」(使徒7章30節)、つまり80歳でエジプトから脱出することが記されていますが、出エジプト記においてモーセの年齢が記されているのはここだけで、その後は記されていません。
さて、なぜここで初めて年齢のことが紹介されたのでしょうか。そのことを考える上で参考になるのが、6節のことばです。「そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした」です。モーセとアロンの神さまに対する従順な姿が記された後、神さまは年齢のことを伝えたくなったのです。しかもモーセの年齢だけでなく、兄アロンの年齢も記したくなったのです。なぜでしょうか。たまたまモーセの年齢とアロンの年齢を記しているのではありません。神さまは、読み手に知ってもらいたかったのです。このモーセとアロンの従順な姿が、何歳の時のことであったかを。そして読み手のあなたに、あなたはこの年齢でここまで従順に神さまに従えますか、と訴えたかったのです。
私の父(吉持章)も、来年80歳になります。「老いては子に従え」と言われますが、末っ子の私に対してあまり従順ではありません。しかし、神さまの前では、今も従順である父の姿に、私も見習っていきたいと思わされています。
80歳のモーセのように、また83歳のアロンのように、老年になっても、またどんなに歳を重ねても、神さま前では、神さまの言われる通り、神さまの命じられる通り、素直に、従順に従う者として歩ませていただきましょう。
(吉持日輪生牧師)

20151122 自然を治められる神さま2015年11月22日

モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
出エジプト記7章20〜21節

この「水が血になる」という災いが、このあとエジプトに下る「10の災い」の1つ目の災いです。この災いを文字通り「水が血になった」と捉えることも一つの解釈ですが、いわゆる「赤潮現象」と捉えることもできます。「赤潮現象」とは「プランクトンの異常増殖」で、私の幼い頃にはよくニュースで取り上げられていました。その内容は、「赤潮」による「大量の魚の死」と「悪臭」です。上記聖書箇所の「ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり」と重なること、また見た目も「赤く」なるため「赤潮現象」を神さまが災いとして起こされたと捉えることができます。そして8章に入ると2つ目の災いが記されています。「アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった」(出エジプト記8章6節)。つまり2つ目の災いは「かえるの大量発生」でした。この災いを「赤潮現象」から考えると、「プランクトンの異常増殖」により大量の魚が死に、その結果「かえるの卵」や、「オタマジャクシ」を餌にしていた魚が減少、ゆえに「かえるの大量発生」へとつながったと考えられます。そして8章では3つ目の災いも始まります。「そこで彼らはそのように行った。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった」(出エジプト記8章17節)。これも「かえるの大量発生」のつながりで考えると、「大量のかえるの死骸」に蛆虫が発生し、それが大量の「ぶよ」となったと考えられます。
神さまは、生命の連鎖を支配し、管理する力があるからこそ、これらの災いがエジプトにもたらされたのです。私たちもパロのように心を頑なにせず、日々の生活の中で起る小さな災い、大きな災いから神さまの御声をしっかりと聞き取り、その御声に従って歩ませていただきましょう。      (吉持日輪生牧師)

20151129 ある地を特別に扱い、守られる神さま2015年11月29日


わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。   出エジプト記8章22節
ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。
                       出エジプト記9章26節
出エジプト記7章から始まった10の災いは、9章に入っても続きます。3つ目の災いである「ぶよ」の大量発生後に起こった4つ目の災いは「あぶ」の大量発生、そして5つ目の災いは「皮膚病」、それに続いて6つ目が「腫れ物」と続きます。これらの災いもつながりがあり、恐らく「ぶよ」「あぶ」といった羽のある虫によって伝染病が拡散し、「皮膚病」「腫れ物」を流行させたと考えられます。
さてこのように1つ目の災いから見られた「異常発生」「大量発生」という災いは、6つ目の災いでひとまず落ち着きます。しかしその後の7つ目からは、少し趣が変わります。7つ目の災いは「雹の災い」ですが、実際聖書を良く読むと「雷」と「雹」が記されていますので、恐らく積乱雲によってもたらされた「雷」と「雹」と考えられます。
このようにこれらの災いはこの世の現象で説明でき、そこには自然を治められる神さまの姿が現わされています。しかし、これらの災いがこの世の現象だけで説明できないのは、上記聖書にある通り、同じエジプトの中にあって、その災いが及ばない場所があったことです。それが、イスラエル人が住んでいた「ゴシェンの地」でした。上記聖書箇所で「ゴシェンの地を特別に扱い・・・その地の真ん中にいる」と記されています。神さまは、ある地を特別な場所として扱ってくださり、そこに住まわれ、そこを守られるお方です。神さまがこの日本という地を特別に扱い、お守りくださるように祈りましょう。
(吉持日輪生牧師)