20140803 あなたはカインの子孫?それともセツの子孫?2014年08月03日

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。        創世記4章26節

罪を犯し、神さまの元から追放されたアダムとエバの間には2人の男の子が誕生します。その名はカインとアベル。聖書は、その兄と弟との間に殺人が起こったことを記します。そしてその殺人に対して、神さまはカインに「さすらい人になる」と宣言します。「さすらい人」となったカインは、その後ノデの地に住み着き、そこで結婚をし、子どもが与えられ、町を建てたことが創世記4章に淡々と記されています。しかも、その後もカインの子孫たちの活躍が記されます。カインの子孫ヤバルは家畜を飼う者の先祖となり、ユバルは立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となり、トバル・カインは青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋になったと記されています。
一方アベルの代わりに神さまから授かったセツの子孫のことはただ一つのことだけが記されます。それが上記聖書箇所です。しかも「エノシュ」という名前の意味は、「弱さ」を意味することばであり、「死すべき存在」を意味することばです。
さて「さすらい人」の子孫が強くなり、神さまから与えられた「セツ」の子孫が弱さの中で祈るようになったというのは、何かちぐはぐな印象を受けます。しかし、ここに「弱さ」を自覚した者の2つの生きる道が読み取れます。カインとその子孫は「弱さ」を自覚したからこそ、町を建て、家畜を飼い、楽器を奏で、農具も武器も作る鍛冶屋となったのです。それに対してセツとその子孫は、ただ一つ「主の御名によって祈ることを始めた」のです。
あなたは、今、どちらの子孫として歩んでいますか。「弱い」からこそ一生懸命この地上の力を身につけようと必死になっているのか、それとも「弱い」からこそ私たちを愛していて下さる神さまに祈ることをもって生きているのか。本当の「弱さ」からの脱却は、全知全能なる神さまを「アバ、父」と呼べる関係になることです。共に「主の御名によって祈る」力強い歩みをしていきましょう。

20140810 彼のかたちどおりの子を生んだ2014年08月10日

アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。                    創世記5章3節

創世記5章は、私たちの目を疑うような数字が続きます。アダムの生涯は930歳(5節)。アダムの子セツの生涯は912歳(8節)。セツの子エノシュの生涯は905歳(11節)と、このように驚くべき数字が続きます。けれどもその後、読み進めると27節、アダムから8代目のメトシェラが969歳生きたとあり、聖書を読む限りこのメトシェラさんが最高長寿者です。
さてこのような、超長寿な数字が続く中で、ほのぼのできる箇所もあります。それが上記聖書箇所です。少しアダムになった気分で読んでみると、アダムとエバにとって妻エバのお腹が膨らみ、だんだん大きくなるにつれ、不安を覚えたことでしょう。何が入っているのか、この先どうなるのか…。このような不安を抱えながら、生まれてきた子どもを見て安堵した。そのようなアダムとエバの思いがこの3節に現われています。「彼のかたちどおりの子を生んだ」。今であれば当たり前のことですが、最初の人間アダムとエバにとっては不安だったのでしょう。自分たちのかたちどおりの子どもで良かったと思ったことでしょう。
しかし「彼のかたちどおりの子を生んだ」には、もう一つ忘れてはならない意味があります。それはアダムとエバは、神のかたちに似せて造られた存在でしたが、アダムとエバの子どもたち、そしてその子孫にあたる私たちは「アダムとエバのかたち」に似た存在だということです。つまり私たちは「神のかたちに似せて造られた存在」と「アダムとエバの罪性」とが共存しているのです。ですから私たちは神さまに似た性質を持ちながらも、罪ゆえにその性質がゆがめられ、それゆえに様々な問題、課題に直面します。だからこそ私たちは神さまのことばである聖書に親しみながら、神さまに似た性質がより良く、より強く働くようにする必要があるのです。ぜひ共に聖書に親しみましょう。

20140817 神さまの覚悟、神さまの決意2014年08月17日

しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。        創世記6章18節

創世記6章には最近映画にもなった「ノア」が登場します。その時代の状況が5節にも記されていますが、その後も続きます。6節「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」、7節「わたしはこれらを造ったことを残念に思う」、11節「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」、12節「すべての肉なるものが、地上でその道を乱していた」とあります。
そのような中にあって9節でノアのことが紹介される箇所だけは、読むとホッと、させられます。8~9節「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。(中略)ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」とあります。ノアは、このような時代の中にあって、いかにして正しく、全き人として、神さまと共に歩めたのでしょうか。その源は、ノアが神さまと祈りを通してしっかりと向き合えていたことです。13節以降神さまがノアに語られたことばが記されていますが、神さまはノアに具体的に語られ、ノアも神さまからのことばを忠実に行なっています。しかもゴフェルの木を切って造った箱舟は、海辺ではなく、山に近いところで組み立てられたと考えられます。海のないところに大きな箱舟を造れば、当然人々から嘲笑されたことでしょう。しかしノアは、神さまのことばを忠実に行ないました。そのようなノアに対する神さまの姿勢が18節に記されています。「わたしは、あなたと契約を結ぼう」。ここに神さまのノアを守る決意、ノアを救う覚悟が伺えます。
同じように今日、同じ神さまが、私たちに「わたしと契約を結ぼう」と語りかけて下さっています。その契約とは、神さまのひとり子イエスさまの十字架によって結ばれる契約です。ここに昔も今も変わらない、契約した者を守る決意、救う覚悟が伺えます。あなたもこの神さまと契約を結びませんか。イエスさまを信じてこの契約の中に入りましょう。

20140824 過去を断ち切ってくださるお方2014年08月24日

入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。 創世記7章16節

箱舟の中にすべての生きものが入った時、箱舟に起こった出来事。それが上記聖書箇所に書かれていて、「主はうしろの戸を閉ざされた」ですとあります。この状況描写には、とても意味深いものを感じます。
創世記6章5節に「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」とあります。神さまが、このような過去を断ち切るためになされたこと。それがノアの箱舟であり、具体的には箱舟のうしろの戸を閉ざすことでした。そこに過去を断ち切る神さまの姿を見ます。人のどんな力も、権力も、財力も、私たちをそれぞれの過去から断ち切る力とはなり得ません。神さまだけが、私たちのうしろの戸を閉ざすことのできるお方です。そのことが、この箇所に言い表されています。ノアがうしろの戸を閉ざしたのではなく、主、神さまご自身が、うしろの戸を閉ざし、これまでの悪からのつながりを断ち切ってくださったのです。
今の時代も多くの方々が、自分の過去を断ち切ることができず、苦しみ、疲れ果て、過去にがんじがらめにされ、身動きできない状況に追いやられています。そのような過去を断ち切るために神さまが用意してくださっているもの、それが現代の箱舟と言える「教会」です。「教会」こそ現代の「箱舟」です。そこに入ると、今も神さまがうしろの戸を閉ざしてくださり、私たちのどんな過去からも断ち切ってくださいます。
今あなたは、自分の過去に苦しんでいませんか。自分の過去に押しつぶされそうになっていませんか。イエスさまは、マタイの福音書11章28節で「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と語られています。あなたもキリストのからだである教会に来て過去という重荷を下ろし、そこから始まる新しい人生を歩み出しませんか。

20140831 聖い風(聖霊)が吹くように!2014年08月31日

神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。
                            創世記8章1節
ノアの洪水物語は、40日40夜の雨(創世記7章12節)の後、150日間水が増え続け(創世記7章24節)、150日の終わりに減り始めた(創世記8章3節)とあります。水が増え続ける場面から、水が引き始める場面へ切り替わる時に起こった出来事、それが上記聖書箇所です。「神が地の上に風を吹き過ぎさせると」と「風」が吹きました。
ここで「風」と訳されているヘブル語は「ルアハ」で、「霊、風、息」と訳されることばです。例えば天地創造前の「神の霊が水の上を動いていた」(創世記1章2節)では「霊」と訳され、ノアの洪水物語の「いのちの息のあるすべての肉なるもの」(創世記7章15節)では「息」と訳されています。
また聖書は、変化が起こる状況を風と共に印象深く記しています。風が吹くと共に「あなたは、どこにいるのか」との神さまの声を記し(創世記3章)、風が吹いて大洪水の水が引き始め、風が吹いてペンテコステの出来事が起こりました(使徒の働き2章)。
私は、この夏場、教会に来ると最初にするのが窓開けです。1階のシャッターと各部屋の窓を開け、2階の集会室、そして礼拝堂の窓を開けると、気持ちの良い風が教会の中を通り抜けていきます。私は、その通り抜けていく風を感じながら「聖なる風がこの教会に吹くように」「この礼拝堂が聖い霊(風)で満たされるように」と祈っています。
この礼拝堂で熱き祈りが献げられ、熱き求道の思い、熱き救霊の思いが折り重ねられていく時、この教会にも聖霊(聖なる風)の上昇気流が生まれてくることでしょう。
それぞれの熱き祈り、熱き思いを持ち寄り共に礼拝を献げましょう。