エジプトの恥辱とは2020年04月05日

主はヨシュアに告げられた。「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。」それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。                      ヨシュア記 5章9節

 上記個所にある「エジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた」とは、「割礼」のことを指して言っていることばです。イスラエルの民は、エジプトにいる時は生まれてくる男子に割礼を施していましたが、エジプトを出て、荒野を旅し続けている間は、割礼を施すことができていませんでした。
 なぜ神さまは、約束の地に入るこのタイミングで割礼を施すように促されたのでしょうか。また切り落とされる包皮を「エジプトの恥辱」と表現したのでしょうか。当時のエジプトは、ピラミッドに代表されるように様々な面で最先端に満ちていました。「恥辱」ではなく、まさに「誇り」になるものばかりでした。にもかかわらず神様は、割礼を通して「エジプトの恥辱を取り除いた」と言われるのです。
 新約聖書においては、パウロも同じようなことを語っています。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。
                       ピリピ人への手紙3章7~8節
 
 イスラエルの民は、「約束の地」を前にして、「エジプトの栄華」を「エジプトの恥辱」と考えるようになり、パウロは「神さまの約束」のすばらしさを知り、自らの「栄光の経歴」を「ちりあくた」と思うようになったのです。私たちも、「神様の約束」を知る時、過去の栄光や、最先端の技術も、崇高な知恵も、すべて「恥辱」「ちりあくた」に思えるようになるのです。
 ですから私たちも、新型コロナウイルスの様々な情報に耳を傾けるだけではなく、恵みと祝福に満ちた「神さまの約束のことば」に耳を傾け、今週も歩みましょう。                     (吉持日輪生)

7日目のときの声2020年04月12日

七日目、朝早く夜が明けかかるころ彼らは起き、同じようにして町の周りを七周回った。この日だけは町の周りを七周回った。七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。           ヨシュア記 6章15~16節

 ヨシュア記6章を読んでの最初の疑問、違和感は、7日目に活動していることです。しかも、それまでの6日間以上の一番の活動をしていることです。7日目は休むという「安息日規定」が、全く尊重されていません。

神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。                  創世記 2章2節

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。  
                       出エジプト記 20章8~10節

 しかし、ちょうどイエスさまの復活をお祝いするイースターを思う時、次の聖書のことばと重なります。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
                   コリント人への手紙第一 15章52節

 この個所をそのように理解すると、「エリコの城壁崩壊」は、まさに私たちにとっては、イエスさまの復活によって「死」が打ち破られたことの型であり、私たちが7日目に集まり、「ときの声」ではないけれども、賛美を神さまに、イエスさまに献げることの型と言えます。
 これからも主の復活を覚え、主の日、日曜日に集まり、「ときの声」「賛美の声」を上げましょう。献げましょう。            (吉持日輪生)

「立て」と言われる神さま2020年04月19日

主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。                       ヨシュア記7章10節

立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。                ヨシュア記7章13節

 神さまは、ここでヨシュアに「立て」(10節)、「立て」(13節)と語られます。
 アカンの「聖絶の物の一部を取った」罪のゆえに、アイという町との戦いに敗れたヨシュアは、意気消沈し、焦りを覚え、うなだれていました。
 そのようなヨシュアに、神さまが語られた言葉が、上記の聖書個所です。ここから天地万物を創造された神さまの励まし方が見えてきます。13節に「明日のために」ということばがありますが、神さまは、過去ばかりを見るお方ではなく、また明日だけに目を向けるお方でもありません。「明日のために、今日、今、何をするのか」を示してくださいます。イエスさまも次のように語られています。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
                  マタイの福音書6章33~34節

イエスさまの十字架によって過去の罪を赦していただき、イエスさまが共にいて下さるゆえに「明日の心配」を取り除いていただき、「立て」と言われる神さまに励まされつつ、「明日のために」今日という日を、一日一日大切にして歩みましょう。                 (吉持日輪生)

「みおしえの書(聖書)」の適用範囲2020年04月26日

その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが、イスラエルの集会全体、および女と子どもたち、および彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。 
                           ヨシュア記8章34~35節

 アカンの罪が取り除かれた後、神さまはヨシュアに対して「恐れてはならない。おののいてはならない。(中略)アイに攻め上れ」(ヨシュア記8章1節)と励まします。そしてアイの町を攻め取ったヨシュアは、「主のために一つの祭壇を築いた」(ヨシュア記8章30節)とあり、また勝利におごり高ぶることなく、神さまの言葉に耳を傾けています。
 その時の状況は、上記にある通り「みおしえの書」に記されている「律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げ」ています。この状況で特筆すべきことは、そのことばを誰が聞いたかということです。アイとの戦いで活躍した兵士たちだけが聞いたかというとそうではありません。また部族のリーダーたちだけが聞いたかというとそうでもありません。
 上記聖書個所で、はっきりと記されている通り「イスラエルの集会全体、および女と子どもたち、および彼らの間で生活する寄留者」に語られました。
 ここに「みおしえの書」、今日でいうところの神さまのお言葉が書かれている「聖書」の適用範囲が明らかに示されています。「聖書」は、大人だけのものではなく、また男性だけのものでもなく、ここに書かれている通り「女と子どもたち、そして共に生活をしている寄留者」も対象だということです。イエスさまの宣教の働きを思い返しても、そこには男性・女性、大人・子ども、そしてユダヤ人以外の人たちもいました。
 私たちも、茨木市に建て上げられているキリストのからだなる教会として、この地に住む「男性・女性、大人と子ども、そして外国の方々」に聖書のことばを届けていく責任があります。2020年度から掲げている「福音を99%に届ける」教会として、今週も聖書のことばを「男性・女性、大人と子ども、そして外国人」に届けていきましょう。(吉持日輪生)