20160605 「愛/恵み」と「ヘセド」2016年06月05日

あなたは知っているのだ。あなたの神、【主】だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
申命記7章9節

前回は「罪を犯す」と「ハーター」でした。今回は「愛/恵み」と訳される「ヘセド」について見ていきましょう。
愛、恵みとは日本語ではどのような意味があるでしょう。まず「愛」は、他よりもある物や人を大切に思うという気持ちを指す言葉として良く用いられています。「私はサッカーが好きです」より「私はサッカーを愛している」と言うと、他のものに比べてサッカーを特別に大切にしていることが伝わります。仏教でも、愛は執着心と強く結びついたものとされ、何かを特別なものとすることと結びついています。次に、「恵み」は、強いものが弱いものに対して何かを与えることや、大きな存在である自然などから何かを得る時によく使われます。自然の恵みや大地の恵み、恵みの雨などの使い方をしますし、貧しい人に恵みを施すという使い方もします。
一方で「愛/恵み」と訳されているヘブライ語の「ヘセド」は、多少違う意味で用いられています。新改訳聖書では、「ヘセド」は、愛や恵み、真実、誠実などに訳されています。また、辞書を見ると、loyalty, faithfulness, kindness, love, mercy という意味で紹介されています。このように、「ヘセド」は幅広い意味を持ち、「真実」や「誠実」という意味で用いられていることから、日本語の「愛」や「恵み」とは異なるということが分かります。
では「愛/恵み」と訳されている「ヘセド」は、どのような意味で使われているのでしょうか。それは、「契約に忠実な愛」という意味で使われていると言われています。神様は、様々な契約を特定の人間と結びました。その契約に対して忠実であるということで、人間に対して愛を示し、恵みを与えるのです。だからこそ、この「ヘセド」には真実や誠実という意味も付属しているのです。私たちの神様は約束を必ず果たす誠実で真実な方です。その誠実さや真実さが、愛であり、恵みなのです。この、約束に誠実で真実であり続けるという神様の性質から神様の愛や恵みに気づいていきましょう。(吉持尽主伝道師)

「知る」と「ヤダア」2016年06月12日

サムエルはまだ、【主】を知らず、【主】のことばもまだ、彼に示されていなかった。                       サムエル記第一3章7節

前々回から、ヘブライ語と日本語で意味合いの異なる言葉を紹介しています。前回は、「愛/恵み」と訳される「ヘセド」でした。今回は、「知る」と「ヤダア」について見ていきましょう。
日本語で「知る」とはどのような時によく使われるでしょうか。「友達が元気でいることを知る」とか「カレーの作り方を知る」など、情報を得ることや、新たな知識を身につけることを指してよく使われます。
一方で、ヘブライ語の「ヤダア」はどうでしょうか。「ヤダア」も情報を得ることや、新たな知識を身につけることを指して使われることがありますが、「ヤダア」には、日本語と異なるある重要な特徴があります。
上記の箇所をご覧ください。サムエルは、エリという人物の元で主の宮で働き、「主に仕えていた」(サムエル記第一3:1)と言われています。しかし、その数節後である上記の箇所では、「主を知らない」と記されているのです。サムエルはこの後、主と言葉をかわします。つまり、その主と言葉を交わすことで初めて、主を「ヤダア」「知った」のです。サムエルは、主の宮に仕えていたということから、もちろん主という方がどのような人物かを知識として持っていたでしょうし、主の名前である聖4文字(YHWH)も知っていたでしょう。しかし、その状態ではまだ「ヤダア」「知っている」状態ではなかったのです。このことから、「ヤダア」には「体験的に知る」という重要な特徴があることが分かります。
また、旧約聖書では夫婦が性的関係を持つことを「ヤダア」「知る」という表現で表すことがあります。ここにも、「ヤダア」「知る」ということが、単なる知識ではなく、体験的に知ることであり、全人格的な知であるということが示唆されています。
預言書を読むと、主を知識としては知っているが、体験的に主を「ヤダア」していない「知ら」ないという表現がよく出てきます。キリスト者も、イエス・キリストという方の名前も物語も知っているが、体験的に、そして全人格的に知っているのかということを問わなければならないかもしれません。(吉持尽主伝道師)

「悪」と「わざわい」、「ラア」と「ラア(フ)」2016年06月19日

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
                           ヨナ書3章10節

今回も引き続き、日本語では分かりづらいヘブライ語の特徴に注目していきましょう。今回は、「悪」と訳される「ラア」と「わざわい」と訳される「ラア(フ)」※について見ていきましょう。
ヘブライ語の「ラア」と「ラア(フ)」は強く関連しています。創世記6章5節にはこう記されています。「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」ここでの「悪」は「ラア(フ)」、「悪い」は「ラア」なのです。つまり、「ラア」も「ラア(フ)」も「悪」という意味が核となった単語なのです。
この理解の上で上記の箇所を見てみましょう。悪の道にいた彼ら(ニネベの人々)が、立ち返ろうとした。つまり、「ラア」をやめて、立ち返ろうとしたのです。すると、神からのわざわいがなくなった。つまり、神からの「ラア(フ)」がなくなったということです。このことから、人間が「ラア」をすると、神からの「ラア(フ)」が下るという仕組みがあることが分かります。日本語訳すると、人間が「悪」を行うと、神が「悪」を下すとなってしまいますが、神が悪を行うことはありませんから、わざわいが適しているでしょう。いずれにしろ、人間が「悪」を行うときに、それに呼応して、神からの「わざわい」があるのです。ヘブライ語を見ると、このような関係性が、はっきりとしてきます。
さて、私たちが普段生活していると、わざわいとも思える悪いことが起きます。それをすぐに人や環境のせいにするのではなく、まずは自分自身を省みてはどうでしょうか。聖書では、人間関係のこじれもわざわいの一つとして扱われています。自らの生活で、特に人間関係で問題を抱えた場合、まずは、自分に悪がなかったか、それを考える必要があるでしょう。(吉持尽主伝道師)

※ラア(フ)の(フ)は、発音上あまり聞こえないが、表記上は(フ)に近い音があるため、このように記している。

「ハラル」と「ほめたたえる」2016年06月26日

【主】はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。    エレミヤ書9章23節
【主】に向かって歌い、【主】をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。      エレミヤ書20章13節

 ここ数回の恵泉では、日本語では分かりづらいヘブライ語の特徴に注目しています。今回は、「ほめたたえる」と訳されることの多い「ハラル」という動詞について、見ていきましょう。
 ヘブライ語の「ハラル」とは、辞書で、praise, extol, boast と紹介されており、日本語では「ほめたたえる」「誇る」と訳されることが多い動詞です。この「ハラル」は、「ハラル」する対象、目的語が重要です。
 上記の箇所を見てください。1つ目の箇所で、「誇るな」と訳されている部分は「ハラル」です。つまり、知恵や力、富を「ハラル」するなと言われているのです。次に、2つ目の箇所は、「ほめたたえよ」が「ハラル」で、主を「ハラル」せよと言われているのです。このように、何を「ハラル」するかで訳し分けられています。また、「買う者は『悪い、悪い』と言うが、買ってしまえば、それを自慢する。」(箴言20:14)というように、日本語では自慢すると訳されている箇所もあるのです。
 さて、皆さんは、日々の生活で何を「ハラル:誇って」いるでしょうか。
私たちには、誇りとするものが沢山あります。知恵、力、富、つまり、学歴や職場での地位、お金、経験や能力、所有しているもの、それらを「ハラル:誇って」も何の意味もないのです。それらを「ハラル:誇る」ということは、「ハラル」すべき方を「ハラル:誇る」ことができていないということです。上記の1つ目の箇所の続きには、このように記されています。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。−−【主】の御告げ−−」主を「ハラル:ほめたたえ」、主を知っていることを「ハラル:誇る」者となりましょう。(吉持尽主伝道師)