「神のことばを聞く」と「神に聴く」2020年05月03日

そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、主の指示を求めなかった。        ヨシュア記9章14節
 
 前回取り上げたヨシュア記8章では、「みおしえの書」を読み上げ、神さまのことばに民全体が耳を傾けていたイスラエルの民のことが記されていました。しかしヨシュア記9章では、どうでしょうか。上記聖書個所にある通り「主の指示を求めなかった」とあります。
 その後、彼らは、盟約を結んだ相手に自分たちが騙されたことを知りますが、その時も「主の支持を求める」ことをしていません。

彼らと盟約を結んでから三日たったとき、人々は彼らが近くの者たちで、自分たちのただ中に住んでいるということを聞いた。(中略)イスラエルの子らは彼らを討たなかった。会衆の上に立つ族長たちがイスラエルの神、主にかけて彼らに誓ったからである。           ヨシュア記9章16~18節

 上記聖書個所でも「イスラエルの神、主にかけて彼らに誓った」ことを大切にしていますが、「主の指示を求める」ことをしていません。
 つまりイスラエルの民は、「みおしえの書」のことばを聞いていましたが、「神さまに聴く」ことにまで至っていなかったということでしょう。私たちも、聖書のことばを読んでいる、聞いているけれども、そこから「神さまに聴く」という姿勢に至る必要があるのです。
 「神さまのことばを聞く」と「神さまに聴く」の違いは、前者が神さまのことばを表面的に理解する聞き方であり、神さまの心を心として聞くことが「神さまに聴く」ことだと思っています。
 新型コロナウイルスの問題課題に直面している私たちも、一人一人が「神さまに聴き」つつ、この時をキリスト者として、「地の塩」「世の光」として歩むことを心がけましょう。      (吉持日輪生)

神さまの憐み深さに倣おう2020年05月10日

ギブオンの人々はヨシュアのところ、ギルガルの陣営に人を遣わして言った。「しもべどもから手を引かないで、急いで私たちのところに上って来て、私たちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人の王たちがみな、私たちに向かって集まっているのです。」ヨシュアはすべての戦う民たちとすべての勇士たちとともに、ギルガルから上って行った。主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」                ヨシュア記10章6~8節

 ヨシュア記9章から登場する「ギブオンの人々」の存在はとても興味深いものがあります。変装をしてイスラエルの人たちをだまし盟約を結びます。しかしそのためイスラエルの中では「しもべ」として扱われ、さらにヨシュア記10章にある通り、近隣の部族から嫌われ「ギブオンを討ちましょう」(ヨシュア記10章4節)と言われています。
 私の感覚からすれば、ギブオンのこの状況は自業自得のように思いますが、神さまのギブオンに対する関わり方には、神さまの憐れみの豊かさ、大きさを感じます。ギブオンから助けを求められたヨシュアに対して神さまは、このように語られています。

主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」                  ヨシュア記10章8節

 神さまは、ヨシュアに「あなたの前に立ちはだかる者いない」と勝利を約束しています。ギブオンがしたこと、また「神さまに聴こうとしない」イスラエルの民を咎めるのではなく、憐れみ深くイスラエルに対しても、ギブオンに対しても接しておられます。
 私たちも、日々神さまの豊かな憐れみ深さに育まれ、守られ、支えられています。ですから私たちも、周りの人に対して憐れみ深くありたいと思います。今週も、神さまの憐れみ深さをもって日々歩みましょう。         (吉持日輪生)

「神さまの厳格さ」を想う2020年05月17日

主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。                    ヨシュア記11章15節

 前回、ヨシュア記10章からは「神さまの憐れみ深さ」を取り扱いました。今回は、前回の「憐れみ深さ」とは真逆に見える「神さまの厳格さ」を取り扱います。
 ヨシュア記10章に引き続いて、ヨシュア記11章には「聖絶した」ということばが、度々登場します。ヨシュア記10章では、1節「聖絶し」、28節「聖絶し」、35節「聖絶した」、37節「聖絶した」、39節「聖絶し」、40節「聖絶した」とあります。ヨシュア記11章では、11節「聖絶した」、12節「聖絶した」、20節「聖絶するため」、21節「聖絶した」とあります。人が人を殺すということは、いつの時代にあっても人の心に痛みをもたらします。しかし、イスラエルの民は、その自分の心の痛みよりも、神さまの命令を重んじたのです。そこに「神さまの厳格さ」への忠実な、誠実な姿勢を覚えます。そしてその「神さまの厳格さ」を重んじる姿勢は、冒頭で引用している聖書個所を読むと、モーセからヨシュアに引き継がれていることが分かります。
 さて私たちは、どうでしょうか。イエスさまを通して「神さまの愛」「神さまの憐れみ深さ」に触れている私たちは、どこかで「神さまの厳格さ」を避け、触れないようにしていないでしょうか。聖書は、はっきりとこのように語っています。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。                  ローマ人への手紙6章23節

 「神さまの厳格さ」は、「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」と表裏一体です。「神さまの厳格さ」があいまいになる時、「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」もあいまいになってしまいます。私たちには罪があるからこそ、本来いつ死んでもおかしくない存在です。しかし、その存在が今日も生かされているのは、まさに「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」です。今週も、「神さまの厳格さ」を覚え、「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」に育まれて歩みましょう。     (吉持日輪生)

神さまの御業を忘れない2020年05月24日

ヨルダンの川向こう、日の昇る方で、アルノン川からヘルモン山までの全東アラバにおいて、イスラエルの子らが討ち、占領した地の王たちは次のとおりである。                   ヨシュア記12章1節 

 上記聖書個所に「ヨルダンの川向こう、日の昇る方で」とあるが、ヨシュア記12章に記されている内容は、まさに「日の昇る」勢いのイスラエルの歩みです。さらにヨシュアがリーダーになる前のモーセの時のことも記されています。
 特に9節以降は、町の名前が「○○の王」という形で記されていて、最後の24節に「全部で31人の王である」とまとめられています。
 9節の「エリコの王」と聞けば、ヨシュア記6章を思い出しますし、また「ベテルの隣のアイの王」と読めば、ヨシュア記7章の「ユダ部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子アカン」の過ちを思い出します。
 恐らく、ある時代までは、それぞれの町の名前を読むと、その町を攻め取った時の経験を思い出し、またその中で教えられた神さまからの訓練を想起していたことでしょう。そのようなことを思い巡らす時、伝道者の書や、詩篇の言葉を思い出します。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。             伝道者の書3章11節

わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。                         詩篇103篇2節

 このような聖書の信仰からすると、失敗も、成功も、計画通り進むことも、そうでないことも、「神さまがなされたこと」であり、「美しく」「良いもの」だからこそ、そこからたくさんのことを学ぶことができるのです。
 今週も、経験する一つ一つの背後に神さまを認め、「主の良くしてくださったこと」として、忘れないで、そこから様々なことを学ばせていただきましょう。                           (吉持日輪生)

年を重ね老人になった、しかし・・・2020年05月31日

ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。                         ヨシュア記13章1節

 神さまが、老人になったヨシュアに語ったことばが、上記聖書個所です。「しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている」。
 この時、ヨシュアはいったい何歳の老人だったのでしょうか。参考になるのは、かつてモーセのもとで、約束の地を一緒に偵察しに行ったカレブです。彼の年齢についてヨシュア記14章にこのように記されています。

主のしもべモーセがこの地を偵察させるために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心にあるとおりを彼に報告しました。(中略)ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。                
                         ヨシュア記14章7~10節

 45年前にヨシュアと一緒に偵察に行ったカレブが、この時85歳ということです。ですからおそらくヨシュアも同じくらいと考えて良いでしょう。神さまは、80代半ばから後半のヨシュアに上記の言葉「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている」と語られているのです。

 新型コロナウイルスの影響で家にこもりがちになっている私たちに対するチャレンジに満ちたことばです。ふさぎこみ、老け込んでしまっている私たちの心をもう一度神さまのことば「非常にたくさん(やるべきことが)残っている」に奮い立たされながら、気持ちの上でも「緊急事態」を解消して歩み始めましょう。                (吉持日輪生)