20140601 生かす御霊 -高麗聖書教会牧師時代③-2014年06月01日

 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。          第1コリント15章45節
 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
                          第2コリント3章6節

「捨てるんでなく、いかに活(生)かすかだ!」どのような状況であったか詳しく思い出せませんが、教会として何かを捨てるか捨てないか、処分するかしないか、そのような話し合いの場での役員さんの発言でした。その役員さんは、会社を経営され多くの障がい者を雇用しておられる方でした。
確かに聖書も、土地のちり(灰)で人を形造り「いのちの息を吹き込まれ」人を生きものとしていますし、エジプトに売られたヨセフを生かし、ミデアンの地に逃れたモーセを生かし、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を生かし、キリスト者を激しく迫害していたパウロを生かしています。聖霊なる神さまは生かす御霊ですからクリスチャンも、教会も、あの時役員さんが言われた通り「いかに活かすか」から考え始めるべきだと教えられました。
高麗聖書教会は、韓国とゆかりのある地域ゆえに、日韓ワールドカップ以降韓国からの短期宣教チームがたくさん来訪しました。それらのチームに常に共通していた霊的雰囲気は、やはり「生かす御霊」の働きでした。翻って日本に目を向けるとどうでしょう。「出る杭は打たれる」ということばがある国だからでしょうか、まだまだ一般的には、教会の中にある「しよう」「やろう」という思いをつぶそう、阻止しようとする動きが見られるように感じます。そのような中にあって私たちは、「生かす御霊」の働きを大切にし、その働きをしっかりと継承していきたいと思わされます。どんなに小さな思いであっても、どんなに大きな計画であっても、生かす御霊の助けを頂いて共に「生かす」働きに邁進していきましょう。

20140608 キリスト教主義学校での15年 -高麗聖書教会牧師時代④-2014年06月08日

 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。    マタイ10章40節

私は1999年4月から「聖望学園」で聖書を教えてきました。大阪では阪神タイガースの鳥谷敬選手の出身高校と言った方がわかりやすいでしょうか。
さてキリスト教主義学校での授業は、とてもチャレンジに満ちています。それは、聖書に、またイエスさまに全く関心のない子どもたちに聖書を、またイエスさまのことを伝えるからです。牧師として教会にいると、接するのは肯定的、または否定的であっても聖書に、またイエスさまに関心のある方々です。私も牧師として関心のある方々へのアプローチはそれなりに経験してきましたが、全く関心のない人たちへの取り組みは初めてでした。牧師をしていただけでは、なかなか経験できなかったことですので、とてもよい機会が与えられたと神さまに感謝しています。
私が、教える経験を重ねる中で大切にしたことは、知識を覚えさせることより、クリスチャンとして、牧師として彼らの心の中に、また人生の中にどのような印象を残すかでした。出席を取る時は必ずフルネームで呼ぶこと、授業の最初に賛美と祈りを献げること、寝ている生徒には優しく起こして糖分補給(アメの提供)をすること、内職をしている生徒には「内職はダメやけど、自己効力感を高める行為はOK」と励ますこと、携帯を教卓からは見えない太ももあたりでいじっている生徒には「もう少し上げないとストラップが見えてるよ」と優しくやめるように注意することなど、生徒ひとりひとりを大切にする印象が残ればと願い取り組みました。
いつの日か、社会の中で大切にされない寂しさに直面した時、教会に行けば、イエスさまの元に行けば、大切にしてもらえると、教会に、イエスさまの元に戻ってきてくれることを願っています。ぜひお祈りください。

20140615複数で牧することの恵み-高麗聖書教会牧師時代⑤-2014年06月15日

 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。                     第1コリント3章6節

1999年春、ちょうど「聖望学園」で聖書を教えることが決まりかけていた頃、若村和仁師(茨木聖書教会出身の献身者で、現在高麗聖書教会伝道所原市場聖書教会牧師)から電話がありました。内容は、大阪キリスト教短期大学神学科第2部卒業後の進路がなかなか決まらないこと、高校生伝道への思い等、色々話してくれました。その中で私が提案したことは、高麗聖書教会の教会スタッフをしながら、関東で高校生伝道のお手伝いをしないか、というものでした。
神さまは、不思議に道を開いて下さり1999年度、若村和仁師は高麗聖書教会内福祉作業所に住み込み、高麗聖書教会と高校生伝道のお手伝いを始めました。私にとってこれが複数で牧会する初めての経験でしたが、神さまからたくさんの祝福をいただきました。その一部を数字で紹介すると礼拝出席者の平均は前年度比1.33倍(34.29人→45.65人)になりました。その後も複数で牧会することを心がけ2000年には女性伝道師を受け入れ、2001年には女性伝道師に代わって男性伝道師を受け入れましたが、その時はとても苦い経験をしました。複数での牧会は良い関係が築ければ1+1=2以上の働きを生みますが、良い関係が築けないと1-1=0以下の働きになる体験でした。けれども高麗聖書教会で経験してきた複数での牧会の歩みは、振り返る時そこにあるものは、人との関わりにおいても、宣教の拡がりにおいても、また御言葉からのメッセージにおいても、とても豊かなものでした。
茨木聖書教会も、これまで複数での牧会を重ねてきました。働き人を派遣する教会として、私もそのひとりですが、伝道師は迎えるものの数年経つと送り出すという歩みを繰り返してきました。けれども創立50周年を迎え、さらに多くの献身者を送り出すために腰を据えた複数牧会を祈り求めていく時期に来ていると思わされています。良い伝道師、またはよい副牧師が与えられますように祈りましょう。

20140622 造り出す喜び2014年06月22日

 初めに、神が天と地を創造した。            創世記1章1節
 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。                創世記1章27節
 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。   エペソ4章16節

聖書の最初、創世記1章には、神さまが天と地を創造されたことが記されています。これは神さまの中心的な特徴です。創世記1章を読むと、神さまは、天と地だけを創造されたのではなく、「大空(天)」を造り、「太陽」を造り、「月」を造り、さらに「鳥」を造られています。また「地」を造り、そこに「植物」「動物」を造り、そして「人間」を造られています。まさに神さまは、次から次へと創造され、最後に「見よ。それは非常に良かった」と造られたものを喜んでおられます。
 この神さまに似せて造られた人間も、やはり何かを造り出すことに喜びを覚える特徴があります。そして造ったものが「いいね!」と評価されるとうれしくなるのも神さまに似せて造られた人間だからでしょう。前の教会で福祉作業所をしながら見てきた風景も同様のものでした。封入作業にしろ、シール貼りにせよ、作業を通して何かが生み出されていき、それが誰かの役に立ち「いいね」と言ってもらえる時、その作業に携わってきた人たちの表情は輝き始めます。
 さて私たちクリスチャンには、幼子から人生の大先輩まで、誰ひとり例外なく神さまから託されている使命があります。それは、この地にひとりひとりの存在を通してキリストのからだを造り出す使命です。私たちが「しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられ」ていく時、私たちの顔も輝きます。お互いの存在を必要とし、共にキリストのからだを建て上げ、共に輝きましょう。

20140629 生きるものとなるために2014年06月29日

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。                    創世記2章7節
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。 伝道者の書12章7節

私たちは、人が亡くなられた時のことを「息を引き取られました」と言います。古(いにしえ)の日本人は、人が亡くなる時「息を引き取られる」方がいることをなんとなく感じていたのでしょう。
またイエスさまは、旧約聖書のことばを引用して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られています。「息」を「ことば」と、より具体的に言い表しています。
これらの箇所から、人は、食べ物があり、必要な物があり、それらが充分に満たされていれば生きものとなれるのではないことがわかります。実際にお金があり、健康であっても生きることを辛く思っている方々もおられますし、お金がなくても、また健康でなくても、いきいきと生きている方々もおられます。まさにその違いは神さまのことばの有無です。今は、旧約聖書アモス書8章11節にある通り「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである」と言える時代なのでしょう。
ですから私たちは、主(神さま)のことばを聞くことのできない、まさに主のことばのききんの中に置かれている方々に聖書のことばを伝えていく必要があります。けれども、ただ伝えれば良いのではありません。私たちのまわりのひとりひとりが、みことばを通していきいきとされていくことを願い、愛を持って、時宜にかなった神さまのことばを届けていきたいものです。丁寧に宣べ伝えていきましょう。