20140907 私たちの食生活 ― 2014年09月07日
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。 創世記9章3節
神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。 創世記1章29節
上記創世記9章3節は、注意して読まなければ、普通に読み過ごしてしまいそうな箇所ですが、上記2つ目の聖書箇所、創世記1章29節と読み比べる時、とても興味深い箇所になります。なぜならこれらの箇所から大洪水前の人間の食生活と大洪水後の人間の食生活の違いが見えてくるからです。具体的には大洪水前は草食で、大洪水後は雑食です。
『創造論の世界』(久保有政著、徳間書店、1995年)という本の中では、このことを、この世界的な大洪水によって地球環境が大きく変化し、植物だけを食料にするのに限界が生じたため、と説明しています。また私たちの臓器に、機能はしていないけれども草食動物に見られる「盲腸」が存在することを、人間がかつて草食動物であったことの証しと説明する人もいます。どちらにしろ聖書の記述の記録が、私たちの体の中にも残っているとなると、なかなか興味深いことではないでしょうか。
その聖書が、私たちの食生活について、もう一つ書いていることがあります。それは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)です。つまり私たちの食生活は、聖書が示す通り草食から雑食に変わったのかもしれませんが、実は神さまに似せて造られた私たちには、その似せられたところの神さまから発せられることばが必要だと聖書は語ります。私たちが神のことばが書かれている聖書を大切にするのは、そのためです。ですから私たちは、神に似せて造られた者として、より生き生きとした人生を歩むために、毎日聖書を読み、毎週礼拝を献げるのです。ぜひあなたの人生にも神さまのことばを取り入れましょう。
神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。 創世記1章29節
上記創世記9章3節は、注意して読まなければ、普通に読み過ごしてしまいそうな箇所ですが、上記2つ目の聖書箇所、創世記1章29節と読み比べる時、とても興味深い箇所になります。なぜならこれらの箇所から大洪水前の人間の食生活と大洪水後の人間の食生活の違いが見えてくるからです。具体的には大洪水前は草食で、大洪水後は雑食です。
『創造論の世界』(久保有政著、徳間書店、1995年)という本の中では、このことを、この世界的な大洪水によって地球環境が大きく変化し、植物だけを食料にするのに限界が生じたため、と説明しています。また私たちの臓器に、機能はしていないけれども草食動物に見られる「盲腸」が存在することを、人間がかつて草食動物であったことの証しと説明する人もいます。どちらにしろ聖書の記述の記録が、私たちの体の中にも残っているとなると、なかなか興味深いことではないでしょうか。
その聖書が、私たちの食生活について、もう一つ書いていることがあります。それは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)です。つまり私たちの食生活は、聖書が示す通り草食から雑食に変わったのかもしれませんが、実は神さまに似せて造られた私たちには、その似せられたところの神さまから発せられることばが必要だと聖書は語ります。私たちが神のことばが書かれている聖書を大切にするのは、そのためです。ですから私たちは、神に似せて造られた者として、より生き生きとした人生を歩むために、毎日聖書を読み、毎週礼拝を献げるのです。ぜひあなたの人生にも神さまのことばを取り入れましょう。
20140914 遣わされる神さま ― 2014年09月14日
①そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
創世記11章4節
②こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。 創世記11章8節
③神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。
創世記1章28a節
④それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 創世記9章1節
上記①②の聖書箇所は、旧約聖書中よく知られている「バベルの塔」の一節です。バベルの人々が塔を建てた理由は「われわれが全地に散らされないため」でした。一方神さまがバベルの人々を混乱させた理由は「散らすため」でした。これらの箇所からわかることは、③④の聖書箇所にある通り神さまは天地創造以来、またノアの大洪水後も「地を満たせ」と全地に広がっていくことを望まれています。それに対してバベルの人々は「全地に散らされたくない」と神さまの意志に対抗したのです。しかし、神さまは、ことばを混乱させ散らされました。
さて天地創造の時から「地を満たせ」と言われる神さまは、私たちをも「地を満たす」ために各地に派遣し、各地に散らされます。「散らされること」は寂しいことですが、このバベルの塔から学べることは、「地を満たす」ことへの神さまの強いご意志です。ですから教会も、人々が「集まってくること」だけを考えていると、神さまはどこかで介入され「散らされる」ことでしょう。そのようにならないために教会は、力強く宣教していくために多くの方々がここに集められてくることを願いつつ、それと同じくらいの思いで宣教のため、また伝道のために人々を送り出すことを考える必要があるのです。共に集まり、共に遣わされていきましょう。
創世記11章4節
②こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。 創世記11章8節
③神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。
創世記1章28a節
④それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 創世記9章1節
上記①②の聖書箇所は、旧約聖書中よく知られている「バベルの塔」の一節です。バベルの人々が塔を建てた理由は「われわれが全地に散らされないため」でした。一方神さまがバベルの人々を混乱させた理由は「散らすため」でした。これらの箇所からわかることは、③④の聖書箇所にある通り神さまは天地創造以来、またノアの大洪水後も「地を満たせ」と全地に広がっていくことを望まれています。それに対してバベルの人々は「全地に散らされたくない」と神さまの意志に対抗したのです。しかし、神さまは、ことばを混乱させ散らされました。
さて天地創造の時から「地を満たせ」と言われる神さまは、私たちをも「地を満たす」ために各地に派遣し、各地に散らされます。「散らされること」は寂しいことですが、このバベルの塔から学べることは、「地を満たす」ことへの神さまの強いご意志です。ですから教会も、人々が「集まってくること」だけを考えていると、神さまはどこかで介入され「散らされる」ことでしょう。そのようにならないために教会は、力強く宣教していくために多くの方々がここに集められてくることを願いつつ、それと同じくらいの思いで宣教のため、また伝道のために人々を送り出すことを考える必要があるのです。共に集まり、共に遣わされていきましょう。
20140921 神さまの祝福のすばらしさ ― 2014年09月21日
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。 創世記12章3節
創世記12章は、神さまが最初にアブラムと契約を結ばれた箇所です。その内容は「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行」(1節)くことを条件として、神さまは「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し」(2節)と、大いなる国民にすることと、祝福することを約束しています。
そして、この神さまがアブラムと約束された祝福のすばらしさ、豊かさが、上記聖書箇所に言い表されています。アブラムを祝福された神さまは、アブラムに「あなたが祝福する者をわたしは祝福し、あなたがのろう者をわたしはのろう」と言われたのではありません。「アブラムが」ではなく、「アブラムを祝福する者を神さまは祝福し、アブラムをのろう者を神さまはのろう」と言われているのです。つまり、アブラムが「父の家を出て、神さまが示す地に行く」その旅先で、どのように存在するのかが問われてくる内容です。旅先でアブラムのことを祝福してくださる人たちがいれば、神さまはその人たちを祝福し、旅先でアブラムのことをのろう人たちがいれば、神さまはその人たちをのろうというのです。
そして今日、この契約の恵みの中に入れられている者として、私たちクリスチャンも含まれます。クリスチャンが、それぞれの家の宗教から離れ、神さまが示す道を歩み始める時、神さまは今もアブラムに語られたようにあなたにも語られます。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と。ですからあなたが家庭の中にあって、職場や、学校、そして地域の中にあって、あなたのことを祝福する人がいれば、神さまはその人を祝福してくださいます。また逆にのろわれたり、いじわるされたりするようなことがあっても、私たちがいちいちそれに応じなくても、神さまが責任をもって対応してくださるのです。あなたも、これからの人生を、このアブラムの契約の恵みに包まれて歩みませんか。
創世記12章は、神さまが最初にアブラムと契約を結ばれた箇所です。その内容は「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行」(1節)くことを条件として、神さまは「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し」(2節)と、大いなる国民にすることと、祝福することを約束しています。
そして、この神さまがアブラムと約束された祝福のすばらしさ、豊かさが、上記聖書箇所に言い表されています。アブラムを祝福された神さまは、アブラムに「あなたが祝福する者をわたしは祝福し、あなたがのろう者をわたしはのろう」と言われたのではありません。「アブラムが」ではなく、「アブラムを祝福する者を神さまは祝福し、アブラムをのろう者を神さまはのろう」と言われているのです。つまり、アブラムが「父の家を出て、神さまが示す地に行く」その旅先で、どのように存在するのかが問われてくる内容です。旅先でアブラムのことを祝福してくださる人たちがいれば、神さまはその人たちを祝福し、旅先でアブラムのことをのろう人たちがいれば、神さまはその人たちをのろうというのです。
そして今日、この契約の恵みの中に入れられている者として、私たちクリスチャンも含まれます。クリスチャンが、それぞれの家の宗教から離れ、神さまが示す道を歩み始める時、神さまは今もアブラムに語られたようにあなたにも語られます。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と。ですからあなたが家庭の中にあって、職場や、学校、そして地域の中にあって、あなたのことを祝福する人がいれば、神さまはその人を祝福してくださいます。また逆にのろわれたり、いじわるされたりするようなことがあっても、私たちがいちいちそれに応じなくても、神さまが責任をもって対応してくださるのです。あなたも、これからの人生を、このアブラムの契約の恵みに包まれて歩みませんか。
20140928 祭壇を築き祈りを献げる旅 ― 2014年09月28日
そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。 創世記13章4節
創世記12章1節でアブラムは、神さまから「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われ、75歳にして旅に出ました。けれどもその旅は、神さまが示される地へ一直線という旅ではありませんでした。上記聖書箇所で「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所」と記されていることから分かります。どうでしょうか。行き先も分からず、神さまに信頼して出発したにもかかわらず、その神さまが、また同じ場所へと戻されてしまうというのは、とても辛く、残念なことです。「すごろく」でかなり前に進んだところで、ふりだしにもどされるような寂しさを覚えます。
けれどもアブラムは、そのように導かれる神さまに背を向けることなく、再びその場所で祭壇を整え、主の御名によって祈ったと聖書は記しています。私たちも、このアブラムの姿勢に倣いたいものです。なぜなら私たちの人生も神さまがお導きになるのですが、同じ所を巡っているような経験をするからです。そのような時、皆さんはなかなか成長しない自分を責めたり、同じことを経験させられる神さまに背を向けたりしてこなかったでしょうか。堂々巡りと思えるような時こそ、神さまの前に祈りを献げる必要があるのです。なぜまた同じ経験をさせられるのか、なぜまたここに戻されたのか。神さまは意味のないことをなさらないお方だからこそ、祈りを通してその意味を教えてもらうしかありません。
アブラムは、旅先でよく祭壇を築き祈りを献げ、神さまが示す地へと進んで行きました。あなたも人生の困難、迷い、不安に直面したら、その時は足を留め、祭壇を築き、主の御名によって祈ることです。神さまは、必ずあなたを神さまが示す地へと導いてくださいます。この神さまに信頼し、祈りつつ前に進んで行きましょう。
創世記12章1節でアブラムは、神さまから「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われ、75歳にして旅に出ました。けれどもその旅は、神さまが示される地へ一直線という旅ではありませんでした。上記聖書箇所で「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所」と記されていることから分かります。どうでしょうか。行き先も分からず、神さまに信頼して出発したにもかかわらず、その神さまが、また同じ場所へと戻されてしまうというのは、とても辛く、残念なことです。「すごろく」でかなり前に進んだところで、ふりだしにもどされるような寂しさを覚えます。
けれどもアブラムは、そのように導かれる神さまに背を向けることなく、再びその場所で祭壇を整え、主の御名によって祈ったと聖書は記しています。私たちも、このアブラムの姿勢に倣いたいものです。なぜなら私たちの人生も神さまがお導きになるのですが、同じ所を巡っているような経験をするからです。そのような時、皆さんはなかなか成長しない自分を責めたり、同じことを経験させられる神さまに背を向けたりしてこなかったでしょうか。堂々巡りと思えるような時こそ、神さまの前に祈りを献げる必要があるのです。なぜまた同じ経験をさせられるのか、なぜまたここに戻されたのか。神さまは意味のないことをなさらないお方だからこそ、祈りを通してその意味を教えてもらうしかありません。
アブラムは、旅先でよく祭壇を築き祈りを献げ、神さまが示す地へと進んで行きました。あなたも人生の困難、迷い、不安に直面したら、その時は足を留め、祭壇を築き、主の御名によって祈ることです。神さまは、必ずあなたを神さまが示す地へと導いてくださいます。この神さまに信頼し、祈りつつ前に進んで行きましょう。
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